S嬢のPC日記

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ウンコに見る「距離感」

2005年04月25日 | つぶやき
ウチの10歳息子は、精神的な揺れや体調の変化等が腸にくるタイプらしく、下痢だの便秘だの忙しい。
そんな自分の「腸」とのつき合いの中で、「立派なウンコ」は彼の喜びのようで。
「立派なウンコ」が出現すると、トイレから叫ぶ。
「おかあさん、おかあさん、来て! スゴイよ!」
彼が叫ぶ「立派なウンコ」の基準は、体の教育で勉強した「バナナの形」で太くて長いもの。
喜ぶ彼のテンションを下げないように、負けないテンションで母は喜んでやることにしている。

しかし、クサイ。
「立派なウンコ」は、軽度の便秘後に多いので、しっかりとクサイ。
その臭さを感じる度合いは年々増加しており、また「直視時間」も微妙に減少している。
これは子どもの成長により生じている、わたしが彼のウンコに感じる精神的な「距離」なのだと思う。

赤ん坊の時期は、赤ん坊の肛門を直視し、ウンコを間近に見る。
クサイのなんのというより、肛門から出る「健康のバロメーター」を凝視する。
乳児から幼児期にかけて、お風呂で体が温まるとぽこんぽこんと浴槽内でウンコをしてしまうことが何度かあった娘に関しては、何度もウンコを手づかみで拾った。
「子どものウンコが怖くて母親がやれるか」なのである。
また、母親が子どものウンコに抵抗が無いという「距離感」に基づくものとは、子どもが母に向ける無心の愛によるものなのではないかとも思う。
母の愛が無常の愛なのではなく、母の愛というものは子どもが母に向ける無心の愛に育てられるものという気がする。
子どもというものは最低でも生まれ落ちて数年くらいは、どんな母親に対しても、母親がどんな態度を取ろうとも、母親がどんな人格を持とうとも、無心に母親を求めてくる。
愛されれば女は強いという公式が、ここでも成立しているような気がする。

オムツが終わり、パンツをはくようになっても、失敗すればウンコは目の前の存在だ。
やがて、当たり前に「個人の時間」をトイレで持つようになると、子どもと母親との間で、ウンコは遠い存在になっていく。
こういう「プライベートの確立」の象徴のひとつがウンコかもしれない。

5年生になった息子が、母親にウンコを見せる。
喜んでやりながら、自分が感じている「距離」を隠し、そして「その年齢になっても母親にウンコを見せるオマエは幼いなあ」とも思う。
でも、彼のそんな「距離感」も、もう終息までは時間の問題だろう。
アンタが自分でその距離を終わらせるまでつき合ってやるよ、と思う。
「拒絶」ではなく「卒業」と、本人が認識できるように。
しかし、とっくに個室で1人で寝られるようになっているのに、母に自分の人間関係上の秘密を持つプライベート感覚は成立しているのに、このウンコに見る「距離感」はおもしろい。
成長というものは、そういう多様なものなのだろうと思いつつ。

さて。
年老いていけば、子どもや介護者という立場の人間を別にすれば、配偶者がウンコの世話をする場合がある。
夫婦により個体差はあるだろうが、たいがいにおいて、夫が妻に世話になる。
夫のウンコの始末を妻がする場合、「愛された歴史という実感を持つ妻」は苦にならないらしい。
妻に育児歴があれば、特に「もともと知っている作業の応用版」という部分もある。
ただし、妻をないがしろにしてきた夫は、そうした介護を妻から受けることが難しい。
立場としての「妻」でも感情を持った人間であり、精神的な距離が遠い存在の「ウンコ」は、駄目なわけで。
この精神的な距離から発生する抵抗感が、ウンコの度に、夫婦が傷つけ合う可能性を多様に持たせていくだろうと思う。
人間関係上の距離感が関係なく、仕事として事務的に処理をする介護者に任せていくことがお互いの「利」となるのが自然だと思う。

たかがウンコ、されどウンコ。
ウンコには、見ようによっちゃ、健康だけでなく人生が見える。