Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

こんな時だからこそ、本を読もう!(5)

もう、コロナ以前が想像できなくなるくらいに、ノーマルな日々が遠くなった2021年。

「緊急事態宣言」という言葉も、この1年ずっと僕らを振り回してくれました。

今も、外に出ればほぼ全ての人がマスクをしています…。

緊急事態宣言で変わったことと言えば、「外で呑めない」「20時以降、お店がどこもやっていない」「エンタメの多くが封印された」等々、色々と制限されました。

2021年は「娯楽のない日常がたんたんと続く一年」でしたね。

夜中まで🍶や🍺を呑んでぐだぐだとくだらない話をすることとか、みんなで集まって「うえ~い」ってやることとか、みんなで食事に行って、楽しいヒトトキを過ごすこととか、みんなでライブにいって「oh yeah!」と叫ぶこととかダイブ・モッシュすることとか、みんなで楽しく無為な時間を過ごすことのほぼ全てが封印された一年でした。

それは、「遊びのない日常」「余暇のない日常」「共同性のない日常」「群れになって高揚することのない日常」ともいえるかと思います。

ほんと、過酷な1年でした…。

そんな時だからこそ、本を読もうぜ!

っていうのが、このシリーズのねらいした。

今回でこのシリーズも5回目です。

こんな時だからこそ、本を読もう!(4)はこちら

この記事もわりと(思った以上に)読まれていて、それなりに書く楽しみもあるので、しばらく続けていきたいなぁと思っています。

とにもかくにも、本を読むというのは、僕のある意味でのライフワーク。まだまだ読んでない本や読みかけの本がい~~っぱいあって、大変なんです。

この9月~11月に読んだ本をご紹介します!


この本は、かなり面白い切り口の本ですごく面白かったし、考えさせられました。タイトルが示すように、哲学をしてきた女性たちにスポットを当てた本で、古代から現代にいたるまでの女性の知識人(哲学的な人)をずらりと並べて解説している本ですね。この本の冒頭で、「これまで哲学の分野で、そして学問のほとんどの分野で女性の数が少なかったのは事実であり、それは女性たちが長いあいだ教育から排除されてきたからだ」、と強く言いきります。そして、続いて、こう読者に問いかける。「では女性哲学者の名前を挙げられますか」、と。

この本に出てくる女性としては、エーディト・シュタイン(Edith Stein), ハンナ・アーレント(Hannah Arendt), シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)の三人の女性哲学者・思想家はある程度学んできました。ここには出てきませんが、エレン・ケイ(Ellen Key)は僕が最も尊敬する教育哲学者(?)の一人です。ただ、生粋の哲学者となると、本当に名前が出てきません…。日本には(僕が敬愛してやまない)神谷美恵子先生は偉大な日本の哲学者がいますね。

この本には、これまで全然(あるいはほとんど)見聞きしたことのない女性哲学者の名前がずらりと並んでいて、その女性哲学者がどんな人で、どんなことを思索したのかが簡素に書かれています。この本だけで分かる話はありませんが、この本をきっかけに、「女性哲学者」に興味をもってもらえたらいいなって思いました。

この本もとても面白い切り口の本で、興味深い内容でした。00年代の自民党の崩壊と共に生まれた旧民主党がわずか数年で崩れ落ちました。この旧民主党が倒れて以降、日本は加速度的に「右翼化」していきました(保守化というよりは右傾化)。10年代はもうまさに「右派ブーム」と言ってもよいほどでした。10年代の自民党は「アベ派」が圧倒的な権力を握り、多くの国民がそのアベ政治に熱狂しました(今は「女アベ」といわれる高市さんがスポットライトを浴びています)。

そんな右寄りの人たちはそろって「伝統的家族観」を持ち出します。それがこの本の大前提です。アベ的な人たちは「憲法改正」を実現しようとしていますが、彼らは国民に「伝統的な家族を生きろ」と迫ろうとしています(アフガニスタンのタリバンが国民に伝統的な家族観を押し付けるのとメカニズムは同じです)。アベ的な人は「リベラルな女性」を嫌います。上の本の「哲学する女性」なんてとんでもないことですね。「女性は己を犠牲にして家族に奉仕せよ」と考えるのが右派の人たちの強いメッセージです。夫婦別姓なんてとんでもない!ということになります。

この本の中心は「日本国憲法24条」を変えようとするアベ的右派の改憲論に法学者たちが異を唱えるというものです。アベさんたちはこの24条の第1項に「家族は、互いに助け合わなければならない」(相互助け合い義務)を追加しようとしているのはご存知ですか? これは家族に問題がなければ「道徳的な事柄」なのですが、家族関係が希薄化、形骸化、疎遠化、虐待・DV化している今、この言葉を憲法に加えたいアベさんたちのねらいはどこにあるのでしょうか? 

この本は、フェミニズム論の「女王」こと上野千鶴子さんと、「ブルセラ」「援助交際」「ギャル」「キャバ嬢」「AV女優(セクシー女優)」を経て「日本経済新聞社」の記者になったという鈴木涼美さん(父親は哲学者の鈴木晶さん←エーリッヒ・フロムの『愛するということ』とキューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』を翻訳した人!)という方の往復書簡です。鈴木さんは、いわゆる性産業のど真ん中に入り込んだ方ですが、そんな彼女はこの本の冒頭で、「被害者の顔をせずに『害』を断罪することができるか」という問いを出します。そして、「被害者なんていう名前に中指立てながらも、不当で暴力的なものと闘うことは、矛盾するようにも見えるけれど可能な気がしていました」と言います。

鈴木さんの問題提起は、00年代~10年代に流行った「当事者研究の限界」を突くものだと思いました。当事者(その多くが被害者)の語りに、真のエビデンス(正しさの根拠)を求めようとする当事者研究の甘さや曖昧さ(故に根本的な「害」を告発できない)を厳しい目で捉えなおそうとする鈴木さんの研究者的なパッションをこの本から感じました。ただ、そもそも性産業の当事者の(心の)声自体がまだまだ数少ない中でこうした問いを立てることは「時期尚早」なところもあり、彼女自身相当のバッシングを受けることになったようです。そんな「当事者」と「観察者」の間で揺れる鈴木さんに、上野さんが返答していくスタイルの本です。

僕が一番面白いなぁと思ったのは、4章の「結婚」のところです。性についてはかなり饒舌?に語るお二人ですが、結婚となると、やや歯切れが悪くなるというか、どちらも距離を取ろうとしているところがあって、そこが「考えるポイント」になるような気がしました。恋愛の時期と結婚後の時期とでは、何もかもが違いますし、性のあり方も変わってきます。

あと、8章で上野さんはこう書いています。「…親に愛されずに育った子どもたち、それどころか疎まれ、虐待され、家に居場所のない子どもたちのその後を見てきました。親が大きく、強く、壊れない存在だと思えたからこそ、わたしたちの世代は『家族帝国主義粉砕!』などと叫べたのだと、今さらのように思います。…その後の家族の変貌を見ていると、家族がもろく、小さく、壊れやすいものになったと痛感します。子どもたちはその家族の綻びをとりつくろうために、裂け目を自分のカラダでふさぐようにしてまで、必死になって家族が壊れないようにがんばっているのでしょう」(p.213)。この最後の部分は、今の子どもたち(学生たち)を理解する上でとても大切な指摘のように思いました。(また、これを受けた鈴木さんも、「親のギフトをふんだんに受けたとは言い難いホストたちが異様なまでに親を大切にする傾向について少し話題になりました」(p.224)と書いています)

それと、9章で上野さんは嬰児殺しについても若干触れています。「『ワンオペ育児』ということばがなかった時代には、『密室育児』『母子密着』ということばがありました。わたしたちは登場しはじめのコインロッカーに子どもを捨てた母親の世代です。追いつめられた若い母親が子捨て・子殺しをしました。2020年秋に、港区の公園から就活中の女子大生が産み落とした嬰児の遺体が発見されるという事件がありました。半世紀…何も変わらないのか、と慄然としたものです。…子捨て・子殺しについて男たちから反省の声を聞いたことがついぞありません」(pp.235-236)。

そして、上野さんの名言「いずれにしても『さいごはおひとりさま』です。早いか遅いかだけの違い」(p.239)、「さいごに立ち戻るのはいつもひとり」(p.242)。これもまた永遠の真実かな、と。

こちらの本は、数か月前にTwitter上で勃発した「宮台真司」VS「藤田孝典」の論争(?)の中で、宮台さんが紹介していた本であります。この本は宮台さんの後押しによって復刻されたもので、著者はベルリン性科学研究所(Institut für Sexualwissenschaft)を主宰するマグヌス・ヒルシュフェルト(Magnus Hirschfeld=医師・同性愛権利の擁護者)が編集したものです。1930年に書かれ、1956年に翻訳されました。

この本の冒頭が圧巻です。「地獄のおそろしい力が悲しみをかき立て、地球をさらに闇黒の闘技場に変えたとき、「神のこらしめたもう鞭」…が人類ののたうつ肉の上に下されたとき、貴婦人はどこにいたか?」。つまり戦争が起こった時、(特権階級的な)女性たちはどこにいたのか、と問うことで議論を進めていきます。この問いは、この本の全体を貫く重要な問いとなります。

宮台さんはこの本の冒頭で、戦争と性の関係についてこう書いています。「軍内で性的抑圧を受けた男たちが、欲望に負けて従来の道徳枠組で律し切れない振舞いに及ぶが、それは銃後にいる女たちも同じだと書かれています。問題に対処するには、(1)女性の自由意思に基づく、(2)国による管理売春宿という形で、兵站としての性を提供するのが有効です。実際このポリシーを実現したのが第一次世界大戦期のドイツだったとされます」、と(p.14)。長年、宮台さんの本を読んできた僕としては、性と自由意志の関係がここで改めて示されている点が興味深かったです。

この本は、無数の貴重な事例や証言を集めており、どこを読んでも「はっ」とさせられます。そして、この本を読み終えた後、「『慰安婦問題』に一石を投じる注目の書!宮台真司渾身の解説を附す!」の意味が分かってくると思います。この本を読む前と後とでは、「慰安婦問題を語る人」への味方ががらりと変わると思います。それは当然、藤田さんの見方にも及びます。「風俗や売春をやめさせろ」という言葉の空虚さも同時に感じるようになるのでは?!、とも。

かなり有名な本で、今更という気もしなくもないですが、改めて(イタリア人批評家の)ジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』をじっくり読んでみたくなりました。上の本ともつながりますし、また僕の赤ちゃんポスト研究ともすごくつながる本なので、今一度「ホモ・サケル』の議論を追って確認しておきたくて、読んでみました。(彼の『中身のない人間』は僕的に大ヒットとなった一冊でした)

でも、きっと学者じゃない人だと、アガンベンと言われても、ホモ・サケルと言われても、「何の話だ?!」ってなるような気がします(内々では有名ですが、一般の人までには届いていないという意味で…)。

ホモ・サケル(Homo Sacer)というのは、ローマ時代の古法において確認される言葉で「聖なる人間」という意味ですが、この本では、「殺害可能かつ犠牲化不可能な生」のことをホモ・サケルと呼んでいます。殺しても法の裁きを受けず、またその殺した人間は捧げものにもならないような命のことを言います。具体的には、「親に危害を加える者」「境界石を掘り起こした者」「客人に不正を働いたりした者」(アガンベンの文脈でいえば更に「ユダヤ人」)たちです。この人たちに対しては、聖なる存在(≒Das bloße Leben≒la nuda vita)として、「法律上の殺人罪に問われることなく殺害すること」ができました。

このホモ・サケルの議論から、「親に棄てられ亡くなった子(乳児)」「親に殺害される子(乳児)」「産まれずに医療技術によって殺される胎児」「外国人労働者(技能実習生)の妊婦」等の政治的課題(生政治)についてどう語れるかが、僕自身の研究的関心となります。

アガンベンは言います。「ホモ・サケルの生を、あるいはまた、さまざまな点でこれに似たところにある締め出された者、平和なき者(Friedlos)、水火の禁じられた者の生を考察してみよう。その者は、宗教的な共同体からも、あらゆる政治的な生からも排除されている。…そのうえ、誰もが彼を殺人罪を犯すことなく殺害できる以上、その存在全体が、あらゆる権利を奪われた剥き出しの生へと還元されている。自分の生を救うには、彼は絶えず逃亡しているか、あるいは外国に避難所を見いださなければならない。だが、つねに無条件の死の脅威にさらされていることによって、彼は自分を締め出した権力と絶えず関連をもっている。彼は純粋なゾーエーである。だが、彼のゾーエーは主権的締め出しの内にゾーエーとして捉えられている。彼は、主権的締め出しをつねに考慮に入れ、これを避け欺くやりかたを見いださなければならない。この意味で、流謫にある者や締め出された者であれば知っているとおり、この生ほど「政治的」な生はないのだ」(p.249)(これについては、p.126で「原初的な政治的要素とは単なる自然的な生ではなく、死へと露出されている生(剥き出しの生ないしは聖なる生)なのである」と書いています)

生まれたばかりで殺されかけている赤ちゃんの命(ないしは生まれる前に殺されそうになっている胎児)ほど、政治的な生はない、と僕は思っています。他のホモ・サケルと同様(ないしはそれ以上に)「声」がないんです。権利もなにも、何の声も残らないんです。逃亡する力もないし、海外の避難所に行く術もないんです。

アガンベンの「ホモ・サケル」については、もっともっと深く理解しなきゃいけないなと思っています…。

そして、この以上の本を読んだ上で、次の本を読むと、ものすごく胸が苦しくなります。

熊本の「こうのとりのゆりかご」に次いで、神戸で「ゆりかご」を設置しようとした永原さん。色々と設置に向けて動いたのですが、神戸市からの合意は得られず、別の道を歩むことになりました。それが、「小さないのちのドア」という匿名相談、匿名支援の道でした。

永原さんが実際に、どのような匿名支援を行っているのか、緊急下の女性となった妊婦たちはいかにその妊娠と向き合うのか、そんな妊婦にどう寄り添えばよいのか。そうした問題に対して、漫画のかたちで応えようとしているのが本書です。漫画の後に、永原さんの解説もあり、読み応えがすごくあります。

この本については、また別記事で熱く語りたいと思います。

***

というわけで、、、

新シリーズ【こんな時だからこそ、本を読もう!】第五回をお届けいたしました。

まだまだまだまだご紹介したい本は山ほどあるんですが、、、💦

同時に、まだまだまだまだ読まなきゃいけない本も山ほど…

2022年はもっともっと「本」について語っていきたいなって思っています。

ラーメンを今みたいに食べ続けるのが難しくなってきました。10年後のことを考えると、そろそろ本気で「食生活の改善」をしなければ、取り返しのつかないことになる恐れがあります(と、医師から直接言われました)。

もちろんこれまで通りに、ラーメンを食べたらレポはしますが、一日一杯(=365杯)というのはもう無理かなって思います。体質的に「大食漢」の人もいるかと思いますが、僕は根本的に大食いではありません。すぐにお腹一杯になります。そんなに頑丈な体でもないですし…。

これまでラーメンに注いできたエネルギーを「学問」と「音楽」につぎ込みたいなって思います。(毎日毎日、ラーメンを食べて、画像を編集して、記事を書いて、更新して…という生活から解放されることに、少しだけ安堵している自分がいます)。それに、限られたこの人生をどう生きるかと考えた時に、もっともっと勉強がしたい!って思ったんです。「知りたい」という欲求かな?!

人前でしゃべる仕事をしている以上、常に「知性」を養っていかなければならない。最近になって、そのことをますます痛感するんです。40後半になって思い知る「無知の知」といいますか…。

もっともっと勉強したいですね💓

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「哲学と思想と人間学」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事