S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
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課せられた「宿題」

2005年05月08日 | 「障害」に関わること
わたしは生家で室内犬を飼っていたので、「犬」という動物が好きな方であると思う。
それでも、障害をもつ子を我が子とし、障害をもつという人たちを間近にする生活になって、犬の散歩をする人に対しての感覚が変わったところがあると思う。
変わったというか、漠然と、不思議な感じがするというか。
散歩させながら、ぼとぼとと落とす糞の始末をする人を見て、漠然と思うのです。
なぜ、この人たちは、要支援・要介護という家族がいるわけでもないのに、わざわざこうして排泄の自立が生涯にわたってできない動物を飼おうとするのだろう。
まあ、要支援・要介護という家族がいる人でも、犬を飼っている人はいるかもしれないといえばそうなのだけれど。

要支援・要介護というのは、排泄の問題に直結してくる。
乳幼児というのは、状態として「排泄に要支援・要介護」であるので、保護者は乳幼児の排泄に関して日常的に関わる。
子どもは排泄の自立とともに、排泄物を保護者に見せるという機会を「恥」と認識するようになり、見る・見せるが減っていくことで、精神的な成長をそこに見ることができるものでもある。
しかし子どもに障害があれば、その障害によっては普通の子のように排泄の自立と精神的な成長を見るということが普通の子同様の発達を見せていく場合もあるけれど、障害の種類・程度によっては排泄の自立に時間がかかったり、または困難か不可能な状態ということも当たり前に存在する。
障害をもたない人間でも、疾病や事故、そして老化によって、排泄が自立できない状態になることは起こりえる。
排泄物を「恥」と認識することを超えなければ、生きられないという中で「生きる」という「生」もあるわけで。
また、排泄物を「汚物」ととらえていたら、共に生きられないという中で「生きる」という「生」もあるわけで。

先日、この「排泄物」に関しての記事を上げて。
その記事に「ウンコ」というワードを対象に、二種のトラックバックが入り、わたしはこのトラックバックを結果的に「お断り」することになったのですが。
「お断り」の理由は、二種のトラックバックは、「ウンコ」というワードに対して、「恥と汚物としての存在」として、笑うネタに扱っていることで、わたしの出した「ウンコ」というワードとは感覚が違うからということだったのですが。

この二種のトラックバックを送信された方、わたしの「お断り」に対して、丁重にお詫びをくださいました。
その先方の態度に感謝しつつ、宿題のように残った思いというものがありまして。

「排泄物」を「笑う」という感覚が、多数の「障害をもたない、または介護の必要がある人間が現実的な存在ではない」人のものであり、でも実は、そうした多数の「普通の存在」の人々を、少数の「普通ではない存在」の立場にいる層の「生」を理解する群に引き込んでいかなければ、「障害をもつ、または介護の必要がある人間」の、本当の意味での「福祉」は成り立たないということ。
そうした人々に対して、距離を持つ持たれるという関係ではなく、共存する感覚を持つ持ってもらうという方向に持っていくには、どんなことが自分には必要なのだろうか、と。
どんなことが、自分にとって「やるべきこと」なのだろうか、と。
これは、ブログという場を超えて、自分にとって「思考の課題」として持っていくきっかけになったように思います。

二種のトラックバックに対して「こっちの内容を読んで送れよ」という感覚で、削除と共に忘れてしまうことは、実は簡単なことなのかもしれない。
でも、それなりに自分が得たものは、また別の意味で大きかったな、などと感謝の意味で思うのでありました。