茜ちゃんの「島日記」

奄美群島から文化の発信を試みております。自然・文化・民俗学など想い付くままの事柄どうぞお聞きください。

New・サワラちゃんの加計呂麻島日記-027

2014年11月28日 | 教育

 

New ・ サワラちゃんの

 加計呂麻島日記  貝殻採取

027

 

 

 

 

 

 

 

願ってもない雨が降って、本日は朝から快晴! 人参の植え付けもそこそこで、海まで出かけた。大島海峡、太平洋と島の1/2をぐるりと回った。途中の行き付けの売店で昼飯を調達して、どこへ行くともなくひた走る。太平洋の海岸の見晴らしの良い休憩所で、用意してきた弁当を食べた。

ここまでは順調であったのだが、肝心の貝殻の収集がさっぱり。

イボソデ

 

真ともなのはこれ一個。

ガソリン代、弁当代、数時間の労働にはとても見合わない。

こんなこともあるのです。<ガックリ> 

ジャガイモは現在順調に生育中で~す!

 

 

 

「 衆議院選挙 

 

 

選挙戦はとうとう始まった。野党も思いがけない逆襲を受けてしまったようである。おそらく年内選挙は無いと踏んでいたに違いない。民主党の幹事長が冗談で決戦を挑んだのであるが、瓢箪から駒が出てしまったようである。現在、野党各党はまさに烏合の衆のような状態である。共産党だけが何時もの様に各選挙区に候補者を立てている。その他の野党はどのように選挙戦を戦うのだろうか。野党連合であろうか。

 

   

 

安部首相も衆院解散の宣言の演説の中で、思わず力んでミスをしてしまったように思えてならない<消費税10%への引き上げは、次回は必ず行う。軽減税率の適用も同時に行う><過半数を取れなければ、安部政権は撤退する>これは拙かったと思う。 この発言で自らの足を縛ってしまった。<出来るだけ実行に移したい>とすれば、その場になってどうにでも逃げれたはずである。野党は将来必ずここを付いて来るであろう。

 

 

現実の世界は一歩先は闇である。どうなるかは分からない。<必ず、絶対>は禁句であると思う。背水の陣の宣言の評価はなかなか難しいものであるが。でも、何時も思うのであるが、<総理大臣とは激職であることは間違いない>命が幾つあっても足りないくらい。それに引き換え庶民というものは気楽なものである。勝手に言いたい放題言っても、小馬鹿にされる位が落ちである。年金暮らしの爺などはその最右翼かな  

「 株式市場について 

主な市場指標 

 
日経平均(円) 17,459.85 +211.35 28日 大引
NYダウ(ドル) 17,827.75 +12.81 26日 16:31
ドル/円 118.19 - .22 +0.85円安 28日 14:55
ユーロ/円 147.13 - .18 +0.31円安 28日 14:55
長期金利(%) 0.420 ±0.000 28日 14:55

東京市場 ・ 週足 

 

週足ベースで見ると三角保ちあい別れを実現する雲行きとなって来た。原油安、円安、年末、衆議院選挙と株式市場の上昇要因のみが繋がっている。倍返し20.000~22.000ポイントを目指す動きが始まったようである。

 

 喫茶店でちょっと一服  

  

その1

では、本日は最初に先回お約束の二人の軍人について書いて見る。

    

 

ダグラス・マッカーサーチェスター・ニミッツ 

 

         

 

フィリッピンと中部太平洋を基点として、米国軍の司令官が当時2名居た。マッカーサーは陸軍。もう一方は海軍。生い立ちから司令官までの歩み方は好対照である。それが故か、この二人は仲が余り良くなかった。このことが彼らの幕僚間の軋轢を生み、あまつさえ、問題のインディアナポリスが撃沈された際に、其の情報が4日間も意図的かどうか知らぬが放置され、艦の乗務員の大半を死亡させた原因となった。正に米国海軍の大きな汚点となったのである。

しかし、この二人の司令官は細かく分析して見ると、なかなかの人物である。日本にとって当時の敵国の将官ではあったが、見識のない薄っぺらな人物ではなかったことが分かる。

では、今回はマッカーサーから連載 

マッカーサー-01

Douglas MacArthur(1880~1964)

  

年齢に関係なく日本人にはお馴染みのポーズを取る写真の一枚である。このコーンパイプは見掛けによらずなかなか扱いが難しそうであるとか。如何にも洒落っ気のある人物である。

祖父のアーサー・マッカーサー卿の時代の、英国からの移民であり、Macはアイルランド由来の家名である。所謂、アイルランド系移民は米国には非常に多いも事実である。驚いたことに、フランクリン・ルーズベルト、ウインストン・チャーチルとは縁戚関係にあるとか。

 

            

1899年アメリカ陸軍士官学校にトップ入学し、開校以来2番目の成績でトップ卒業した。父親が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官であったため、彼も副官として東京で勤務した。ここから生涯に渡る日本との関係が始まったことになる。1930年に陸軍参謀総長に最年少で就任。その時の副官が後の大統領アイゼンハワーであり、マッカーサーがフィリッピン軍の軍事顧問を務めていた時も副官を務めた。但し、マッカーサーの希望で副官になったのであるが、意外なほど冷遇されたそうである。

これ以降も随所に出てくることであるが、マッカーサーは簡単に言えば気位が高く、鼻持ちならない成績優秀者(英国貴族出身という理由からか)然とした態度、行動が多い。後々トルーマン大統領に朝鮮戦争での原爆投下問題で免官させられ、米国に帰国する延引ともなる。親戚筋のルーズベルトも随分彼には手古摺ったようであるが。

アイゼンハワー

フィリッピンの軍事顧問・高等弁務官をし、その際フィリッピンの財界と深い関係になり、米国資本の在フィリッピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていたようである。日本との開戦当初日本陸軍に追い立てられ、ルーズベルト大統領の命令でフィリッピンのケソン大統領と、命からがらオーストラリアに逃げ出して、彼の軍歴に少なからず傷を付ける羽目になった。

I Shall Return・・・>は彼の十八番とも言える言葉では有るが、本音は名誉の挽回とフィリッピンにおける利権にあったようである。このことが後々ニミッツや米国統合参謀本部との作戦方針と食い違いを引き起こす原因となった。ついには軋轢が嵩じて両者が合流したレイテ沖開戦の際、ニミッツのハルゼー第3艦隊とマッカーサーの指揮下のキンケイド第7艦隊と連絡が取れない事態が発生した。

フィリッピン再上陸

この事件はその後、インディアナポリスの撃沈事件の際の救助遅滞の主要原因となって来る。日本軍に於いても陸軍と海軍の意思の疎通の問題は顕著だったようであるが、米国軍内でも個人的な確執が大きな問題を引き起こしていたようである。

何処も同じ秋の夕暮れか> 

マッカーサーの持つエリート意識が、後にアイゼンハワーに大統領職を奪われ、米軍内、その他で不人気であった原因だったかも知れない。資料には現れてこないことであるが、マッカーサーの日常会話が意外とクイーンズ・イングリッシュ的な発音であったのではないかと憶測する。アメリカ人はこれに強い反発意識を心の中に持っているとか。

白洲次郎氏

余談であるが、・・・・戦後、吉田内閣時代のGHQとの連絡員をされていた、白洲次郎氏が正統なクイーンズ・イングリッシュでマッカーサーの幕僚とやり合い、<日本一生意気な男>と揶揄されていたのもこの事である。マッカーサーも彼に天皇からのプレゼント問題で叱られた経験があるとか・・・・いやはや

問題の根底には以外と他愛のないことが起因していることが多いのである。次回は彼の意外な告白と見識について書いてみたい。

 

喫茶店でちょっと一服  

Goo blog character 

 

その2

  暗号-02 

今回はブログが長めになるので、お休みとします。 

 

 

歴史の真実とは?

 

相変わらず、今の一般の日本人には、このブログのこの手の話題は興味が無い様でもある。この辺りがイスラエル人・ユダヤ人と根本的に違うと思う。最近、文部科学省が「日本史」を必修科目とした判断は、遅きに失したと思うが的確な判断であると思う。ついでに、「世界史」も必修にしたら良かった。歴史を学ばない国民は将来の国家の消滅に繋がると確信する。 

 

 <米国重巡洋艦・インディナポリス撃沈の謎!>-004

 

米重巡洋艦・ インディアナポリスの不運と艦長の不運  

-03

 

米国からテニアン基地に原爆を運搬し、目的を果たしたにもかかわらず即母港に帰港せず、さらに東方向のフィリッピンのレイテに向かった 

 

先回は日米の艦船が不思議なことに同日に母国の軍港を出航した・・・ことについて、それは「偶然ではないのではないか」という観点から書いてみた。今回はインディアナポリス号が原爆をテニアンで降ろして、グアムに向かい、且つフィリッピンのレイテに向かったのは何故なのかについて考えてみたい。

1945-7-下旬ころは既に沖縄戦は終了し、日本軍は本土決戦に向かってひた走るころである。終戦まで半月ほどと迫っていた。レイテに於いてはマッカーサー率いる米軍は日本の第14方面軍とフィリッピン山中で戦闘中であるが、態勢は既に決まっていた。にもかかわらず、重大任務を終了した中古の重巡洋艦を何故この時点で、レイテまで派遣したのか。格別差し迫った必要性があったのであろうか。

山下 奉文 大将

インデイアナポリスが太平洋艦隊司令部から受けた命令は

グアムに寄港の上、レイテに行って訓練を受けよ。訓練が終われば、第95機動部隊指揮官、ジェイムズ・B・オルデンドルフ中将の指揮下に入れ>であった。

以前この艦は米軍の硫黄島攻略の際戦闘に加わっていた。そうであればグアムから直接日本との戦闘海域に、直接向かっても良いではないか。物資や兵器などの補給であれば、グアムで用が足りるはず。何か特別の任務が存在したのであろうか。

この点が如何にもわざとらしさが強く感じられるのである

最も重要な原爆搬送(ウラン235)に護衛もつけないで、単独でテニアンに向かわせたことは、機密保持と目立たせない必要性から、この行動はある面では理解出来る。 途中で日本の艦船に撃沈されても単独行動であるから、秘密は保持できる。しかしである。任務終了後であれば何をそのように、特に格別用のない海域に向かわせる理由が有るのであろうか。

*1- インディアナポリスが搬送した原子爆弾は、ウラン235だけでリトル・ボーイの爆弾格納容器は他の飛行機で運搬したとの資料もあるが、正確なところは分からない。

 2- 日本潜水艦戦史」の資料の840p・-最後の回天戦・・の記述では、・・<回天多聞隊(第8次玄作戦)>・・によれば、1945-7-14~1945-8-8までの間に、回天特攻基地経由で伊-53、伊-58、伊-47、伊-367、伊-366、伊-363の順で、沖縄南方の中部太平洋に向けて出撃している。そして、全艦無事に日本に帰投していた。・・・・・この記述からこの資料は、伊-58が偶然にインデイアナポリスに遭遇したということにされているが、爺はこれには疑問を呈する。

インディアナポリス生存者救助作業

先回は終わりの方で、インデイアナポリスが第三番目の原爆を積んでいたという事を書いた。この話はテニアンの米軍兵士の中で話されていた噂である。札幌or新潟に投下予定という噂、結果的にはデマで有ったようである。しかし、実際に何個の原爆がテニアンへ運ばれたのかはわからない。

しかしながら、穿った見方をすれば、米軍中枢部は初めからこの任務終了後は、この艦を闇の世界に追いやり、消去するつもりではなかったのか。米国本土からテニアンへの足取りを有耶無耶にする為に(原爆に対する後ろめたい事実を永久に隠蔽するが為に

結果から言えば・・・日本海軍に艦の最終処理を委託したも同然である。

 

  

・・・真実はどうなのよ  

 

 

 冗談ではあるが、<日本海軍がそのような依頼を受けるはずもない

先回も書いたが、この時点で日本の情報機関が、インディアナポリスのレイテへの行動を掴んでいたかもしれない。当時の陸軍の情報機関の暗号解読能力は、海軍よりも上であったようである。これは対ソ戦による必要性から、以前から高度な技術力を持っていたことは事実であった。(関東軍の情報機関がソ連の発する気象情報の暗号解読をして、現地の気象を正確に捉えていた事実がある)そのようなことからレイテの第14方面軍やサイゴンの南方軍の司令部が、グアムとレイテとの暗号通信を解読していたことは考えられる。(その際の暗号の硬さがどの程度だったかによるが)

また、日本の南方軍(インドシナ・サイゴン)が既に6月の時点で、インド・ニューデリー放送、中国・重慶放原爆開発、投下の情報が流されているのを傍受していた。このことは大本営に報告済みである。レイテの司令部も日本軍大本営も原爆投下が近くあることは知っていた筈である。これは伊-58潜水艦が呉軍港を出航する一月以上も前のことである。だから日本海軍・第六艦隊司令部もこれを当然知っていたと考えるのが筋である。

この辺りの消息について多くの書籍では、一様に大本営の中枢のある部門の将官がこれを握り潰し、最高レベルまで届かなかったと記述している。爺はこれこそ当時の日本軍組織を愚弄するものであると考える。組織の間の情報は複雑であり、簡単に一部のものが握り潰せる代物ではない。日本でも現実に陸軍、海軍が独自に1941年以前から原爆開発をしていた。開発時期は米国よりも早いのである。軍人の中には技術将校が沢山いるから、この情報の重要さは充分承知であったはずである。結論的にはこの手の記述は作為であると思う。

南方軍将官達

唯、不思議なことに当時の伊-58潜水艦が所属していた、第六艦隊司令部の海軍中佐・水雷参謀・鳥巣建之助氏の関係資料には、この辺りは明確にされていない。恐らく機密に属したことなのであろう。後日、彼は詳細に述べるとはあるが、今の所関係資料は見つからない。

しかし、そうであってもインディアナポリスがレイテに向かって来る事は、日本軍は通常知る由もない。唯、米軍のレイテのマッカーサーに当てた通信を、傍受・解読していた場合はこの限りではない。グアムとレイテの将官達の意思の疎通の不味さは、相当の模様であったようである。インディアナポリスの悲劇の大部分はこの部分に起因する

以上いろいろ憶測をしてみたが、謎は氷解しない。米軍が是ほどまでに原爆搬送を隠す意図が理解できないただ、以下の場合はその限りではない。

  広島に投下された原爆は、果たして米国で開発・製作されたものなのか 

リトルボーイ(広島投下原爆)

原爆開発に対する後ろめたい事実を永久に隠蔽するが為に

真実は意外にもここにあると考える。 もし、そうであれば米軍は大きな後ろめたさを持っていたが為に、是が非でもインデイアナポリスを闇から闇に秘密裏に葬ってしまいたがったに違いないと爺は考えるのである。

ここで、高橋五郎著「スパイ、べラスコの見た広島原爆の正体」の中の一説をご紹介する。

[1978年に「オークリッジ国立研究所」が放射能の影響を調査するため、国防総省核防衛局に広島型(ウラン型)の核実験を要請するも「広島型原爆は1個も存在しない。作るのは危険であり同じものはない」との返答だった。ところが、1981年5月になってNHK取材班がロスアラモス研究所付近の倉庫に3個の「リトル・ボーイ」(ウラン235型)が保管されていることを、偶然発見したのである。この事実を知る者はアメリカ原子力機密法に触れるため、誰にも喋れなかったというが、1個もない」はずのウラン235型が「3個あったのだ]

ロスアラモス研究所

1981-5月現在、ウラン型原爆が3個も残っているのに、何故わざわざ長崎にプルトニューム型原爆を投下したのか。トルーマン大統領がポツダム宣言を発する直前まで、米国内の原爆実験(プルトニューム型・トリニティー実験)をヤキモキしながら待ち続ける必要がないではないか?長崎に2個目のウラン型を投下出来たはずである。何故、これを使わなかたのか。ここで又大きな疑問が出てきた。・・・他国で造られた原爆は出来るだけ使いたくないからか?・・・ 

 

読者はここまで読んで、一笑に付すかもしれない

しかしである。是は冗談で書いたのではない。列記とした客観的傍証が有るのである。先程、<日本のNHK取材班の撮影隊が偶然、米国本土の原爆開発のメッカであるロスアラモスで、とんでもないものを偶然に撮影してしまった>ことを紹介した。 然るに・・何故???

このことについては余りにも大きな話でも有るので、いろいろな事項を書いた後で改めて書いてみたいと思う。

 

 

喫茶店でちょっと一服  

Goo blog character 

  

その3

  

数日前、面白いメールが飛び込んで来た。<貴方のブログをフォローする>という文章である。相手の差出人は・・・ウエールズ・UK在住・・・つまり  United Kingdom であろうか。個人なのかある程度の組織なのかは分からないが・・・英文でメールを送ってもらっても爺にはちと困るんだがね~ ・・・・まあ、地球の反対側の場所からとはね~

以前、アメリカ テキサス州 オースチンの方からコメントを 頂いたことがある。この時もビックリしたが・・・でも、今回は爺のブログのどこに興味をもたれたのか? UKと聞くと一寸ビクッとする。何しろ情報解読・謀略では世界一の国だからね・・

<思い当たる節はあるのだが>   考えすぎだよ! 

 

 

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