S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

個人がブログを持つということ

2005年07月04日 | ○○さんにトラックバック!
個人がブログを持つということは、インターネット上において、現在進行形の自分の「基地」を持つことのような気がします。
自分の現在、現在の思考、そうした場を基準とする地点というか。
他者のブログに反応したときに、では自分はどう考えるかということを進めていくのに、思考としても、その意見表明としても、「基地」を持っている利点は効果的に作用すると思うのです。
誰に聞いてもらうわけではない意見と思う部分はあっても、その思考の履歴が残っていくことは、自分の明日にも確実に役に立つだろうと。
さらに、自分の姿勢次第では「生きるということを能動的にとらえる」というツールにも使えるのだなと、以下の文章を読んで思いました。

◆自分と語り、自分に正直であり、人前で自分の考えを表現しよう。
◆ユーモアを忘れないようにしよう。
◆意思を育て行動を起こすためのツールとして知識を蓄えよう。
◆社会の一員として、社会の仕組みを理解しよう。

ってな目標を年度当初に掲げ、そのための頭の交通整理をしたりするためのステップとしてブログを始めてみて、早くも半年以上が経つ。

五感をフルに使って生きていないとブログにも何も書けないってことがよくわかった。

宝探しの旅「ブログのお掃除」
ブログには、そのひとつひとつの記事にコメント欄とトラックバック機能という、コミュニケーションのためのツールが用意されています。
この部分をどう利用・活用していくか、ということもある。
このとらえ方や利用・活用の仕方というものは個人差が大きいとは思うのですが、わたしは 304 Not Modified「ブログに必要なのはコンテンツか?それともコミュニケーションか?」 に、その答のひとつを見出すような気がします。
ここで言われているのは、ブログというものは「自分」というコンテンツありきのものであるということ。
そして、コンテンツはコンテンツであり、
コンテンツ同士でコミュニケーションもとることができ、
コミュニケーションさえコンテンツになるのです。

304 Not Modified「ブログに必要なのはコンテンツか?それともコミュニケーションか?」
ツールというものは、生かす使い方をするときに、その真価を発揮します。
生かす使い方の最終目的は、アクセス数の多い少ないではない、とわたしは思います。
アクセス数というものは、モチベーションのひとつになることはあっても、目的ではない。
目的というものは、人それぞれに違いはあるのだろうと思いますが、わたしは 304 Not Modified「私が自分のサイトを持つ理由。」 にヒントが見い出せるのではないかと思います。

以上、更新が途絶えていたブログに再び向かい合っているとおっしゃるsariさんにエールを込めて、宝探しの旅「ブログのお掃除」 にトラックバックです。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お久しぶりです (しゅう)
2005-07-04 19:25:11
 S嬢様

 以前、次女の就学についてお便りした者です。あれから、いくつかの学校見学に行ってみました。区立の障害者学級(通える範囲の2校)と私立の養護学校の3校です。

 あとは私立小学校の情報(障害者枠はなくても、少人数で児童に先生の目が行き届きそうなところ)もメールや電話で当たり、情報を集めてみました。で、どうなったかと言うと、残念ながら、結論は出ていません。

 いくつか本も読みあさり、就学までの流れも把握できましたが、障害児を何が何でも普通級に入れるぞ、みたいな本もあって、少し気後れしている感は否めません。

 ただ、何校か見てみて感じたことは、同じ公立でも、雰囲気、カリキュラムなどが明らかに違うということ。ある学校では、教室の位置一つを見ても「隔離」という感じでした。妻と見に行って、さすがにここは…と考えてしまいました。

 ただ、もう一校はとても明るい雰囲気で、作業より「お勉強色」が強い感じ。今のところ、軽度の次女にとっては「こっちかな」という感触を得ました。先生もそろっている感じでしたが、そこは公立、来春の異動については何とも言えず、やはり入ってみないと分からないという感じでしょうか。

 役所の担当によると「学校の雰囲気が1年でドラスチックに変わることはない」とのことですが…。

 7月下旬には次女を交えた教育委員会との個人面談もあるので、それまでには方向性をと思っていましたが、なかなか決められないものですね。

 私学へのコンタクトを含め、まだまだ来春に向けた活動は続きそうです。それではまた。誤字脱字はご容赦ください。
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しゅうさま (S嬢)
2005-07-04 20:55:13
>  いくつか本も読みあさり、就学までの流れも把握できましたが、障害児を何が何でも普通級に入れるぞ、みたいな本もあって、少し気後れしている感は否めません。



これは日本の障害者運動の流れが影響しています。

日本の障害者運動は大きく二つの流れがあって、一方は養護学校という存在自体を否定する傾向があります。

この流れをくむ書籍を出版している社の書籍は、おっしゃる傾向が高くなります。

知的障害児に対しての「教育」に関しては、都立大学の茂木俊彦教授が有名で、この方と、この方を否定する流れの中で、論争もあります。

茂木教授は、森永ヒ素ミルクの被害者の教育的支援を行っていらした方で、教育的支援の臨界期というものをおっしゃっています。教育の機会が与えられる年齢で教育的支援を受けることができず、成人したヒ素ミルクの被害者への教育的支援において、簡単に思われることが習得させられなかった無念というか。

また、茂木教授は知的障害児に「教科教育の必要性」を説かれた方でもあります。「何がなんでも統合」は、「子どもの状態に合わせた教育的支援を受ける権利を奪うものと認識する必要があり、統合を選んだ場合は別途、その保障が必要である」というわたしの考えは、茂木教授に大きく影響を受けたものでもあります。



書籍に関しては、わたしは「障害児の就学・進学ガイドブック」という本をおすすめします。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4250950360/qid%3D1120473247/250-6762063-0113042#product-details

統合を選ぶ場合でも「何がなんでも普通学級」という感覚とは別の意味で、そのことを主眼に入れるケースに関しても説かれています。

ただし、分離に関してのページの量が多いこと、’95年出版ということで変化自体は影響しているかもしれませんが、これから就学を経験する中で、けして損はしない本だと思います。



>  ただ、何校か見てみて感じたことは、同じ公立でも、雰囲気、カリキュラムなどが明らかに違うということ。ある学校では、教室の位置一つを見ても「隔離」という感じでした。妻と見に行って、さすがにここは…と考えてしまいました。



同じ自治体内でも、全然違います。「ここは・・・」と思われたときのポイントは、管理職との面接がチェックポイントになります。問題のある学級は、障害児学級担任に全てを委任し、問題が隔離化されていることもあります。管理職が「他人事」のようにとらえていて、細かな質問に関して管理職がおざなりにしか答えられない場合は要チェックです。



>  ただ、もう一校はとても明るい雰囲気で、作業より「お勉強色」が強い感じ。



と、いうことは、もう一つが「作業色」が強いということですね。

「作業色」が強いという方の「体力作り」に関しても、要チェックです。

「作業」と「体力」を重視している、重視し過ぎているところはいささか気になるところがあります。

「作業」なのか、「生活学習という総合的な学習」なのか、この辺が分かれ目だと思います。



>  役所の担当によると「学校の雰囲気が1年でドラスチックに変わることはない」とのことですが…。



きちんとした教育を行っているところは異動の際にも、方針と傾向がきちんと残ります。また担当する教員が全員総入れ替えということは少ないので、これは役所の担当の方の弁がこれを指していると思われます。

ただ、主任が影響力の強い方の場合は、主任1人の異動で大きく変化する場合もあります。



私立の養護学校を見学されたということで、わたしは二つの区を想定しているのですが、その二つの区、地域的事情がずいぶん違う。

Mであれば、周辺の住民の方の教育熱が高く、統合を選択する場合はその理解が得られにくいかもしれません。

Nであれば、統合を選んでいる方も多いので、統合の経験がある学校も少なくないとも思われます。



>  7月下旬には次女を交えた教育委員会との個人面談もあるので、それまでには方向性をと思っていましたが、なかなか決められないものですね。



もしも迷われて、教育委員会に決断をせかされるようなことがありましたら、「就学猶予」という言葉を出してみるのもテクのひとつです。

「就学猶予」は、日本の教育の歴史の中で、教育委員会が「汚点」としてとらえているものです。子どもを就学させたいと思う親に強引に「就学を猶予させます」という印鑑をつかせた歴史というものだからです。

その「汚点」という歴史が再び起きることに関して、怖れる教育委員会は多いです。「猶予されるならば希望通りにしますから」という展開になる場合もあることを、そっとお知らせしておきます。
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自分以上の自分は出せない (sari)
2005-07-05 01:36:43
Sariです。エールをいただき驚きと恐縮と喜びとで心臓がバクバクしています。

現在進行形の自分の「基地」という感覚、ストンと胸におちました。その時その時の自分の分身であるひとつひとつのコンテンツによって思考の過程を確認し、さらけ出し続け、時に打ちひしがれることで自分を知り、立ち止まったり進んだりしながら基地の機能を補強していく。そしていつか他者とのコミュニケーションが可能となるのですね。

人のいない基地にどんな立派なツールがあっても使えない。その一方でツールの使い方は自分次第で無限の可能性がある!

Sさんの記事上で自分の立てた目標を客観的に見るという機会を得て、自分はまずコミュニケーションの前提となるコンテンツ=自分の強化をしたがっているのだと気づきました。

これはブログに限らずいえることですが、今の私にはブログを使うことが適しているように思います。

10数年前に、まだインターネットがそんなに普及していないころ、人というものはコンピュータのOSみたいなもんだね、という話をしていたことを思い出しました。いろんなソフトを動かすことができるおおもとのプラットフォームで、OSが進化すれば使えるソフトの幅も広がる、ってなことを。

技術の進歩に負けてないで、私自身も進化しなくては!と自己から他者とのつながりに向け、千里の道も一歩から、の気持ちで進んでみようと思います。

ほんとうにありがとうございました。

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Unknown (S嬢)
2005-07-05 07:55:51
>エールをいただき驚きと恐縮と喜びとで心臓がバクバクしています。



これ、瞬間、「驚きと恐縮と」という部分を「驚きと恐怖と」と誤読しました。

やっべ~~~、と、震撼しました。

・・・なんだ、「恐縮」か。

いや「恐縮」でも「恐」だし、なんかヤバくないか?と葛藤。



メール、ありがとうございました。

メールでもお伝えした通り、完読です。

自分と向かい合うような素直な姿勢の記事上げに好感です。

映画カテゴリを読んでいて、わたしもかねてから作りたいと思っていた映画カテゴリを作る欲を刺激されました。

「中国の小さなお針子」ってご覧になりました?

いや、もし見られていたのなら、sariさんの素直な文体の感想が読んでみたいな、と。

わたしは見たかったのだけれど、上映中に子どもが発熱して見られずじまいで終わりました。

ビデオになっているのかな。



「継続は力なり」

マイペースで更新お続けくださいね。
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