@「小林一三」の知的発想の源は文化的な活動、小説、日記、俳句、映画、絵画、美術などだと推測できる。さらに少年時からの旅・行動に於ける「人々をあらゆる事モノで繋げる」工夫と発想に心がけており、繋ぐための「鉄道」が優先し「娯楽」で人々を楽しませ、街を、公園で、動物園で、演劇で人々を繋げる役割を果たした。もし、その後現代でも生きていれば「繋ぐ」役割はネットからの起業を果たしていたかもしれない。
『小林一三の知的冒険』伊井春樹
「概要」阪急グループにつながる実業は幅広い分野に執心し、立ち止まることなく行動しつづけた自由人・小林一三。戦後日本の華・宝塚歌劇に結実した男の夢を育んだその豊かな背景を読み解く。宝塚の父、その素顔。
ー小林一三(1873年1月生まれ~1957年84歳没)
阪急電鉄・宝塚劇場・阪急百貨店・東京宝塚・新宿コマ劇場・梅田コマ劇場
韮崎から15歳で東京へ、浅草等で大衆演劇を見たことが原点となる起業
16歳から慶應義塾、読書好きで編集出版に興味を持つ
小説家を志望していたが19歳から三井銀行大阪、名古屋の銀行員として社会生活開始
学生の時の経験から演説の構想、俳句、小説も仕事をしながら書き始め「練絲痕」出版
お玉と婚約したが女性コウと温泉旅行、「新妻を追い出した酷い奴」、コウと再婚
明治40年阪鶴鉄道会社監査役、その後箕面有馬電気軌道創設専務となる
40歳にして箕面有馬電気軌道の宝塚線開通、動物園、宝塚新温泉、宝塚唱歌隊を創設
政界には5年間、近衛内閣の商工大臣、幣原内閣の国務大臣、復興総裁
ー小林一三の小説・遺諸物
小説「曽根崎艶話」(昭和23年出版)
芸妓の生き方半生を物語った小説(旦那等は実在した三井物産がモデル)
将来像「上方是非録」(東京都比較した大阪の街作り構想)
芸妓論・花街論・大阪街づくり構想(東京の山手線・公園・動物園を参考)
「大阪人が自慢するだけ他に類のない水の町の夜の景色はすこぶる美観である」
ー小林一三の発想
15歳から東京浅草での演劇=演劇映画・宝塚歌劇への夢
21歳で大阪に着いた時からの大阪改造計画の夢(鉄道網で繋ぐ構想)
俳句を嗜み、小説を書き、新らしい生き方を文化の面(絵画・美術)からも模索
尾崎紅葉と田山花袋「笛吹川」の影響も多く文化面への興味を広げた