S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

受容と共感

2005年05月20日 | つぶやき
NHKの朝の連ドラの「ファイト」。
今日の回のこと。
簡単なあらすじは以下の通りなのですが。
友人とのトラブルで高校に行けなくなったヒロイン。
このトラブルはもともとは、父親が自分の正義を通したことが原因なために、そのトラブルと不登校の理由が両親に言えない。
言うことは、父親を傷つけることになる、と。
不登校を続ける娘に対してその理由がわからないことにいらだつ両親に何も言わず、「友達」である競走馬のいる厩舎に通うヒロイン。
そして、母親は、厩舎で厩務員の、馬に話しかける言葉に気づきを持つ。
厩務員は、馬に、「オマエは気が立っているのだな」とゆっくりと話しかける。
「理由がわかるのか」と問う母親に、「理由はわからないが、気持ちはわかる」と答える。
母親は、家に帰り、娘に対して、ただ「つらかったね」と言葉をかける。
そうそうそうそうそう、
そうだ、そうだ、と強く思う。
「つらい」と嘆く人の前でしてしまうまちがいは、まず理由を聞いて、そのつらさを「検証」しようとすること。
ちがう。
それは、後。
「つらい」と嘆く人の前で、まずやるべきことは、
「ああ、あなたはつらいのね」と、その感情を共有することだと思う。
まず理由を検証されても、その理由は、その当事者と聞き手とでは、微妙に価値観が異なる。
つらさを背負う人は、たいがいにおいて、自分を責めている。
それを口にしたところで、まず最初に、理由と事情を検証されるのでは、心もかたくなになる。
その理由と事情の前で、裁かれるような感覚さえ、持ってしまう危険がある。
必要なことは、「ああ、あなたはつらいのだね」と、つらさを感じる本人を、本人の気持ち自身を、本人自身を、まず、そのままの姿で受けとめることだと思う。
受けとめてくれる人間がいるかいないかで、つらさはさらに、大きな孤独感をプラスすることが関わっていってしまう。
受けとめてくれる人間の存在を感じるとき、人は、自ら、そのつらさに向かい合って、解決という扉を見つけ開いていく強さを持つことができる。
そのときに、まず「ああ、あなたはつらかったのね」という立場を持った人間は、裁く相手でも検証する分析者でもなく、「つらさを共に解決しようとする協力者」になることができる。

つらさを抱えてる人間に最も必要なのは、「つらさを共に解決しようとする協力者」なのだと思う。