茜ちゃんの「島日記」
-008-02-01
台風5号が西太平洋から日本海まで延々と走り続けた。
史上3番目の長生き台風となったとか。でも、奄美も被害が出た。
自宅は何でもなかったが、大きなハゼの樹が倒壊した。
都会育ちには解らないこの木の怖さ。
小枝を掃っている時にカブレてしまい、数日後から現在までその影響が出ている。
カブレの強さは漆以上で全身の症状になる。今も時々は少し痒くはなるが。
昔から蝋の原料にこの木の実を使っていたので、
各所に植えられているのだ。隣地の空き地に生えて来たようだ。
小鳥が実を運んで来たのかもしれない。
ハゼの樹
お陰で一時腕がこんなになってしまった。痒さは大変なものだ。
免疫疾患が持病なので医者での治療は注意を要する身である。簡単に軟膏を使う訳にも行かぬのである。
ある日の朝方不思議な夢を見た。内容は定かでないが・・
起きかけに「塩」という言葉をはっきり覚えている。
何故なのか意味が解らない。ふと考え付いた。
傍のパソコンのスイッチを入れて、<塩 カブレ 痒み >と打ってみた。
何も出てこない。しかし、暫くして・・本州の山間の温泉旅館のご主人の投稿・・・が眼に止まった。
詳細に順を追って「自然塩」を使った、「痒み・カブレの手当て」が記載されていた。
何度も読んで・・そのまま実行してみた。
終了後・・何と痒みがピタッと止まったではないか。<これは凄い!!>
自然塩は海水をから製造する。安い科学塩ではない。塩の成分以外に多くのミネラルが含まれている。
高級品は結構高い。味も可なり良いのも道理だ。このミネラルが痒みを止めるのであろう。
細胞の中の「ヒスタミン」の活動を押さえるようだ。それで痒みが止まる。
後は人間の治癒力であろう。今は痒みは殆どない。偶にヒリヒリするが。
自然塩を使った治療方法
1- シャワーなどで身体を温める。毛穴を開かせるためであろう。
2- 中位の容器に自然塩を入れる。 底に塩が残る位に過飽和状態にする。
3- 刷毛などで患部を丁寧に塗る。
4- 暫く置いてから・・お湯で丁寧に患部を洗う。塩気を取り除く。
5- 冷たい水で患部を再度洗う。 細胞の中のカブレ物質を絞り出す効果であろう。
6- タオルで患部を注意して拭う。他に遷る可能性も有るので、即その後タオルは洗濯すること。
7- 強い扇風機の風で患部を乾かす。
これでOKである。 まだ痒みが出る様なら、時間を置いて同じことを繰り返す。
何回か繰り返すうちに自然に痒みが消えて行く。不思議である。
大事な事は無意識に患部を掻かぬように注意をすること。
アレルギー体質の方向けには良い方法かも。病院での治療も否定はしない。
ただ軟膏の弊害も有るから、気を付ける方向けである・・・参考までに
面打ち再開!
-10
孫次郎の秘密!
006
初代 堀安右衛門 師
<ヲモカゲ・孫次郎>は今回で6回目になった。先回までは橋岡一路師であったが、
今回からは同じ年齢の86歳で、関西を代表する能面師・初代堀安右衛門師の登場である。
堀安右衛門の経歴
1931年 京都府福知山生まれ 本名・堀 博之
1953年 謡曲を河村師 狂言を茂山三郎師に習う。狂言面の修理・写しを始める。北澤如意師の内弟子になる。
1958年 能面師として独立する。このころから観世流の観世寿夫師の指導を受ける。
堀安右衛門師は現在、福知山市内で活躍されている。現在まで現代能面師の中では、最高の能面集や指導書を上梓されて来た。
1- 平成20年 「能面を打つ」 淡交社
2- 平成16年 「面からたどる能楽百一番」 淡交社
3- 平成14年 「能面打ち 堀安右衛門の作品と技 (上) 淡交社
4- 平成14年 「能面打ち 堀安右衛門の作品と技 (下) 淡交社
5- 平成 1 0年 「能面 面の打ち方」 淡交社
6- 平成 03年 「能面打と入門」 DVD 平凡社
今回からはこれらの全てを使って基礎資料とし、さらに<ヲモカゲ・孫次郎>に迫ってみたい。
今回は 「能面を打つ」 淡交社 から、師と親交のあった観世寿夫師の言葉を抜粋して見る。
<室町時代の能面師の増阿弥、龍右衛門、越智、赤鶴、福来、氷見達の作品は、
それ以後の時代の能面と比較すると、まるで月とスッポンである>
其れに引き続いて、堀安右衛門師曰く・・
<河内、是閑、満照などは、本面を直接手に入れて写している。
大宮大和(河内の弟子)は卓越した打ち手である。次の時代の人は写しを手本にして写している>
孫次郎 河内作
この二つの文章は非常に重要な事を暗示している。
桃山~江戸期の河内、是閑の作品もスッポンだと言っているのである。
能面の創造期の作品の素晴らしさを指摘している。確かに河内は「若女」を初めて打った。是閑も超一流である。
それでも、河内は金剛家の依頼で「孫次郎」を打ち、現在も金剛家(京都)の代表的所蔵面である。
河内の「孫次郎」は本面「ヲモカゲ・孫次郎」を傍に置いて打った可能性はかなり高い。
(結果的には河内の孫次郎の面相は「ヲモカゲ・孫次郎」とは違う面相になった。
これには他の秘密がある。鈴木慶雲師がそれを著書で暗示している)
ヲモカゲ・孫次郎
ここの記述は非常に大事なのである。
明治期に入ってからは少なくとも、初代堀安右衛門師と橋岡一路師は、
本面「ヲモカゲ・孫次郎」を傍に置いて、写したことは両者の関係の資料の記述などからそれを証明できる。
これは間違いない事実である。
江戸期の初期の何時までそれが可能で有ったかは、次回以降に詳細に述べてみたい。