1.障害児の位置検索機器
娘の自力通学には、位置検索機所持が必須。位置検索機が存在するからこそ、挑戦できることでもあったと思う。
我が家では、その障害児の位置検索機器を、P-doco miniから、キッズケータイに変更。理由は、以下のとおり。
・ドコモがPHSサービス終了を発表したこと
(P-doco miniを利用した位置検索サービスも当然使えなくなる)
・新位置検索サービス「イマドコサーチ」の位置検索の正確性に期待したこと
(PHSの位置検索は誤差が大きい)
・本人に電話に関してのスキルを身につけさせたかったこと
(使える能力が無くても「電話をかけてください」と人に依頼するスキル)
2.「障害児のきょうだい児」との特別ラインとして機能する携帯電話
わたしは携帯はボーダフォン社を利用。P-doco mini導入時にボーダフォン社の解約を含めて考えた末に、ドコモのハーティ割引を利用して、ドコモ機器を新たに契約。娘の位置検索モニター専用機として機能させることにした。これで娘に何かあったときには、位置検索をかけながら電話することが可能。
この携帯を娘に関しての位置検索に使用しない時に使用するやり方として、新たな効能を発見。それは娘と息子と二人連れて外出するときに、息子に持たせるということ。
娘と息子と、行動のパターンとその手のかかり方は全然違う。わたしの手と視線は、自ずと娘にばかりいくということはケースとして多い。また、常に娘の行動パターンに息子を合わせるのはかわいそうだという感覚もある。その解決に、携帯という機器が力を発揮するというわけ。
たとえばなんらかのイベントを見に行く。息子はさまざまな興味を示して、ばたばたと行動したい。しかし娘はそういう行動を好まず、また息子のペースにはついていけず、そしてこういう場で娘は一人で行動したがり、うっかり目を離すと、あっという間に迷子になる。わたしの視線は自ずと娘にべったりと貼り付く。息子にはなかなか気を配ってやれない。
そこで機能する携帯。彼の首に携帯をかけて自由な行動を許可する。何かあればわたしは電話で彼を呼び、また何かあれば彼は電話でわたしを呼ぶ。このことが半ば習慣になったときに、見えてきたひとつの線があった。
息子に聞く。推測した回答を得る。つまり、息子は自分が母と特別なラインを所持しているという感覚。生活の中で存在するある特定の場面において、娘に対していわばアナログ的に気を配り、息子に対していわばデジタル的に気を配る、とでも言えばいいのだろうか。この「特別なライン」が存在しなかったら、彼はこうした状態において「障害を持つきょうだい児の存在によって淋しさを感じる」という気持ちをもつ可能性があったのではないか。そのことを軽減できたのでは、という仮説。
小学生に携帯をもたせて使用させる、ということは、賛否両論あるだろうと思う。しかし、障害児のきょうだい児としての息子にとっては、それは携帯の機能以上に精神的に機能しているのだという実感。これは大きかった。携帯をもつ、ということがまあ普通という年齢に達したときには、こうした「特別なライン」なんぞもう必要なくなっているだろうと思う。通常のケースで年齢を語るというのとは、少し違った側面があると思う。
ただし、携帯を持たせても事件に巻き込まれることはある。そのことは忘れてはいけないと思う。だからこそ、キッズケータイという商品が生まれたのだから。
息子に関して今回キッズケータイを考えなかったのは、すでに6年生、もうキッズ機の年齢ではないよな、ということ。機器を「特別なライン」維持のためにちょっと貸し、の時期は、あと数年だろうと思う。(ちなみに「特別なライン」開始は4年生)
思えば息子が幼児期の頃、ほぼ双子状態だった日々。娘の手を引いてゆっくりと歩くペースに幼児の男の子である息子は合わせられず、一人走って交差点を渡ってしまった日の光景。変わる信号、交差点のむこうとこちら。行きかう自動車と戻りたがる息子。それを押さえてくださった、その場にいらしたご婦人。
信号が変わり交差点を渡り、危険だと叱る。二度とやってはいけないと叱る。きょうだい児という複数の子どもが家庭にいれば、それはありうる光景かもしれない。それでも、障害児のきょうだい児には、年齢を重ねても、形を変えて同様の原因による叱責の可能性は常にあるだろうと思う。「障害」という側面をもって、特定の能力に関して「育たないきょうだい児」を彼は抱える。
その叱責に、孤独を感じないか、と思う。そう思うのは考えすぎだろうかとも思う。でも、わたしは娘の障害について考えるのと同じように、息子が背負うもの、そこに起因する孤独というものを考えていたいと思う。それは考えすぎくらいな程度の方が、息子にきちんと伝わるのではないかと思っている。渡せるときに渡せるものを渡しながら、傷や曇りや孤独の無い形で親離れの時期を迎えてほしい。
娘の自力通学には、位置検索機所持が必須。位置検索機が存在するからこそ、挑戦できることでもあったと思う。
我が家では、その障害児の位置検索機器を、P-doco miniから、キッズケータイに変更。理由は、以下のとおり。
・ドコモがPHSサービス終了を発表したこと
(P-doco miniを利用した位置検索サービスも当然使えなくなる)
・新位置検索サービス「イマドコサーチ」の位置検索の正確性に期待したこと
(PHSの位置検索は誤差が大きい)
・本人に電話に関してのスキルを身につけさせたかったこと
(使える能力が無くても「電話をかけてください」と人に依頼するスキル)
2.「障害児のきょうだい児」との特別ラインとして機能する携帯電話
わたしは携帯はボーダフォン社を利用。P-doco mini導入時にボーダフォン社の解約を含めて考えた末に、ドコモのハーティ割引を利用して、ドコモ機器を新たに契約。娘の位置検索モニター専用機として機能させることにした。これで娘に何かあったときには、位置検索をかけながら電話することが可能。
この携帯を娘に関しての位置検索に使用しない時に使用するやり方として、新たな効能を発見。それは娘と息子と二人連れて外出するときに、息子に持たせるということ。
娘と息子と、行動のパターンとその手のかかり方は全然違う。わたしの手と視線は、自ずと娘にばかりいくということはケースとして多い。また、常に娘の行動パターンに息子を合わせるのはかわいそうだという感覚もある。その解決に、携帯という機器が力を発揮するというわけ。
たとえばなんらかのイベントを見に行く。息子はさまざまな興味を示して、ばたばたと行動したい。しかし娘はそういう行動を好まず、また息子のペースにはついていけず、そしてこういう場で娘は一人で行動したがり、うっかり目を離すと、あっという間に迷子になる。わたしの視線は自ずと娘にべったりと貼り付く。息子にはなかなか気を配ってやれない。
そこで機能する携帯。彼の首に携帯をかけて自由な行動を許可する。何かあればわたしは電話で彼を呼び、また何かあれば彼は電話でわたしを呼ぶ。このことが半ば習慣になったときに、見えてきたひとつの線があった。
息子に聞く。推測した回答を得る。つまり、息子は自分が母と特別なラインを所持しているという感覚。生活の中で存在するある特定の場面において、娘に対していわばアナログ的に気を配り、息子に対していわばデジタル的に気を配る、とでも言えばいいのだろうか。この「特別なライン」が存在しなかったら、彼はこうした状態において「障害を持つきょうだい児の存在によって淋しさを感じる」という気持ちをもつ可能性があったのではないか。そのことを軽減できたのでは、という仮説。
小学生に携帯をもたせて使用させる、ということは、賛否両論あるだろうと思う。しかし、障害児のきょうだい児としての息子にとっては、それは携帯の機能以上に精神的に機能しているのだという実感。これは大きかった。携帯をもつ、ということがまあ普通という年齢に達したときには、こうした「特別なライン」なんぞもう必要なくなっているだろうと思う。通常のケースで年齢を語るというのとは、少し違った側面があると思う。
ただし、携帯を持たせても事件に巻き込まれることはある。そのことは忘れてはいけないと思う。だからこそ、キッズケータイという商品が生まれたのだから。
息子に関して今回キッズケータイを考えなかったのは、すでに6年生、もうキッズ機の年齢ではないよな、ということ。機器を「特別なライン」維持のためにちょっと貸し、の時期は、あと数年だろうと思う。(ちなみに「特別なライン」開始は4年生)
思えば息子が幼児期の頃、ほぼ双子状態だった日々。娘の手を引いてゆっくりと歩くペースに幼児の男の子である息子は合わせられず、一人走って交差点を渡ってしまった日の光景。変わる信号、交差点のむこうとこちら。行きかう自動車と戻りたがる息子。それを押さえてくださった、その場にいらしたご婦人。
信号が変わり交差点を渡り、危険だと叱る。二度とやってはいけないと叱る。きょうだい児という複数の子どもが家庭にいれば、それはありうる光景かもしれない。それでも、障害児のきょうだい児には、年齢を重ねても、形を変えて同様の原因による叱責の可能性は常にあるだろうと思う。「障害」という側面をもって、特定の能力に関して「育たないきょうだい児」を彼は抱える。
その叱責に、孤独を感じないか、と思う。そう思うのは考えすぎだろうかとも思う。でも、わたしは娘の障害について考えるのと同じように、息子が背負うもの、そこに起因する孤独というものを考えていたいと思う。それは考えすぎくらいな程度の方が、息子にきちんと伝わるのではないかと思っている。渡せるときに渡せるものを渡しながら、傷や曇りや孤独の無い形で親離れの時期を迎えてほしい。
すみません、反応遅くなりました。
写真、楽しませていただきました。
>ROCOさま
いろいろな思いを背負わせてはいるけれど、十字架とまで言ってしまうと、わたしはちょっと違和感はあります。
うん、なんというか、それじゃ、障害をもつ子が生まれたら、下の子、作れないよ、という感じ。
育て方に配慮はいると思うのですけれどね。
障害児のきょうだい児のハンディは、外、というよりは、まず家の中から生まれるということ。
この辺が、わたしは持論、というヤツになると思います。
この辺は「「不平等」のススメ」なんてことをまあ、考えている、と。
http://blog.goo.ne.jp/satomies/e/32819d613e7e968df15be73a8fd19318
そして、親というものが子どもに背負わせてしまうものは、実はいろいろあり、きょうだい児、というものは、そのひとつの立場なんではないかと思うということ。
「初めての子と二番目以降の子と一人っ子と、そして独自の環境と」
http://blog.goo.ne.jp/satomies/e/2799c8d1bf1f62a24fafde52f5ae2759
そうした環境を経て、自分の持っている生育歴の中のひとつのカードとして、本人が有効に使ってくれるようになってくれたら、なんてことは思いますね。
交流のある天竺堂さんは、いわゆる「きょうだい児」ですが、彼は彼が「きょうだい児」であるからこその視点、というものを持っていると思いますし、その辺、直接障害に関係ない話題でも、ふむふむなどと興味深い交流ができる点なんではないか、とも思っています。
いろいろ興味深い話題を出していらっしゃる方ではありますが、まあ、よろしければこちらなんぞ、閲覧してみてくださいませ。
『「弱者」とはだれか』 /天竺堂通信
http://blog.livedoor.jp/tenjikudo/archives/26111984.html
生まれたときから、姉には障害児の姉という十字架を
せおわせてしまい、大変心を痛めております。
できる限り「ふつうに」育てるよ心がけていますが、
その申し訳なさからは一生涯開放されることはないでしょう。
携帯の利用はいいですね。うちでもそのうち活用すること
になるでしょう。参考になりました。
大道芸観覧レポートという写真ブログをつくっています。
ときどき寄ってみてください。
つい最近、ハンガーマンさんをとりあげました。
http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611