先日、出先で時間があったので、本屋へ。
なんだかとても久しぶりに障害関連の書籍を二冊購入。
その二冊のうちの一冊。
発達に遅れのある子の親になる―子どもの「生きる力」を育むために
日本評論社
いや~~、いいサブタイトルですよ。わたしは好きですね。
以下、「はじめに」から引用。
そうだ、そうだ、と怒濤の拍手だったのですが。
いや~~、この本、文章が硬いというかこ難しいというか。
実際、いい本なんですよ、いろんな方向性からいろんな人に取材して書かれていますし。
取材の相手の選択もよくこれだけ網羅したと敬意を持つ。
発達に遅れのある子どもを授かった1人の親が、自分が知りたいことを調べて書いて、本にしたいと思い立ったということが出発点だと。
その出版理由を読むと、たいしたものだと思うし、実際、よくやったと思う。
でも、この本、普通の「発達に遅れのある子の親」になり始めの人には、多分、ついていけない。
「こういう『壁』がある、それをこう乗り越える、乗り越えなければならない」
読み進めながら、そういう印象が強く与えられて、途中で本を閉じてしまうような気がする。
内容はすごくいいんですよ。
でも、この本が、堂々と完読できるような人って、すでにその人としての「発達の遅れのある子の親」という姿勢が完成されているような気もするんですよね。
「親」を対象というより、「発達に遅れのある子」に接する方で、親以外の専門家に姿勢を正していただくという意味では、ものすごく使える本ではないかと思った。
要するに、ある程度の「研究姿勢」が無いと、ついていけないような印象を持つ。
インタビューの事例に「失敗例」が多いこと、これも気になる。
そこから学ぶ視点を持つこと、これはわかる。
ただ、「発達に遅れのある子」の「親」を模索しようとしている人には、多分、失敗例の印象ばかりが残るような気もするんですよね。
教育に関しての「統合」と「分離」に関しても、「統合の失敗例」が続く。
「統合」を望む親に、しっかりと現実を考え、相応の覚悟と姿勢をということなんでしょうが。
その上で、「分離の成功例」がはっきり出てくるわけでもない。
また、インタビューで出てくる意見の文体が「断言」的な表現があるのも、とても気になる。
いや、わたしが何を言いたいかというと。
この本はよくできている本だと思う。
書籍自体にケチをつけるつもりではない。
でもね。
「発達に遅れのある子」の「親」になったばかりでこの本を読み始めた方に言いたい。
嘆くなかれ。
悲観するなかれ。
今は、あなたの印象で作った「壁」に周囲を張り巡らされるような気持ちになるかもしれない。
完読できずにほうり出してしまうことは、けして「負け」でない。
この本を完読するには、自分としての視点を持てる経験とゆとりがいるということ。
ただそれだけのこと。
このタイトルを持つ本を手に取り、読もうと思った自分の意志を評価してやることを忘れないで欲しいこと。
「発達に遅れののある子の親」としての「生きる力」も育まれるべきもので、とても必要なものであること。
「生きる力」というものは、まずありのままで受容されることが出発点であること。
そのことを、子どもに対してだけではなく、自分にも認めてやって、「発達に遅れののある子の親」としての「生きる力」を自分自身にも育んでやって欲しいこと。
そんなことを思った本でありました。
なんだかとても久しぶりに障害関連の書籍を二冊購入。
その二冊のうちの一冊。
発達に遅れのある子の親になる―子どもの「生きる力」を育むために
日本評論社
いや~~、いいサブタイトルですよ。わたしは好きですね。
以下、「はじめに」から引用。
順番からいえば先に死んでゆく親たちが、「発達の遅れのある子ども」に残すことができる最高のプレゼント-それは「生きる力」です。子どもたちの「生きる力」を育む手がかりが少しでも見いだせるように、この本を書きすすめていきたいと思います。
そうだ、そうだ、と怒濤の拍手だったのですが。
いや~~、この本、文章が硬いというかこ難しいというか。
実際、いい本なんですよ、いろんな方向性からいろんな人に取材して書かれていますし。
取材の相手の選択もよくこれだけ網羅したと敬意を持つ。
発達に遅れのある子どもを授かった1人の親が、自分が知りたいことを調べて書いて、本にしたいと思い立ったということが出発点だと。
その出版理由を読むと、たいしたものだと思うし、実際、よくやったと思う。
でも、この本、普通の「発達に遅れのある子の親」になり始めの人には、多分、ついていけない。
「こういう『壁』がある、それをこう乗り越える、乗り越えなければならない」
読み進めながら、そういう印象が強く与えられて、途中で本を閉じてしまうような気がする。
内容はすごくいいんですよ。
でも、この本が、堂々と完読できるような人って、すでにその人としての「発達の遅れのある子の親」という姿勢が完成されているような気もするんですよね。
「親」を対象というより、「発達に遅れのある子」に接する方で、親以外の専門家に姿勢を正していただくという意味では、ものすごく使える本ではないかと思った。
要するに、ある程度の「研究姿勢」が無いと、ついていけないような印象を持つ。
インタビューの事例に「失敗例」が多いこと、これも気になる。
そこから学ぶ視点を持つこと、これはわかる。
ただ、「発達に遅れのある子」の「親」を模索しようとしている人には、多分、失敗例の印象ばかりが残るような気もするんですよね。
教育に関しての「統合」と「分離」に関しても、「統合の失敗例」が続く。
「統合」を望む親に、しっかりと現実を考え、相応の覚悟と姿勢をということなんでしょうが。
その上で、「分離の成功例」がはっきり出てくるわけでもない。
また、インタビューで出てくる意見の文体が「断言」的な表現があるのも、とても気になる。
いや、わたしが何を言いたいかというと。
この本はよくできている本だと思う。
書籍自体にケチをつけるつもりではない。
でもね。
「発達に遅れのある子」の「親」になったばかりでこの本を読み始めた方に言いたい。
嘆くなかれ。
悲観するなかれ。
今は、あなたの印象で作った「壁」に周囲を張り巡らされるような気持ちになるかもしれない。
完読できずにほうり出してしまうことは、けして「負け」でない。
この本を完読するには、自分としての視点を持てる経験とゆとりがいるということ。
ただそれだけのこと。
このタイトルを持つ本を手に取り、読もうと思った自分の意志を評価してやることを忘れないで欲しいこと。
「発達に遅れののある子の親」としての「生きる力」も育まれるべきもので、とても必要なものであること。
「生きる力」というものは、まずありのままで受容されることが出発点であること。
そのことを、子どもに対してだけではなく、自分にも認めてやって、「発達に遅れののある子の親」としての「生きる力」を自分自身にも育んでやって欲しいこと。
そんなことを思った本でありました。
ウチの娘の世代の障害児の親には有名なんだけど、tuffgongさんとこの世代だと知らないかもしれない。
オレたちひょうきん族に出ていたタレントが、重心の子の親になって、ドキュメンタリーやら本出版やら、あちこちで講演やらやってたというか。
この「ゆっぴぃ」亡くなったのだけれど、亡くなった後に離婚というのがあって。
この話が「父親の役割」というとこで出てきますね。
もしお読みになるんだったら、この辺の感想が聞きたい。
書いてあることはもっともだし、こう書いて欲しい「母親」はたくさんいると思う。
しかし、わたしとしては、「育児に関わる父親の作り方」「父親を育児に関わらせるノセ方」なんつ~のをのせた上で書いて欲しかったというか。
なんというか、「こうでなければならない」、そして失敗例と。
そういう救いの無さのようなものが随所に感じるというか。
こうでなければならない、これではダメだ、その上で、「立つのは自分で立て」という感じ、かな。
だから、ここに対して精神的な強さが無いときつい本になるかもな、と思うんですわ。
そしてそういう感想を持つ人は「自分が悪いから」と思うでしょうから、表には出てこないでしょうね。
その「表には出ない声」を持つだろう人の存在が、わたしはものすごく気になったんですよね。
「下を向くしかない」本ではないから、余計にもったいないと思う。
私の妻はダウン症の告知でかなり精神的に参ってしまい、一時は育児拒否、アルコールへとかなり荒れました。
本当は私だってショックで落ち込みたいのに、妻に先に荒れられちゃって、じゃあ誰が家のことやるんだっていったら私しかいないし、上の子をかまいながら坊ちゃんの面倒みて仕事にも行って、落ち込んでる暇なんか全くなかったです。そしたら今度は「あんたは他人事みたいにしている」と言われるし、ウンザリしていました。
まあそのうち坊ちゃんの入院生活とか始まって妻も落ち着いては来たのですが、産み落とした母親とそれを見ているだけの父親とではショックの受け方とか表現が違うのかなと思いました。人それぞれなのかも知れませんが。
しばらく経ってから図書館で『「障害児なんだうちの子」って言えたおやじたち』という本を借りて読んで、なんと言うか「禿胴」でした。ご存じかも知れませんが「町田おやじの会」です。
こういう場合父親のほうが「縁の下の力持ち」になっている状況が多いようです。うちもそんな感じです。
前後するのですが、石井めぐみさんが離婚されたときに「子どもの介護ですれ違いがあった」というようなコメントを出していたようでした。うろ覚えですが、そのコメントに違和感を感じた覚えがあります。その違和感の正体がご紹介いただいた本で分かりますかね。
この前の夫婦喧嘩の時に「あなたといると不快なの」と言われました。ずっと気を使ってきたのは何だったのだろうと思うとやりきれない気持ちでいっぱいです。喧嘩の時だから本心なんだと思います。夫婦というのは何なのでしょうか。
まず母親というのは、どんなに原因が自分に無いという場合でも、どこかしら「まともに生んでやれなかった」という気持ちが個人差の大小はあれ、存在することが多いです。
また、本人がそう思っていなくても、世間的な目は「生んだ女のマイナス点」というようにとらえる、とらえるんじゃないかという気持ちも持ちます。
子どもの祖父母に関しても、姑が自分の子どもに障害が無かったという事実を優越という場に持ちこみ、「嫁」に対して冷たい視線、態度、言動を放つ場合も多いですが、嫁側の祖父母がこうした差別発言を娘の配偶者に言うことは少ないです。
つまり「父親」が障害のある子どもを持った衝撃、「母親」が障害のある子どもを自分が産んだ衝撃と、この違いはあると思います。
その違いが、個人差の中で影響を与える場合も少なくないです。
医療に関わる、検診に行く、療育に関わる。
こうした場合も、母親は自分1人で世間という外に出ていくという経験を積み重ね、父親は「母親と」ということで、「結局アンタは1人で出てないでしょ」という気持ちを持つ人もいますし、またそうした「障害のある子どもを連れて社会に出ていく」という経験の差が、父親と母親との間に生まれる、意識されるということもあります。
そして、精神的な打撃というか。
母親が衝撃に陥ってしまった場合、おっしゃるように父親はどんどん進むことを意識するしかなくなるわけですが。
それを「ありがたい」と思うよりも、そういう態度にずっと自分が責められているという風に感じていってしまうというケースもあります。
二人で衝撃に落ちてしまっても仕方がないのだけれど、自分のように落ちない相手に対して「ムカつく」という表現が近いというケースもあります。
「そんなこと言ったって」とおっしゃるのはもちろんだと思うのですが、人の気持ちというものは、なかなか理屈通りにはいかないもので。
「父親」に攻撃的な感情を抱いてしまう「母親」というもの、この解決には、やはり「母親の子どもの障害に対しての受容」ということが大きなキーとなります。
わたしはこういうケースに対しては、「子どもが助けてくれる」という時間を待ちたいと思うのが常です。
子どもの個性がどんどん見えていくときに、その子どもの笑顔や生きる姿が「親の受容を助けてくれる」という機会が必ずやってくるはずだと。
そうした時間というものを、奥様の「障害をもつ子どもの母親になる」ことに必要な「時間の個人差」ということで、長い目で見てあげていただきたいと。
あなたを否定しているということよりも、あなたに対して否定的な感情や視点を持ってつらい思いをしているのは何よりも奥様なのだと、がんばって思っていただけないかとお願いしたい。
そのことが結果的にはお子さんのしあわせにつながっていくと、信じていていただきたいのです。
「結婚」ということで、あなたが彼女を選んだ。
そのことをもう一度、長い人生の中で、「選んだ」ことに対しての、自分自身のプライドというものを持っていただきたいと。
ゆっぴぃのところは残念ながら、「父親」は「単にいる人」だったようですね。
重心の子のケアと、その状態の日常的な観察の視点というものを、「父親」はそばにいながらにして持てないまま、命と別れることになっていったということ。
それは石井氏が彼を「父親」にせず、1人で頑張ってしまったということなのでしょうし、その1人で頑張ってしまったということに対して、そのままにしたという「結婚相手」に対しての失望というものが、命を送ったときにはっきり認識できてしまったのでしょう。
重心の子の母親は、その労働量や睡眠時間の少なさから、看護師と同様の存在になります。しかも「交替」の無い看護師です。
ですから、そこで「単にいる人」になってしまっては、軋轢は大きいだろうなと思います。
「町田おやじの会」の参照していただいた書籍に出てくる、ダウン症児の父親の小児科医は、会話というものをしたことがある知人です。
「町田おやじの会」の会合は「飲み会」です、tuffgongさんもいつか参加できる機会が持てるといいですね、いろいろな意味で影響大かもしれません。
町田以外の方でも「いらっしゃれる人は歓迎」とおっしゃってました。
うちを地区担当とする営業職の方で、障害をもつ子どもの父親という方がいらっしゃいます。
会話を交わす機会に、仕事を離れてお子さんの話を聞いたりするのですが。
「父親の立場のつらさ」というものをしみじみと感じたりしますね、こういう時に。
わたしはただ聞いているしかできないけれど、話す相手にさえ事欠くというのが「父親」の持つつらさの一つでもあるよなあと、お話を聞く度に思います。
tuffgongさん。
心に蓋をせず、見るべきものを見つめながら、無理にならない程度の力で、がんばりましょうね~~。
お知り合いになれて良かったです。
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ただ、ホスト名はわかってしまいますけどね。