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「先見の明」を起こす環境『明治の兄妹』

2020-03-26 07:51:59 | 歴史から学ぶ
「先見の明」とは如何なる経験から生まれるのか。山本覚馬は生まれつき「好奇心旺盛」で蘭学、砲術、世界の文明、進化する経済などあらゆる分野からの教養を得たことから生まれている。特に覚馬は人生の試練「盲目」にも拘らず勉学に励み「管見」(現代で言うならば未来の手引書)なるものを書き残し明治の基盤を作り上げたことだろう。実際机上の勉学のみならず多くの著名人と交流を持ち、さらなる実践の知識も豊富だった事だ。

『明治の兄妹』早乙女貢
「内容」西軍の侵攻によって炎につつまれた会津・鶴ヶ城にあって、男装して自ら銃を取り戦った妹・八重。そのころ、17歳離れた兄・覚馬は京都で薩摩藩に捕らえられながら、新しい時代を見据えて獄中から政治改革を訴えていた……。
「山本覚馬」山本覚馬は会津藩砲術師山本権八(父)に生まれる。山本家は困窮欠乏生活の中、覚馬は剣槍においても卓抜な腕を持っており喧嘩早く剛毅さで近所の子供からも恐れられていた。母の教訓「貧しても貪せず、即ち足るを知る」、「いくら空腹の時でも食べる量は知れている。ある程度食べれば、空腹は満足するものだ。満足とは、満ちれば足ると書くではないか。それ以上を欲しがるでない」と、嘘をつかず、武士としての忠実を守った。だが、覚馬は「機械」に興味を持ち蘭学を学び先進文明の知と力に好奇心を持ち進んだ。覚馬24歳から29様で江戸に出て佐久間象山の塾に入り、勝海舟、江川太郎左衛門(韮山の大砲)などと知り合いになり兵器への知識を高めた。その後会津に蘭学所「日新館」を作り師弟に文明への道を教えた。だが、長い伝統の中で晏如たる老人たちには「小賢しい抗弁、小癪な輩」と睨まれ、閉居謹慎となる。覚馬曰く「人間、たまには雌伏の時も必要だ。尺とり虫の飛ぶには身を屈するによる、との喩えもある」と言いつつ「今の時代、1日1日が大切で1日遅れると他国に3日遅れる。1日早ければ他国に10日先駆けることができる。天下の流れは今や急流の如くです」。世は攘夷を唱える薩長土が偽の錦の旗を掲げ東征するときに覚馬は薩摩に捕まり牢獄へと繋がれた。そのときには既に盲目になっていた。 覚馬の「管見」とは獄中に記した建白書(改革を提言)であり、それは「世界の中の日本」を読み、政治情勢への明晰な分析力、経済の透徹した先見性、教育、衛生、衣食住など、あらゆる方面への知識を持っていた。これはその後西郷隆盛、小松帯刀なども目に触れている。倒幕が終焉したのち京都府が覚馬を顧問として重用する。「これで世の中の役に立てる」と悟った。中でも教育行政や殖産興業に指導制を発揮、貴重な人材となる。だが、京都の府知事は長谷信篤で参事が槇村半九郎と言う傲岸不遜の輩で知恵もなく挙句に宇治平等院やら白河神社などと売却させるなどの行為をする。覚馬の妹と再会後は、明治8年11月19日新島襄と同志社を創設、命名は覚馬だった。明治25年12月28日覚馬は65歳で生涯を閉じた。 「目が不自由だと言うことも、ときには帰って好都合だ」と妹(介添え)の存在を感謝と意味ありげな言葉を残している。 (多分見えないことで創造力・創作力がついたことかもしれない)

新島八重=山本八重子」山本覚馬の妹で会津藩砲術師山本権八の3女。戊辰戦争時24歳で、後に新島襄と結婚、夫と覚馬の創設した同志社大学を手伝う。夫は47歳で亡くなり、日清日露戦争に従軍し88歳にて生涯を終えた。 
    戊辰戦争では男装し、最新の銃7連発のスプリングフィールドを肩にかついで会津城にて戦う。それは鳥羽伏見の戦いで弟を亡くした敵討ち、主君の為であった。城での女の役割は兵糧を炊き、弾丸を作ること、さらに負傷者の看護で、炊いたばかりのご飯を握り飯にすると手の皮が剥けるほどだった。              
    一番辛かったことは最期に大砲が破裂、厠に入っての醜態を避けることだった。城の廊下には多くの戦死者が寝たように並べられていたこと、7歳の少年も母と共に切腹した姿を見届けたことだった。その女性は曰く「いざと言う場合には、母と娘の介錯は自分がするが、もしや、そのために死に損ねたら、私の介錯をしてもらいたい」と頼まれたことだった。
    戊辰戦争は約1ヶ月を要した長期の籠城戦だったが、1日に砲弾が1208発を数えた日もあった。弾薬は10歳前後の子供たちが兵士の所に運んだが砲弾が飛び交う中平気で運んでいた。
    東軍の武器は槍または火縄銃で、その威力は西軍の銃の比にあらずであった。実はスナイドル銃を1万5千挺をドイツ人に発注していたが在庫がなく幕末には間に合わなかった。その銃はそのまま紀州藩が引き取ることになった。