Life is short, live it.
人生は短い。故に生きよ。
Love is rare, grab it.
愛は稀なものだ。故につかみ取れ。
Anger is bad, dump it.
怒りは不快(悪)だ。故に投げ捨てよ。
Fear is awful, face it.
恐れは嫌なものだ。故に直面せよ。
Memories are sweet, cherish it.
思い出たちは甘いものだ。故に心に留めよ(大切にせよ)。
…
はい、恋愛交差点第31話目です。
今回は、この30話の続きになります。
アガペーの愛、そして、カリタスの愛。
そこで問題となるのが、「隣人への愛」であります。
***
アガペーの愛やカリタスの愛で強く言われるのが、
隣人を愛せ
であります。
普通に考えれば、隣の人を愛せ、ということになりますが、、、
この「隣人」とは何かについては、長い長い議論の歴史があります。
聖書の中でも、自分を愛してくれる身近な人を大事にすることなら、誰でもできる、と書いてあります。
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあるだろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟だけに挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(マタイによる福音書、第五章46-47)
悪名高い「徴税人」でさえ、自分を愛してくれる人や家族のことは愛している、と。
では、いったい隣人っていうのは、どこまでの人のことを指すのでしょうか。
(恋愛論なので、ここでは「汝の敵」については触れないことにします…)
…
簡単に言えば、自分から最も遠い人のことだと僕は捉えています。
自分から最も遠い存在、
自分とは全く相いれない存在、
自分とは考え方も生き方もなにもかも異なる存在、
そういう人たちを愛することが、隣人愛の具体的な話だと思います。
ざっくり言えば、「縁もゆかりもなにもない赤の他人」ということになるでしょうか。
赤の他人を愛せ、と言われても、「はぁ・・・(;´∀`)」って感じになると思いますが…。
…
『アガペーの愛・エロスの愛』の著者のハビエル・ガラルダさんは、隣人愛を二つに分けて考えています。
人の輪を広げるアガペーは、日本語で言えば隣人愛であろう。…
その一つは、血縁あるいは好みの絆によって作られた自分の輪に入っている、身近に感じられる人という解釈である。
二番目は、その輪の外にいても、たまたま空間的に、あるいは精神的に近くなって、こちらを必要としている人である。つまり、二つ目の意味の隣人愛は、輪の外にいる人を「外の人」と呼ばないで、輪の中に入れたいと望む愛なのである。
(この本は読みやすくて、おすすめです。若干偏ってるけど…)
アガペーの愛でいう「隣人愛」は、輪の外にいる人への愛ということになります。
上に述べた「縁もゆかりもなにもない(たまたま出会い、たまたま近づいた)赤の他人」を輪の中に入れたいと望む愛とも言えるでしょう。
ここで、ふと考えたいんです。
なぜ、縁もゆかりもなにもない赤の他人を愛さなければいけないのか、と。
自分が好意を寄せている人になら、いくらでも愛することはできます。
また、自分の身近にいる人になら、いくらでも愛を注げたりもします。
自分がお世話になっている人や、自分のことを好いてくれている人にも、愛は注げます。
でも、、、
縁もゆかりもなにもない赤の他人を愛せ、と言われても、「え?なんで???」ってなりませんか?
更に考えれば、そんな赤の他人を愛したところで、何の喜びがあるのでしょうか?!
「困った人がいたら、赤の他人でも、手を差し伸べよ」というのは、それこそ美談ではありますが、それを神さまに命令される筋合いはない、というか、余計なお世話だと思うのも、自然なことだと思うんです。
それでも…、
なんとなしに、自然に、さりげなく、そういう赤の他人に手を差し伸べる人もいるんですよね。
自分の大切な時間を、そんな赤の他人のために、いくらでも費やせる人もいます。
そして、その赤の他人が喜んでくれることを、素直に純粋に静かに喜べる人がいるんです。
優れた教師や保育者って、そういう人間性をもつ人ではないでしょうか?!
…
そういう人たちは、いったいどんな人なんでしょうか?!
そういう人たちこそ、アリストテレスが言った「愛すること」を行う人たちなんだと思いますが…。
アリストテレスは、それを「母親の愛」になぞらえていました。
そういう母親的な愛をもって、赤の他人を愛することができ、その見返りを一切求めない人。
そういう人たちは、また同時に、これまでいろんなところで、同じように「愛すること」を実際に施され、そういう姿を見てきた人たちなのでしょう、きっと。
ハンナ・アーレントも、「『創造者』自身が『被造者』との依存関係を自らの側から作り出す限りにおいてのみ、『被造者』の方も自らこの依存関係を『愛(カリタス)』において具体化する可能性をもつ」と言っています(p.103)。
そんな神からの愛(恩寵)を受け、そして、誰かが赤の他人を愛することを間近で見たり、あるいは、赤の他人の人に(自分が困ったときに)助けてもらったり、励まされたり、鼓舞されたり…。
前回の記事でも見たように、そういう愛されている人や愛されてきた人が、愛することを行う、ということになります。
が、今回は、もう一歩踏み込みたいと思います。
…
なぜ、愛されていることに満足せず、愛されることを期待せず、何の見返りも求めないで、赤の他人を愛することができるのでしょうか?
そういう隣人愛を実際に行っている人たちは、どうして縁もゆかりもない赤の他人のために生きることができるのか。
上で紹介したハビエル・ガラルダさんが面白いことを言っています。
一方では、アガペーを含まないエロスは差別をもたらす。他方では、エロスを含まないアガペーは個人性不足の冷たい平等になり得る。そこで、純粋な隣人愛の中にエロスが注がれると、アガペーという思いやりは、個人的な愛に潤って成熟するわけである。(p.16)
…
エロスを含まないアガペーは、結局、相手に対するいい意味での執着を抱かないで、相手に愛される興味をあまり感じないで、ただ、冷たい礼儀をつくす平等な心遣いにすぎないものになりうる、ということである。(p.18)
これまで学んできた「エロス」と「アガペー」を並べて論じているんです!
プラトンの言う(真の)エロスは、善のイデア(理想)や真実や美を欲求する愛のことでした。ガラルダさんも、エロスの愛を「命を実らせる愛」とか「神性への推進力」といった意味で捉えています。
こうしたエロスをもって隣人への愛を実践したときに、初めて「個人的」なものとなり、成熟するのだ、と言うんですね。そうでなければ、「冷たい礼儀をつくす平等な心遣い」に過ぎないものになる、と。
そのエロスとアガペーが合体したところに、最もよい意味での隣人愛がある、と考えるのです。
…
このエロスとアガペーが融合したところで隣人愛が実際に行われる、というのは、僕的には驚きというか、大きな発見でありました。
僕自身、縁もゆかりもない赤の他人のために愛することをしたい、と思っています。
どこであろうと、誰であろうと、困った人がいれば助けたくなるし、何かをしたくなるし、実際に何かをしようとしてしまいます。時には「うざい」と思われるほどに…💦
では、なんで、そこまでして人のために何かをしようとするのか。
僕自身も、上のガラルダさんの考えに出会うまでは、よく分かりませんでした。
でも、「エロスの愛」を取り入れて考えると、その答えが見えてきたんです。
なぜ、見返りを期待しないで、赤の他人のために動こうとするのか。
その答えは、わりと単純で、「そっちの方がかっこいいから」なんです(?!?!)。
自分自身の美学というか、美的な感覚として「どんな人であっても、困っていたら手を差し出すほうが、差し出さないよりもはるかにかっこいい!」と思うんですね。
この「かっこいい」は、「美しい」と言い換えてもよいです。
また、この「かっこいい」を、「善い」と言い換えてもよいです。
自分自身の中に、「もっとより美しい人間になりたい」「もっとより善い人間になりたい」という強い欲望があるからこそ、つまり、エロスの愛があるからこそ、隣人(=赤の他人)を愛したくなるんです。
僕の場合、エロスの愛に基づいているので、すべての人間を愛そうとは思いません。(すべての人間を愛するのは、アガペーの愛だと思いますが、一人の人間がやれる愛ではないかな、と)
それよりも、なんというか、「自分自身の(理想の自分に向かう)成長のために、目の前にいるその人(=隣人)を愛したい」という感じに近いものかな、と思うのです。
それは、マズローのいう「自己実現の欲求」に近いものかもしれません…。
自分の快のために生きること、自分の得や利益のために生きること、自分の楽しさや喜びのために生きることを否定することはしませんが、そういう人たちを見ると、(エーリッヒ・フロムの言う)「利己主義者」だなぁと思うし、そういう人を「素敵だなぁ」とか「かっこいいなぁ」とは、やはり思えません。(むしろ憐みや同情を感じてしまいます)
自分が素敵だなぁとか、かっこいいなぁと思えるのは、「社会的欲求や自己承認欲求ではない、無私的(Selfless)で、利他的(altruistic)な愛するという行為を(人知れずに)行っている人」なんです。
こういう素敵さやかっこよさを求める欲望こそが、まさに「エロス」なんですね。
そういうエロスの備わったアガペーの愛、すなわちエロスのある隣人愛の実践こそ、最も実現可能で、最も人間らしいアガペーの愛なのではないでしょうか?!
…
でも、そういうエロス的(=美的)な欲求だけで、隣人を愛するわけではないかな、とも思います。
僕の例で言えば、それこそ18歳くらいのときからボランティアをやってきていますが、そのボランティア活動で、自分が誰かに何かする以上に、その誰かからいろんなものを頂いてきたように思っています。
障害をもった人の支援もボランティアでたくさん行ってきましたが、その(たまたま出会った)障害をもった人から、たくさんのことを教えてもらったし、他ではできないいろんな経験をさせてもらってきました(東京ディズニーランドのホーンテッドマンションの裏側を見れたことは、ホントに貴重な経験でしたし、また、重症心身障害の子たちと一緒に行った横浜中華街での経験は自分の生き方や考え方を大きく変えてくれました)。
ガラルダさんも、このように書いています。
アガペーに基づいて人の役に立ちたいと願う人は、決して、自分は何ももらわないで、ただあげているだけなのだというような気取った同情を抱くのではなく、相手から他の次元のより貴重なものを、一杯いただいているつもりでいるはずである。その人から、目に見えない、お金では買えない、言葉では表しえないほどの素晴らしいものをいただいている事実を自覚する人は、確かに手を貸しているのだが、お互いに活かし活かされる人間関係を共に生きているつもりである。(p.23)
僕らにできるアガペーの愛(隣人愛)は、その愛の対象となる人(顔や名前をもった生身の人間)との関係を生きているわけですね。
だれかれ構わずに、同じ愛を同じだけ与えるという無差別的な無償の愛ではないんですね。
この人の役に立ちたいとか、この人に手を貸さなければ!、と思い、その人に手を差し伸べたい。
それを、ただ思うだけでなく、実際に行動にうつす。
それが、隣人愛なのです。
最後に、ある律法の専門家に対して語ったイエスの言葉を紹介しましょう。
アメリカやオーストラリアにある「善きサマリア人の法」(Good Samaritan laws)の元になっている有名な言葉です。
聖書にはこう書いてあります。
「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ルカの福音書、10章30~37より
その人が身内でも他人でも、敵対する集団の人でも、そこはどうでもよいんです。
どんな人であっても、(たとえ自分と敵対する人であっても)自分の目の前で倒れて苦しんでいる人がいたら、このサマリア人のように、「おなじようにする」。これが、隣人愛の基本となる考え方になります。
それができるかどうか。
…
これでなんとなく「アガペーの愛」について分かってもらえたでしょうか?!
無条件の愛というのは、そんなに難しいことではないんです。
ただ、難しくはないけど、実際に行動できるかどうかとなると…。
特に、自分が嫌だなと思う隣人が助けを求めている時に、その人に手を差し伸べられるかどうか。
これは、なかなかできることではないのかな、とも思いますが、どうでしょうかね?!
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はい。
これで、「エロス」「フィリア」「アガペー」「カリタス」といった古典的な愛の概念についてのお話はおしまいです。
どの言葉も、2000年以上語り継がれてきた「愛」の言葉であり、どれも大切なものだと思います。
これらのことを踏まえて、「結婚」や「家族」や「子育て」について考えていきたいと思います。
その中でも、やはり「結婚」(配偶者の選択)は、人生において最も重要なイベントだと思います。
結婚とは何か。結婚する意味とは何なのか。
次に、これについて考えたいと思います。
非婚化が進む中で、この問題は極めて重要な意味を持ちそうな気がします。
…
僕が「結婚」をテーマにした小説の中で一番好きなのがこの本です!