
「俳句脳」 茂木健一郎・黛まどか著 (角川oneテーマ21) 定価:705円
【この本を読んだ理由】
毎月の俳句の宿題で悩んでいた矢先、いつものように文庫本・新書本を物色していたら、「俳句脳」というタイトルが目に入ったので、思わず購入した。
俳句作りがうまくいく“きっかけ”になるのではと、ほのかな期待を込めて・・・・・。
【読後感】
「俳句脳」、“俳句をやるための特別な脳”があるのだろうか?
そんなことを思いながら読んだ。
著者は、脳科学者としてお馴染みの茂木健一郎。
そして俳人の黛まどか。
でも、俳句を少しやっていながら、黛まどかは初めて聞いた名前だった。
この本は三部からなっている。
第一部 俳句脳の可能性 茂木健一郎
第二部 ひらめきと美意識ーーー俳句脳対談 茂木健一郎・黛まどか
第三部 俳句脳ーーーひらめきと余白 黛まどか
私には、第一部は難しくてあまりよく分からなかった。
その中で、特に気になったところをピックアップしてみた。
“「今、ここ」から一瞬のうちに通り過ぎていってしまう感覚を記憶に留め、言葉によって顕現化するというまさに「クオリアの言語化」が、俳句という文学なのである。”
“俳句の文字列にあるのは、輝く個性のままに屹立している一瞬の心の間であるのだから、抽象的な思考から快感を得る営みとして、俳句ほど有効なものはない。
意味の呪縛を超えたところで、言葉を知ること。
俳句観賞に求められるこうした現象は、脳の快感物質が求めていることと見事に重なるのである。”
“唐突に聞こえるかもしれないが、日本の未来はソフトパワーにかかっている。
そろそろ多くの人々がそのことに気づき始めている。
ハードウェアを中心とした「メイド・イン・ジャパン文化」が海外を席巻した時代は、科学信奉の衰弱と共に次なる波にその席をゆずろうとしている。”
これらの文章は、本文の中で解説されているが、これらの文章だけを取り出して読んでみると、やはり難しい。
でも、第二部、第三部を読み進むうちに、私の中で、もやもやしていた俳句に対するいろいろな疑問や悩みについての回答が得られたような気がした。
第二部の本文より、
“言葉の上では十七音節しか書きませんが、あとのことは余白に漂っているのです。
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たまたま文字や言葉として表れたものが短いだけで、実はその余白にものすごいことを紡いで、それを隠しているというのが俳句なのですよ。”
つまり、俳句で何もかも言おうとすれば説明になるし文字数が不足するので不可能だということだ。
俳句の言葉に託されたことを俳句を読んでもらう人に想像してもらえればいいと言うことだと“余白の意味”を解釈した。
もう一つ、本文より、
“私はこの頃、「俳句を楽しみましょう」と同時に、「一緒に俳句を苦しみましょう」と言うことにしました。
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さらに言いたいのは、「でも、苦しむとすごく面白いよ」なのです。”
ということは、俳人ですら、俳句作りに苦しみを感じているということなのだ。
“一句を得た瞬間の喜びを知ってしまったら、生涯俳句を止められなくなります。”
でも、いい句ができると、ドーパミンの分泌がよくなるらしく、いい気分になれるということだ。
茂木さんのお言葉をもう一つ紹介すると、
“俳句の畑を耕す脳のメカニズム
まず、習慣にならないと駄目だということですよね。
長い時間が経たないと、熟成していかない回路があります。
脳の回路とは積み上げですから。
よく若い時じゃないとできないことがあると言いますが、正確な言い方ではありません。
歳をとっても脳は変わり続けます。
ただし、それまでの人生の履歴を前提に変わり続けるんです。
三○歳が三一歳になる時は、三○年間の積み重ねを前提に変わります。
したがって、四○歳が四一歳になる時は、積み重ねたものが多い分、捕らわれる情報の多さで脳が変化しにくくなるのです。
いずれにせよ、どんな経験を日々積んでいるかで変わります。
自分の過去の全てがその人の俳句に表れるんです。
それが「耕す」ということでしょう。”
つまり、俳句は歳に関係なく楽しむことができることは確かだ。
でも、継続していくことが大事らしい。
特に、“俳句にはその人の人生が表れる”ということに、少し恐ろしさを感じた。
第三部より、
“理解ではなく納得
俳句は頭で理解するものではありません。
また理屈で組み立てるものでもありません。
たくさん作ってたくさん読んで、身体が覚えていくものです。
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自転車乗りと同じです。
頭で理解するのではなく、感覚的に納得するものなのです。”
“俳句は直感
直感とは、感覚ではなく実は体験です。
体験の積み重ねから直感はやってくるものだと思います。”
“弛緩と緊張
「どんなときに俳句ができるのですか」とよく訊かれます。
絶景を前にしたとき、旅をしているとき・・・・。
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が、残念ながらそう簡単には俳句は作れません。
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実際「奥の細道」では芭蕉も松島の絶景を前にして一句も作っていないのです。
「絶景に向かうときは、奪われて叶わず」芭蕉の言葉です。
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実をいえば、「締め切りが迫った状態で髪やお皿を洗っているとき」などが、俳句がひらめくときです。
つまり茂木さんが言うように、ひらめきは弛緩と緊張が必要なのですね。”
専門家の俳人すら、俳句はそう簡単にはひらめかないようだ。
これらのことを読んで、私は幾分安堵の気持ちと俳句を続けていく気持ちになれたのだった。
この本を読んで、俳句脳という特別な脳はないようだが、俳句作りの難しさを再認識させられた。
と同時に、年老いてからのスタートほど、大変であることも理解できた。
俳句は、継続して経験を積むことが大切であるので、焦らず気長に取り組むことでよいのだと思った。
そして、偶然でもいいから、いい句が出来たときの感動「アハ体験」を夢見ていこう。
これからも、俳句を続けていくために、とても勉強になった一冊である。