S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

日常と「障害」という言葉と

2005年06月30日 | ○○さんにトラックバック!
昨日、ブログ巡回をしておりまして、「おや」と思うことがあった。
ココ、なんですが。
はい、ここのコメント欄に出てくる「障害」という言葉のニュアンスのズレ、というか。
コメント欄に残してきたとおり、わたしにとっては、おおいなる考察ネタになりました。

この OUTER HEAVEN というブログの管理者の男の子は、彼が大学入った年の秋、まだ18の頃からの「ネット友」です。
2000年の秋、からですね。
継続的に交流のある「ネット友」なのは実に単純な理由。
年齢超えて好きなモノに関しての共通点が多々あったことや、文字で出す思考の傾向が「会話を成立させ」、おもしろかったから。
そんなこんなでこの数年間、彼は成り行き上という感じで、わたしとその周囲の「障害」という話題にからむネタに関して、日常的に閲覧という形でつきあわされてきた。
別に彼が「障害」ネタに関して関わってきたわけではなく、全然別種の話題に関して「交流」してただけで、彼にとっては「居間のテレビで障害ネタの番組が日常的に流れている」という感じだったんではないかと思う。
種々の障害をもつ子の母親同士の障害に関しての「ぶつくさ」や「乗り越える作業」等、まあ、いろんな話題があったな、と。
象徴的なワードとして「出産祝いの靴=悲しみグッズ」なんてのもあった。
ごく当たり前に贈られた靴なんだろうが、歩行が望めない障害や、足指の奇形なんていうことが出産には起こりえるわけで、「そんなことあるはずが無い」と信じ込まれた象徴のような「出産祝いに靴」ということが、エラく「痛い」ということを乗り越えなきゃいけない場合がある、と。
そんなことが「居間のテレビで日常的に交わされている場」に、彼は「いた」わけです。
お遊びのチャットに呼び出されて、そんな「かーちゃんたち」と、純粋に「しゃべって遊んだ」こともあった。

そんな経緯を前提として、再度ココのコメント欄。
この場において、「障害」という言葉が、相手に対して失礼なものと感じられたのだと認識し、彼が一生懸命伝えようとしているというのがわかるのだけれど。
あははと笑ってしまうほど、フォローとして機能しているかどうか、アヤシイ。

わたしはこのコメント欄において 「誤解を招くかもしれないけれど、コレって「メロンじゃなくてミカンかもしれない」に近い感覚で使ったんではないかと思うのだけれど 」とおいてきましたが、どうもコレもちょっと違う。
要は「エスパーではなく、人間ってことじゃないか」というようなことで「障害」という言葉を使ったのではないかと思う。
彼いわくの、全然フォローになっていない「なんかの処理機能の誤作動」というのは、彼にとっては「人間って時々そういうことってあるよね」という認識になっているんだなあと思ったのですよね。
共感覚という感覚に関心はあるけれど、特別視した失礼さを持っているわけではないということだったと思う。

彼自身、その生育歴の中でペルテス病の罹患歴があり、状態として「障害者」の時期はあったわけで。
告知の時点で「障害児です」という言い方を乱暴に使う医師に本人及び家族は傷つけられ、そして専門医の「障害者じゃない、治癒する」という言葉に助けられたという経歴もある。
つまり、「障害」という言葉の毒も、知っていたはずというか。

人間というものが、どんな集団、どんな社会の中で「生活」というものをやっていくか。
ここで、言葉に関しての認識すら変化する。
「差別」というものを怖れるな。
「偏見は無知から始まる恐怖」であり、その怖れは、日常的な「知」で変化していく。
ひとつの言葉を「差別用語」だのなんだのと「判定」していくよりも、その「差別用語」の対象となる人間がこつこつと普通に日常を暮らすこと。
そのことは大きな意味があるのではないかと、「全然フォローになっていないフォローをやってる姿」から感じたのでありました。

ははは、しかし、おかしかった、「全然フォローになっていないフォローをやってる姿」。
と、結局、いじくって遊んでいるわたしでした。。。
アンタの誠意というものが、ちゃんと相手に伝わるといいねえと思いつつ、願いつつ、
以上、OUTER HEAVEN 「共感覚」 にトラックバック。

*参考情報
 情報考学 Passion For The Future「共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人」

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2 コメント

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Unknown (あをまる)
2005-07-02 03:04:27
障害という言葉の毒、あまり今まで深く考えずに来ましたけれど、あるんでしょうね、というか、ありますね。

先日こちらのコメント欄にてぐでぐで状態で愚痴らせて頂いてしまった理由の一つが迷惑かけた友人からの怒りと注意がてらに出て来た「障害」という言葉に私が必要以上に過剰反応してしまった事で、、。

「貴女は日常生活は普通に送れるのだろうけれど沢山人の集まる場所では色々と障害の出る人みたいね」

と、これだけで大パニックに陥り(「そういう人は芸術的センスが優れてる事が多い」等のフォロー(?)をされればされる程心がごろんごろんと急な階段を転げ落ちて行くようで戻って来られなくなり相手に謝罪したり詳細を聞いたりする余裕が全く無くなり;)

「治さなくては!」(パーソナリティ障害か発達障害か精神障害かっ!?)とメンタルクリニックのはしごを始めている私は、、多分僅かな毒に振り回されすぎなのでしょう、、;;

自分が「障害を持っているかもしれない」事をこれほど怖れるなんて意外でした;

自分が(色んな意味で)ちっと怖いかもです;

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Unknown (S嬢)
2005-07-02 07:25:13
具体的なことがわからないので、というか、わたしはあなたの行動を裁いたり判定したりする権利も、そしてその気もさらさら無いのだけれど。

でも、このご友人、「障害」という言葉を毒を持って使ってるよね。

毒を感じるのはまあ、当然かな、と思う。



・わたしの娘は障害をもつ。

・わたしの娘は知的にハンディキャップがある。



この表現と、次の表現を比較してごらん。



・わたしの娘は集団生活で障害が出る。



後者の文章、こういう使い方をする人が存在するということで、わたしは「障害」という文字を忌み嫌う人たち、「しょうがい」と記したり「障碍」と記したりする人の気持ちが理解できたような気がしました。

今まで正直、ぴんと来なかったのよね。

要するに、障害をもつ人本人が生活に困難を抱えるという意味での「障害」ではなく、障害をもつ人本人が社会にとって「障害」ともいえる部分を表出するという意味ね。



ご友人が毒を持ってこの「障害」という言葉を使ったのは、多分、怒りがポイントでしょう。

こうやって、一見毒に見えない毒をちくっと入れて、小さな仕返しをする人というのは、ごく普通に存在すると思うしね。

悪意に見えない悪意というか。

あをまるさんが、どう、集団でトラブルの原因になってしまう個性をもつのか、わたしには全然わからないという状態で言うことだけれど。

あなた、素直だわ。

毒をそのまま、飲んだ。



メンタルクリニックのはしご、どんな医師にどんな言い方をされてるんでしょうか、ちょっと気になる。

医師もいろいろなのでね。

あのね、具体的にADHDを例に出して言いますが。

これはあなたがどうということではなく、例に出して説明しやすいからというそれだけのことです、気にしないように。

ADHDは、集団の中で迷惑になる行動をしてしまうケースがある。

本人を落ち着かせるための薬もある。

この薬は、状態に応じて慎重に使うべきで、その上で賛否両論があるのだけれど。

でもね、集団の平和のために飲む薬ではないのよ。

集団で困難を抱えることで、本人の自己評価がどんどん下がって苦しい思いをしていくことから「助け出す」薬なんだよね。

診断というものは、十字架を背負うためのものではない、本人を助け、自己の力を育てる出発点というものだとわたしは思う。



「行動の修正」と「個性の否定」は違う。

「個」の精神が助けられなければ、「行動の修正」に向かうことが困難になるということも忘れないで。
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