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ちょっと気になるいい事、言葉、最新技術

書籍、映画、旅、最新技術から選んだ心に残るもの。速読者向けは、青文字表示。内容は小学生でも理解できる表現使用

成功への焦りを省みる『三年坂』

2020-03-05 07:54:07 | 人生を「生かす」には
@「人の絆」親兄弟、夫婦。人は沢山の繋がりから記憶に残していくものがある「回想」。楽しいこと、辛いことなど様々だ。ここにある「水澄」は将来有望だと囁かれた高校球児が甲子園にかけた最後の投球・一球が人生を狂わせることになった。 敗者となり、気晴らしで酒を喰らい、人を傷つけ、妹を亡くし、世間から除け者に、そして人生の転落。転職から転職、自分の人生に諦めた矢先「草野球」で蘇る、と言う内容だ。 誰もが人生につまづくことは多々ある。 ここでの悟りは「今まで選んだ人生はすべて自分に焦りがあった」と言うことか。 近道で成功・勝負をしたいと焦っていた結果だと・・・何事も「焦りは禁物!」だと

『三年坂』伊集院静
七夕の笹を求めて分け入った山中で窮地に陥った父を助けようと必死に走る少年の思い「皐月」、店が開店した日に事故で亡くなった母親の在りし日が鮨職人の心に鮮やかに甦る瞬間「三年坂」……。めぐる歳月と人生の哀切を、抒情あふれる端正な文章で描き出した、著者の原点とも言うべき珠玉の作品集。

●三年坂 母親の7回忌の法事の時に叔母と話をしながら、母親が亡くなったことを回想、破綻を迎えつつある妻との関係を思いやる話。母からの教訓「新聞だけはよう読んどかにゃいけないよ。いい客はやっぱりそれなりに成功した人だから。勉強をしとるわね。大学も出とる。その人と世間話が相手できんといかんからね。博打はいかんよ、絶対に。それから女もじゃ。水商売は博奕と女で崩れるから。」再婚もせず一生懸命育てた母を想う、その母が自分の寿司開店の当日事故で亡くなった。
●皐月 父親と息子の絆の話。山で父親が皐月を持って帰ろうと崖から落ちる。それを救うために息子は必死に助けを求めにいく。山で父親は「これは皆、人間が植えた杉じゃ。この連中が30年から40年じゃろ。この杉を植えた人はもう死んどるかもわからんの。そいつの息子のまたその息子がこの杉を伐りに来るんじゃ」 父親を助けた老人は「大したもんじゃ。坊の父ちゃんは。あの体をずっと手一本で支え取ったんじゃからの。その辺のやつならとうに手を離しとるわ。大した人じゃ。偉い男じゃ」息子は「偉い男」の意味を知った。
●チヌの月 老人が釣りに出かけ大魚「チヌ」を釣り上げようとするが転落、満ち潮で呆然とする中、昔の思いが蘇る。潮が満ちて死に際と思った時、自分が楽しいと思ったことなど頭をよぎった。大物の「チヌ」を放ち、自分も助かったのは「チヌ」を助けたからなのかと想う。
●水澄 転職からさらに転職と人生のどん底に追いやられた男が途方に暮れた時、出会ったのは草野球。昔高校時代の野球人生での勝負から下り坂を経験することになる。だが草野球で知ったのは「自分はわざと危険な場所を選んで生きてきたようだ」と悟る。
●春のうららの 料理屋の料理人と夫婦になり、久しぶりに休暇を楽しむことになる。電車の車窓からの過去の思い出と夫との初めての旅回想を語る。夫は数年前に亡くなっている。
小説は人の人生を変えることはできない、しかし人の哀しみに寄り添うことはできる
「人間が生きようとする、生きがいを感じる場所と時間。それが故郷というものであり、母国というものだ。人が繋がり、人が繋ぎ会ってきたものが歴史なのだ。 歴史は生き残った人々が判断し、語られていく運命を持っている」

視る目と信頼はどこから生まれるのか『虎の夢見し』(加藤清正)

2020-03-03 07:56:49 | 歴史から学ぶ
@熊本城を長期6年掛け完成させた理由は「領民への負担を軽くする為」とある。また加藤清正は人の命を最も尊び領民にも家臣にも慕われたとある。戦国時代の猛将が平常は温和で情にもろい性格だったことが意外であった。 「人を視る目」とはたとえ過ちを犯した人に対しても冷静に対応、判断できる才能を持った力なのだ。 それは幼い時の経験がもたらすものなのだろうか。 人の成長は困難に立ち向かった時生まれ、生かされる。 他人を思う心があるから、人からも信頼される。

『虎の夢見し』(加藤清正) 津本陽
この男が生き永らえていれば、豊臣家の運命は変わった――。
家康がもっとも怖れた男。稀代の猛将にして篤実の国主、激動の全生涯!
1952年、尾張国中村に生をうけた虎之助(のちの加藤清正)は、幼くして父を亡くすが、縁者である羽柴秀吉に見出され、その小姓となる。周囲の大人が見上げるほどの大男であった虎之助はけた外れの腕力の持ち主。一方で現実を冷静に見極める判断力をも有し、たちまち秀吉麾下の武将として頭角を現し始めた。だが、時は戦国動乱期。本能寺の変、天下統一、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い……報恩を胸に秘め、戦国動乱期を駆け抜けた豪傑。その人生と謎めいた末期に新たな光を当てる津本版清正伝。
  • 加藤清正 50歳で没。幼少の時は人を助け、何事にも機知がある行動をした。青年時の身長が190cm、体躯長大、普段は温和で情に弱いが、戦場では驚くほど危険な攻撃を仕掛ける性格だった
  • 秀吉配下、長浜城下に住み、播磨・三木城など槍で活躍するが信長の姿に恐怖を覚えた、それは家臣が成果を出さなければ即刻廃したことなど
    • 三方原合戦での佐久間信盛父子への剃髪蟄居
    • 林通勝は信長を廃する行為で背任責任
    • 美濃三人衆安東伊賀守、敵への誘導で懲罰
  • 賤ヶ岳の戦いでは秀吉の警護、鉄砲隊長などで3千石となり、その後秀吉に願って肥後54万石についたのは先代藩主佐々成政が暴動を抑えきらなかったことから、25歳の時。秀吉の戦いは軍兵たちに十分な手当を与え、夜には非番の者に酒を与えた。陣中には商人に店を開かせ、娼家まで営ませた。士気は盛んで退屈することがなかった
  • 秀吉の家臣に対する温情は清正にも引き継がれており、周りや家臣が多少の過失を行っても処罰せず、殺さず、追放するにとどめ、家臣たちを労ったことで熊本城下の庶民は清正に頼った。
  • 熊本城は1607年から6年余りの歳月をかけ領民の負担を軽減するため長期に行った
  • 清正の普請作業は地元の河川工事から大津街道(35m幅)建物などを請け負った
  • 江戸城の石垣の泥沼基盤は茅を敷き詰め、子供に遊ばせ(踏ませ)その上に石を積み上げていった
  • 石田三成は豊臣政権の財政に深く関わり合う有能な官僚であった
  • 清正の「石田三成目と一戦を遂げ、思いしらさんがため」と三成の行いに日頃から不満を持っていた
  • 朝鮮出兵では途中、石田と小西の明との和睦で嘘の権言から清正が蟄居させられる
  • 高松城水攻めは農民に1土俵につき銭百文、米一升を与え、長さ4km、高さ7.3m、基底21.8m、上部10.9mの堤を12日間で作る
  • 秀吉の死後、家康は大名との姻戚関係を深めた(伊達家、福島家、蜂須賀家など)
  • 東西決戦の時はどちらにも加担せず極めて慎重で、豊臣を守る側につくが石田三成に対しては賛同拒否
  • 石田三成は諸大名の人質を大阪城に確保させたことで多くの大名が西軍から東軍へと移った。西軍は毛利輝元を総大将に吉川広家、宇喜多秀家、島津義弘、小早川秀秋、鍋島勝茂、長宗我部盛親、小西行長、蜂須賀家政、生駒親正など9万3千7百人、対する東軍の徳川は浅井幸長、黒田長政、細川忠興、蜂須賀至鎮、池田輝政など5万5千8百人だった。 5奉行の内、増田長盛、長束正家、前田玄以らも三成を信頼していなかった
  • 武士の移動距離は1日に5里(20km)だが秀吉の場合は2時間で6里(24km)だった