ヘレン・ケラーの名言に、こんなものがあります。
障害は不便です。でも、不幸ではありません
不便は「支援」で超えられる可能性をたくさん持っているもので。
障害をもつということは、「支援とともに生きる」ということでもある。
そこで、
なんですけどね。
「不便は支援で超えられる」わけですが、その場面場面に応じた「支援」に関して、もちろん感謝の心は誰でも持っていると思う。
ただね。
一日のうちに、5種の支援が存在しているとする。
5種の支援で、「5人の支援者」と関わる場合があるとする。
支援の終了時に「ありがとうございました」と頭を下げるのは、それは当たり前のことなのだと思う。
でもね。
一日に5回、同じテンションで「ありがとうございました」と頭を下げて言い続けるのは、こりゃけっこうくたびれますよ。
ここで。
「支援者」と「被支援者」で、意識の差が出てくるときがある。
「支援者」は、自分の中でひとつの「支援終了」ですから、まあ、人間関係上、当たり前のテンションで「ありがとうございました」というものが、心のどこかで「あるべきもの」と思ってしまう場合がある。
まあ、当然といや、当然なんですが。
「被支援者」というのは、支援者に対して、その支援の質が高ければ高いほど、「支援が必要な状態を理解された」と、思いますわな。
だから、「ありがとうございました」と言い続けなければならない人生の気苦労というものも、理解されたと思いますわな。
そうすると、安心して、
そう、安心することで、通常の基本的な礼儀を欠いてしまう場合が、あります。
すると。
ひとつの危険が生まれてくるわけです。
支援者が被支援者に対して、こう思う場合がある。
「あの被支援者は、権利意識が高く、感謝の心が無い」
障害をもつ人たちの中で、「一日に5種の支援を受ける」生活をしている方もいらっしゃる。
「一日に5種」というほどの頻度でもなくとも、「一ヶ月に5度」という方も、いらっしゃる。
頻度が高くても低くても、「障害をもつ」ということが生涯続くということを考えれば、まあ原点としての心境は同じ状態にあるということも、ありますわな。
常に誰かに頭を下げ続けなければならない、と。
その生活の中にあるものは、暖かな支援に対しての「ありがとう」という「頭を下げる」ことだけじゃない。
消え入るような思いでの「すみません」や「ごめんなさい」、
これを言わなくてはならないシチュエーションというものも、その障害によっては存在するわけです。
障害をもつ人の支援に回る立場の方々で、支援する方に対して、ちょっとした精神的きしみを感じたことがある方には、一度、ちょこっと、その辺、想像力を働かせてみていただきたい。
そんなことを思うこと、あります。
まあ、理想的なのは、支援される側が、常に同じテンションで、人に頭を下げ続けることを、苦もなくできることなんですけどね。
これが「自然な感覚」でできれば理想的は理想的なんでしょうけど。
でも「自然な感覚」にさせてくれない環境というものも、その障害によっては、障害をもつ人の周囲に実際に存在しているわけです。
わたしは障害児の家族ということで、「支援される側」ですが。
「支援される側」として、支援の必要度は、まあ、軽い程度の方だ。
だから、「支援する側」にも回る。
「支援する側」に回った時は、相手が安心して「支援とともに生きる」という気持ちを持ってもらうために「相手の非礼にこだわらない」という意識を持つこと。
そのことも、自分が「支援として提供するもののひとつ」だと、思っています。
ただし、
相手の非礼から具体的な問題が発生する場合は、その問題点に関して説明することも、また支援の一つであるとも、思います。
支援される側としては、
集団で支援を受けるときは、集団のメンバーに対して、折りにふれ、
「お世話になる方の所属ではなく、個人のお名前を覚えること」
「基本的な挨拶を欠かしてはいけないこと」
などを、やわらかな姿勢で、提示していかなければならないと思っています。
*トラックバック
Camellia House 「傾向と対策 (利用者別) 」
障害は不便です。でも、不幸ではありません
不便は「支援」で超えられる可能性をたくさん持っているもので。
障害をもつということは、「支援とともに生きる」ということでもある。
そこで、
なんですけどね。
「不便は支援で超えられる」わけですが、その場面場面に応じた「支援」に関して、もちろん感謝の心は誰でも持っていると思う。
ただね。
一日のうちに、5種の支援が存在しているとする。
5種の支援で、「5人の支援者」と関わる場合があるとする。
支援の終了時に「ありがとうございました」と頭を下げるのは、それは当たり前のことなのだと思う。
でもね。
一日に5回、同じテンションで「ありがとうございました」と頭を下げて言い続けるのは、こりゃけっこうくたびれますよ。
ここで。
「支援者」と「被支援者」で、意識の差が出てくるときがある。
「支援者」は、自分の中でひとつの「支援終了」ですから、まあ、人間関係上、当たり前のテンションで「ありがとうございました」というものが、心のどこかで「あるべきもの」と思ってしまう場合がある。
まあ、当然といや、当然なんですが。
「被支援者」というのは、支援者に対して、その支援の質が高ければ高いほど、「支援が必要な状態を理解された」と、思いますわな。
だから、「ありがとうございました」と言い続けなければならない人生の気苦労というものも、理解されたと思いますわな。
そうすると、安心して、
そう、安心することで、通常の基本的な礼儀を欠いてしまう場合が、あります。
すると。
ひとつの危険が生まれてくるわけです。
支援者が被支援者に対して、こう思う場合がある。
「あの被支援者は、権利意識が高く、感謝の心が無い」
障害をもつ人たちの中で、「一日に5種の支援を受ける」生活をしている方もいらっしゃる。
「一日に5種」というほどの頻度でもなくとも、「一ヶ月に5度」という方も、いらっしゃる。
頻度が高くても低くても、「障害をもつ」ということが生涯続くということを考えれば、まあ原点としての心境は同じ状態にあるということも、ありますわな。
常に誰かに頭を下げ続けなければならない、と。
その生活の中にあるものは、暖かな支援に対しての「ありがとう」という「頭を下げる」ことだけじゃない。
消え入るような思いでの「すみません」や「ごめんなさい」、
これを言わなくてはならないシチュエーションというものも、その障害によっては存在するわけです。
障害をもつ人の支援に回る立場の方々で、支援する方に対して、ちょっとした精神的きしみを感じたことがある方には、一度、ちょこっと、その辺、想像力を働かせてみていただきたい。
そんなことを思うこと、あります。
まあ、理想的なのは、支援される側が、常に同じテンションで、人に頭を下げ続けることを、苦もなくできることなんですけどね。
これが「自然な感覚」でできれば理想的は理想的なんでしょうけど。
でも「自然な感覚」にさせてくれない環境というものも、その障害によっては、障害をもつ人の周囲に実際に存在しているわけです。
わたしは障害児の家族ということで、「支援される側」ですが。
「支援される側」として、支援の必要度は、まあ、軽い程度の方だ。
だから、「支援する側」にも回る。
「支援する側」に回った時は、相手が安心して「支援とともに生きる」という気持ちを持ってもらうために「相手の非礼にこだわらない」という意識を持つこと。
そのことも、自分が「支援として提供するもののひとつ」だと、思っています。
ただし、
相手の非礼から具体的な問題が発生する場合は、その問題点に関して説明することも、また支援の一つであるとも、思います。
支援される側としては、
集団で支援を受けるときは、集団のメンバーに対して、折りにふれ、
「お世話になる方の所属ではなく、個人のお名前を覚えること」
「基本的な挨拶を欠かしてはいけないこと」
などを、やわらかな姿勢で、提示していかなければならないと思っています。
*トラックバック
Camellia House 「傾向と対策 (利用者別) 」
あの記事は、もはや私だけの記事ではなくて
「私とS嬢さんの記事」なのだと思っています。
コメントやこちらの記事を読み返して、自分の経験を振り返り、
「ああ、そうか、
以前、被支援者のあの言動に腹が立ってしまったけれど
これは、こういうことだったのかもしれない」
と思い当たることが実際にいくつかありました。
そう思うと、今は不思議な気持ちで、相手を許容できるような気がします。
私に欠けていた視点に気付かせてくださって、感謝しています。
ところで、私は、支援者(ボランティア)は、
ボラ活動している「私」自身の喜びが、気がつくと「あなた(被支援者)」の幸せになっていた
というものだと思っています。
ですから、
被支援者が、常に同じテンションで人に頭を下げ続けることを「自然な感覚」でできれることが理想的というならば、
支援者がどうであろうと、自分が支援したいから、支援し続ける
という気持ちを常に持ち続けるのが、ボラの理想なのではないでしょうか。
とはいえ、人間同士ですから、なかなか理想どおりというわけにはいきませんね。その辺りが人間らしくて面白いといえば、そうなのかもしれません。
はい、よかったです、ありがとう。
えっとね、どんな精神的きしみを感じた場合でも、支援者というのは、支援という活動を「やめる」ことができるわけです。
でも、被支援者というのは、「やめることはできない」。
まあ、この辺も、キーになるところじゃないかなとも思いますね。
>ボラ活動している「私」自身の喜びが、気がつくと「あなた(被支援者)」の幸せになっていた
コレ、いいですね。
支援するときに、被支援者の支援される有益性の方のイメージが強くなると、「やってあげる」という意識を消すのが難しくなるかもしれないですね。
視点は、相手の有益性のイメージよりも、自分がその行動を選ぶイメージというもの、そっちの方に重きを置く方がいいんでしょうね、きっと。
わたし個人の場合に限定して言えば、「支援する自分の喜び」というのと、ちょっと違う。
なんかね、「やることが見えちゃう」って感じなんですよね。
道になんかモノが落ちてるとする。
視界に入っても、普通に通りすぎることが普通の人もいる。
それはそれでいいんですよ、人それぞれなんだから。
「拾って誰かに届けてあげようと思う」という、喜ぶ相手のイメージが動機になって動く人もいる。
また、それはそれでいいんですよ、人それぞれなんだから。
う~ん、わたしの場合はね、
「チキショー、見えちゃったじゃないかよ。
ま~た、やること増えるじゃないかよ。」
なんて、こうブツブツ言いながら、結局やるって感じですね。
相手の反応というフィードバックは、相手のものであって、コトは自分がどうするかってとこなんですよね。
見えちゃったものを見なかったことにするのは、多分、自分が後味悪い思いをするんだろうな、と。
先日送ったレポートの、「学齢障害児サポートリーダー養成講座」って研修もね、受けたくて受けたわけじゃないんですよ。
ある日、カタカタカタってFAXが動いた。
見れば、「現場実習を必要とされる研修」の参加者募集要綱。
なんだこりゃ、参加エラく大変そうじゃないか。
「参加資格:学齢障害児ボラ経験2年以上」
なんだよ、該当しちゃうじゃないかよ。
げーーーーーって感じで。
それ見ながら、ふーとかため息ついてたら、夫がなんだかすごくおかしそうな顔して、「どうするの?」と。
「行く、んじゃない? やっぱり。。。」と。
そして、「すみません、行きます。研修日程に土日も入ってます、協力、よろしくお願いします」と。
夫、「はっはっは、了解、了解」と。
行ったら最後、やたら前向きに参加してまして、収穫、バカでかかったですけどね。
>ま~た、やること増えるじゃないかよ。」
ぷぷ・・これ分かります。私もこのくちかもしれないです。
見てしまったからには、見過ごせないっての。
>でも、被支援者というのは、「やめることはできない」
そうだろうなあと思います。支援者側は支援することで自分も誰かの役にたてる
そういう自己満足という部分が少なからずあるのではないかと。
自己満足できるのだから、感謝の言葉など不要だと思っている方もいるかも?
実際にボランティアをしている方というのは、動機として「人の役にたちたいから」とおっしゃる。
それが生き甲斐なんだとも。
でも「やめることはできない」立場のSさんも、
ご自分の運命を受け入れて、今は生き甲斐になさっておられのじゃないかなと私は感じるのですが。
これも私が被支援者じゃないから言えることなのですが、
被支援者だからこその経験は、生き甲斐と共に今後もSさんを成長させ続けるのではないかと思います。
「だってやめることはできないんだからさあ~!」と言われると・・ごもっともで(汗)なんですけど。
反論、しても、いっかな~~~。
あくまでも、わたし個人の感覚の「感想」なんですが~~。
「これこれがあなたの生き甲斐で、あなたを成長させ続けるのではないかと思います」
って、自分以外の人に、決定されて言われたい、っかなぁ?
わたしは、やっだなぁ~~~。
「ご自分の運命を受け入れて」という、かなり大仰な言い方ではなくて、わたしにとって、娘の障害は「日常」なんですよね。
「運命」ではなくて。
なんとなくね、
「ニュース番組の合間の特集ドキュメンタリー的まとめ方のような扱いをされちゃイヤ」
みたいな感じ。
ゴメンね。
あと、支援する側に回る方の動機と感覚・感想は、かなり人それぞれで、一概にこうと言えるものでもないと思いますね。
「感謝の言葉の有無」というのは、単に感謝の言葉が出るかどうかってことではなくて、出現してくる「非礼」は、もっと低レベルのこともあるんですよ。
「感謝の言葉なんて要求してない」って人さえも、むっとさせるようなね。
だからこそ、椿姫さんのように社会福祉法人の職員の方が引きずるような違和感を持つのよ。
単に「ありがとうを言わない」なんてことをこだわる次元ではないの。
この辺は、リンクさせてある椿姫さんの記事とコメント欄、そしてこの記事との連携でわかることなんじゃないかな。
「ありがとうと言い続ける気苦労」ってのが、そのヒントになるよってお話。
本当に人それぞれで、それぞれの「動機」に個人のストーリーがあるなあと思うので。
そのストーリーには、プライベートな半生も、かなり関わってくるなあと思うので、わたしが言えることではないなあとも思いました。
「動機」とはちょっと違うけれど。
定時制の高校に通う高校生に、わたしが関わる二つの集団のご支援をいただいていたことがありまして。
このうちの1人の男の子が、卒業式のときにコメントとして、ボランティアの経験というものが自分にとって大きなものであったと話したそうです。
支援という時に、とても頼りがいのある男の子だったのだけれど、この話はかなりうれしかったですね。
私にも良い思い出の高校生支援者がいました。
彼女のお母様が保育士さんで、園に遊びに行ったら誰かの手を借りないとみんなと一緒に遊べない子どもがいたんだそうです。
自分の手を必要としている子どもなんだけど、遊び始めたらそんな事忘れてるかの様に夢中でみんなと一緒にいる。
それが単純に嬉しくて、気がついたら自分も高校、福祉科に進んでたって。
いろんなサークルに顔を出すうちに軽い気持ちで手を貸せない子どもがいる事を知って、社協からゆうくんちを紹介してもらったって言うんですね。
で、帰りに「危険な事や注意する事さえしっかり頭に入れておけば、どの子も関わる時の気持ちは同じなんですよね。」って不安は吹き飛んだようでした。
転居したので残念ながら中々再会のチャンスには恵まれませんが、彼女が仕事として選ぼうとしている福祉の世界で、どんな風に生きていくのか見守ってます。
【気がついたらやってた】ってのも、私は好きだなぁ(笑)
そして、同じような環境、同じような立場ってのがあっても、きっかけが一致しないんだよね。
その人間の個性と、きっかけってものが、どう作用していくかって、そういうことがいろいろからんでいって、そして「線」や「面」のようなものができていくというかさ。
あと、自分を痛めながらの「自分さがし」の末に、偶然のように出会ったっていう人もいる。
そういう人は、支援の中で、どんどん自分を生かすことってのを見つけていくという感想がある。
「子どもが手を離れたから、ボランティアでもやってみましょうか」
って感じのご婦人は、いるにはいるけど、悪いけど気まぐれで、続かないって場合も多いなあとも思うんだよね。
自分のイメージの範囲の「障害児」ならいいけど、そのイメージをはみ出る子に関しての許容度が低いという感想があるし。
それより、こういう「半生の中での個性と偶然のようなきっかけ」でって人の方が、自分にとっての「何か」をさがしていく人なんだろうなってのも思うのよね。
でもこれは、やっぱり「定義」ではなく、わたしの全くの個人的な感想なんだろうなあって思うんだけどね。
障害児のきょうだいで、福祉方面に進む人もいるんだけど。
なんかさ、それはね、そんななんか優等生的に人生やらなくてもいいよ、とか思っちゃう。
それこそ進路で選ぶんではなくて【気がついたらやってた】ってのが、ちょうどいいんじゃないかなってのも思うのよね。
とは言いつつ。
うちの息子、ナニゲに「障害児ボラの適性」を育てられてしまっていますわ、親に。
いや、環境がそうさせてしまっている。
本人、全然気がついてないけど、年々、ポイントを上手につかんできているのが、母にはわかってしまう。
けっこう、頼りになるんだよね、アイツ。
福祉方面に進むなんて言い出したら、わたしビビりそうな気がするわ。
自分、そういう風に結局仕向けた?みたいにね。
でも、いくら環境がそうさせてしまってても、
「むいてる」「適性を感じる」子と、そうじゃない子もいるので。
それに自分でも「むいてるなぁ」って思ってても
「ごめーん。やりたいこと他に見つかったんでそっち行ってみる。」
って事もあるでしょうしね。
その時に「このコは福祉方面に行く」と、周りが信じて疑わないような環境だと、ツライかもなって思いますが…。
本人の「これやってみたい」ってキモチを「やってみたら?」って見守ることが出来る環境(いろんな意味で)ならば「きょうだい児」の枠みたいなものにとらわれずに、本当に自分の生き方をじっくり考えてくれそうな気がしますね。
また、それを面白がって見守りそうですよ、S嬢さん(笑)。
これは勝手な「わたしの印象」ですけどねぇ。→あんま外さないと思う。
「何か」を探しながらでも、頼りになるボラさんは続けられるんだし、ゆっくりじっくり自分の人生楽しんでほしいです。
だって、選択肢はい〜っぱいあるんだもん。
興味のあること、頭でも手でも出しまくって(笑)生きて行かなきゃもったいないぞ〜!って、口ばっかり出してるゆうくんのおかあさんは思います(笑)。
なんか、こう、進路選んだっぽいじゃないですか。
進路が決まんなきゃ、進学する学校選びも難しいんだけど、でも、そうそう10代の中盤だか後半だかくらいでコレって進路に対しての意志は、決まるモンじゃないものねえ。
だから、中途の進路変更の可能性なんてアリアリよねえ、誰だって。
>また、それを面白がって見守りそうですよ、S嬢さん(笑)。
へい、多分、おもしろがってると思います(笑)。
あの方の人生はあの方のモノですから、迷いも挫折も自分の成長の糧なんだろうしね。
母はダンサーの素質があると思っていますので、レッスンとかなんとか行こうよ~などと言うのですが、「バカじゃないか」と一笑に付されております。
振り付けを覚えるカンの良さと、音楽聞きゃ踊り出すノリ、そしてステージパフォーマンスのうまさ。
今んとこ、ツラも甘いし、体形もきれいだ。
こういうのって、素質がモノをいうとこ、大きいんだけどなあと思うのだけれどね。
まあ、もったいない。
頭いいくせに勉強しない子のような感じよ、持ってる素質を無駄にするのって。
でも、まあ、アイツの人生はアイツの人生。
基本的なトコは「勝手にしてくれ」です。
それに比べて、進路が親の感覚で思いっきり影響してしまうちぃちゃんの方。
最近ね、ふと考え始めてるとこがありまして。
知的障害者の地域作業所だの授産所だのって、まあ、そういう進路になる可能性が大きいのだけど。
ちょっと感覚飛ばして、肢体不自由児・者の通所施設なんてのはどうかと思い始めていまして。
地域作業所での作業よりも、アイツは「向いてる」んではないかと。
利用者のニーズに合わせた行動を、参加する光景の中で習得していき、そういう行動を自ら取るんではないかと。
そういう意味じゃ、アイツには素質と才能がある。
職員としてなんて、ぜいたくなことは言わない、「利用者」扱いでかまわない。
ただ、本人にとって「自分ができる仕事を見つける」という満足感のある毎日になるんではないかとね。
生活上の雑務は稚拙なりに覚える能力はあるし、人の役に立とうとするときの記憶力、習得力は高いとも思う。
ちょっとお宅に送って、仕込んでおいてもらうかな。
でも、そんなこと言い出したら、学校の進路担当教員、驚くかな?
一番チビなくせに、活動の中で参加者の活動で、ちょっと上手にできたことがあると、誰よりも早くタイミングをつかんで相手をほめ、いっしょに喜んでいるそうです。
誰よりもチビなのに、
「ちぃちゃん、姐さんで親分ですから」
と言われております。
参加者ではなく、ボラ側のような顔をして活動に参加していたりします。
・・・そういうヤツ、アイツ。