小林美希の取材日記(つぶやき)

取材を通して思う素朴な疑問や、日々の出来事を紹介します。 

今週の週刊エコノミスト

2017-06-26 09:51:49 | Weblog

 本日発売(一部地域を除く)の週刊エコノミスト(7月4日号)で、久々に書いています。

 ミニ特集、「増やすな!ブラック保育園」のなかで、「 経験乏しい若手のみの修羅場 保育士に「人件費」が回らない 」。

 認可保育園を運営する費用(委託費)は、国、都道府県、市区町村(税金)と親が払う保育料で成り立っている。本来は、子どものための費用で、きちんと子どものため、子どもをみる保育士のために使うべき税金と保育料。
 
 ところが、国が認める「委託費の弾力運用」という構造問題で、委託費を私物化している株式会社や社会福祉法人では、本来は7割かけるべき人件費比率を5割、4割、ひどいところは3割までに抑え込んで、他に流用している。これがブラック保育園をうむ最大の原因となっていることを指摘しています。

https://www.weekly-economist.com/20170704contents/

追記:しつこいようだけど、認可保育園を運営する「委託費」は「税金」と「保育料」による。国民の税金と、親がいろいろ葛藤しながら苦労しながら働いて得た収入から出している「保育料」だ。それを正しく使わない保育園があまりに増えていて、これを許してはいけないと強調したい。

待機児童ワークショップ

2017-06-21 23:40:49 | Weblog

 6月21日は、連合が主催する待機児童問題のワークショップに参加。コーディネーターに荻上チキさん、現場保育士の方と、なんと、女優の釈由美子さんも一緒に登壇!なかなか面白いイベントでした。

 近いうち、ユーチューブで全容が紹介されます!

 先行して、釈さんのブログをご紹介!
 問題意識をもち、とても話しやすく、お人形のように可愛かった~

釈さんは、自営業扱いになるため、役所では最初から無理と言われて、家族でなんとか子どもを見てもらいながら、地方や泊まりの仕事をセーブして調整しつつ仕事をしているとのこと。妊娠・子育て期の女性の半数以上が非正規や自営業という時勢の問題を体験していて、会場の皆で共感しながらの会になりました。

https://ameblo.jp/yumiko-shaku/page-3.html

1999年2月某日

2017-06-13 00:35:26 | Weblog

 1月25日の朝日新聞の1面にあったのか、そんなメモもあり
 「権力への監視と批判は新聞言論の不変の使命」と私のノートに綴られている。


 2月、朝日新聞のセミナーを受けていた。ここで、新妻義輔さんの講義を再び聞くことになる。

 以前、週刊エコノミストの編集後記にも書いた「もがくカエル」は、この日に聞いた話だ。
 当時のノートをここに記す。


 新聞はもう1つの口
 国民と共に、国民の中に根をはる新聞、国民の共有財産が老舗

「もがくカエル」は新聞記者 砂をかむような仕事

 牛乳瓶の中に入ってしまった3匹のカエルがいた
 楽観主義のカエルはただ助を待っていた
 悲観主義のカエルはもうダメだと何もしないでいた
 現実主義のカエルは、じたばたもがいて抜け出そうとしているうちに、牛乳が固まって外に飛び出ることができた

 楽観主義も悲観主義もダメで、現実主義で、もがくこと 身を粉にしてコツコツ動き回る
 努力るす天才であれ

 最高の力を常にいかに発揮するか
 普通の人が気づかないことを一歩先に読み取る

 志、こだわり、勇気

 踏むべき茨の道を踏め
 簡単に挫折、諦めないこと 希望を持ちすぎないこと

 ジャーナリストは当事者ではなく、観察者で静かに事実をつかみ取る
 うけをねらう役者でもなく、雰囲気にのまれてしまう観客でもない

 私憤ではなく、公憤に基づいて考え動く
 
 (自身の経験談)
 1969年、森永ヒ素ミルク事件を追っていた。大阪大の医学部 追跡調査をしていたことスクープ
 記者会見 何%の人が後遺症があったかと質問すると、「「%」で人間をはかるのか、弱者のためは嘘」と言われた。1人でも苦しんでいる人がいたら、それは弱者。

 戦争と軍事はいけない。知性と理性で解決

 戦争ほど新聞にとっての天敵はない
 

1999年2月16日

2017-06-13 00:16:03 | Weblog

 この日、NHK大阪のマスコミ受験塾のような場で、朝日新聞大阪本社の編集局長、新妻義輔さんの講義を聴いていた。
 のちに、私の記者生活に大きな影響を与えた人物だ。
 この時に出会ったマスコミ受験仲間は、今も大切な友人である。

 当時のノートをここに記しておきたいと思う。
 新妻氏は、生まれ変わっても朝日の記者になりたいと言っていた。

 記者一人ひとりの意欲と力量 新聞を支える個の力
 時間の制約のなかで、正確さと速さ
 成功の4分の3は努力(ゲーテ) 積立貯金型人生
 ささいな事 1つ1つに真剣に取り組む

 志、こだわりが大事 勇気

 新聞の誇りと生きがい 人々の平和、安定を求めて「挫折は新たな挑戦・発送への引き金」

 カナリア(毒ガスを敏感に察知)
 記者は、きりはのカナリア(社会に発生する有毒ガスを真っ先に感じる)

 時代の声、風を感じ取る目、先見性、時代を読む力

 権力批判
 新聞言論の不変の使命
 正義は1人から始まる ジャーナリスト精神

 少数者の立場になる 弱者は社会を判定する重要な指標
 社会の底辺を歩んだ人には、これ以上ない底辺に座り込んだ醍醐味がある
 弱者を切り捨てることは、人間を捨てることの始まり

 少数意見の正否を見抜く眼力
 
 「公正中立」とは、左と右の真ん中ではない。1つの政策について、「私はこう思う」ということ
 事実から出発
 現場主義

 目、耳、肌、鼻、口 全ての感覚感性を用いて対象に迫る
 地を這う職業

 自民党の金丸の脱税スクープは1年間、砂をかくような取材によるもの

 誰に見られても恥ずかしくない取材、生き方 情報源に取り込まれてはいけない
 謙虚さが必要 人柄が大事 聞き上手 相手の立場にたってものを考える

 新聞 戦争が起こったら機能しない(政府が情報を握る)
 受験を勝ち抜いてエリート意識丸出しの記者はダメ

 謙虚で責任感の強い記者
 優しさ、誠実さ、謙虚さ
 頭は低く、志は高く
 常に市民と共に、市民の中に
 動いている標的を撃ち続ける瞬発力、持続力、発掘力、攻め
 どこまでも冷静で、残される可能性のなかで放棄しないで頑張る
「どんなに苦しい時があっても夢が実現する時はくる」(マーチン・レ・キング)

 失敗を伴わない勝利はない

 勉強 新聞・書物を読む

 ヤブシタ しょううじろう(1月に亡)車いすの記者
「ジャーナリストにとって不勉強と無知は犯罪だ」

 不器用のすすめ
 敗者の中に新しい生き方が生まれる

 朝日は「老舗」 古い商いを守っているわけではない
 生き残るのは新しさ、言論 国民の知り権利
 護憲、非軍事、安保縮小

 

日記を取り出したきっかけ

2017-06-12 23:50:45 | Weblog

 さて、前回のブログ。本当に書こうと思ったのは、今回のこと。

 6月12日、沖縄県知事だった大田昌秀(おおた・まさひで)氏が亡くなったと知ったからだ。

 1999年5月3日、憲法の日。当時、神戸大学に通学していた私は、朝日新聞の神戸支局が開催した憲法のシンポジウムを聴きに行った。その時、大田氏が講演した。ノートによれば、「5・3 言論の自由を考える集会」。朝日新聞の神戸支局は、記者が銃弾に倒れた事件が起きていたため、その意味も込められていた。

 ノートに書かれたものによると、

 大田氏は、おきなわ復興のための予算について、戦後27年間で4兆5000万円(?)、1年の軍事費が4兆円

 自衛隊法について懸念。ベトナム戦争はまちがいと後から言われても・・・あえて発表したのは後世のため。同じ過ちを繰り返さないため。

 「構造的暴力」「基地の中に沖縄がある」

 在日・アイヌ・女性・沖縄 これらが存在する限り「平和」はありえない


 とメモが残っていた。

 戦後の復興予算と1年の軍事費が同じ額ということの矛盾、構造的暴力という言葉に考えさせられた記憶が鮮明に残る。

 が、ノートには、こうも書かれていた。

 「就職活動くらいで負けてちゃダメだなー。でも、やっぱ悩む。こういう集会に出ると、新聞記者もいーなーって思うけど、それは採用おちたからかも。大田さん見て、すごく憧れるけど、一政治家であることの力の限界を見せつけられてしまうと、また、わからなくなる。けど、けど・・・・・。でも、やっぱり、私は自分の使命感のためなら、死ぬ覚悟もできると思った。1年たって、やっぱり、まだ進路について悩んでいても、それでも、想いは変わらないな。ますます、強くなる。どうしよう・・・。」

 若い!
 不安定な日と元気を出している日が交互にある。

 「1つの道を選ばなくていい。私の生きる道は、1つじゃないもん」

 この頃、政治家になりたいと思っていながら一般人は無理だと思って、弁護士を目指すか、学者を目指すかと悩み、2年も浪人しちゃっていたから、時間もお金もないと思って就職=マスコミ志望だったんだなぁ。

 

1999年4月の頃

2017-06-12 23:38:47 | Weblog

 大学4年の時、就職活動気のノート(日記)がまだ残っていて、チラチラ見ていた。

 1999年4月は、マスコミ受験を第一志望に、ほぼ全産業の会社を受けられるだけ受けていた。

 当時、都銀でリクルーター面接が進み、最後、落ちたのだが、仲良くなったリクルーターが、「女子の総合職はかなり絞り込まれていた」という旨を教えてくれていた。ノートには、「女の子っていうだけで内定出なかった。涙が出るくらい悔しい。この悔しさは一生忘れないと思う」などなど書いてった。その後も、生保や電工や電力など、次々に落ちていく。

 この頃、わりと有名な人と知り合っていて、電話で「なんだ、銀行落ちて良かったじゃん!逃げ道を作るなよ。マスコミで頑張れ。初志貫徹しろ」と励まされていた。もう一人、よく相談相手になってくれていた有名人がいて、「才能ある奴は努力を当たり前のようにやる、才能ない奴にとって努力は苦痛」と励まされていた。「環境の変化によって気づく自分のものの見方が哲学であり、それが生き方になる」と。「会社の手先になるな、出る杭でも、たおやかにかわす術、さばきを見につけろ。そつなくさばく。はつらつとしろ!」と。

 その時々の悩みがそのまま書かれているのだけれど、ノートに直筆で書いてあるというものは、デジタルでは思い出せないことも思い出すというか、20年も前のことが連想できてくるから面白い。

 この頃、しっかり、阪神戦を見にいったり、先輩に連れられて宝塚の観劇にもいっている。
 なかなか、面白い学生時代だったな。