ウチの10歳息子は、精神的な揺れや体調の変化等が腸にくるタイプらしく、下痢だの便秘だの忙しい。
そんな自分の「腸」とのつき合いの中で、「立派なウンコ」は彼の喜びのようで。
「立派なウンコ」が出現すると、トイレから叫ぶ。
「おかあさん、おかあさん、来て! スゴイよ!」
彼が叫ぶ「立派なウンコ」の基準は、体の教育で勉強した「バナナの形」で太くて長いもの。
喜ぶ彼のテンションを下げないように、負けないテンションで母は喜んでやることにしている。
しかし、クサイ。
「立派なウンコ」は、軽度の便秘後に多いので、しっかりとクサイ。
その臭さを感じる度合いは年々増加しており、また「直視時間」も微妙に減少している。
これは子どもの成長により生じている、わたしが彼のウンコに感じる精神的な「距離」なのだと思う。
赤ん坊の時期は、赤ん坊の肛門を直視し、ウンコを間近に見る。
クサイのなんのというより、肛門から出る「健康のバロメーター」を凝視する。
乳児から幼児期にかけて、お風呂で体が温まるとぽこんぽこんと浴槽内でウンコをしてしまうことが何度かあった娘に関しては、何度もウンコを手づかみで拾った。
「子どものウンコが怖くて母親がやれるか」なのである。
また、母親が子どものウンコに抵抗が無いという「距離感」に基づくものとは、子どもが母に向ける無心の愛によるものなのではないかとも思う。
母の愛が無常の愛なのではなく、母の愛というものは子どもが母に向ける無心の愛に育てられるものという気がする。
子どもというものは最低でも生まれ落ちて数年くらいは、どんな母親に対しても、母親がどんな態度を取ろうとも、母親がどんな人格を持とうとも、無心に母親を求めてくる。
愛されれば女は強いという公式が、ここでも成立しているような気がする。
オムツが終わり、パンツをはくようになっても、失敗すればウンコは目の前の存在だ。
やがて、当たり前に「個人の時間」をトイレで持つようになると、子どもと母親との間で、ウンコは遠い存在になっていく。
こういう「プライベートの確立」の象徴のひとつがウンコかもしれない。
5年生になった息子が、母親にウンコを見せる。
喜んでやりながら、自分が感じている「距離」を隠し、そして「その年齢になっても母親にウンコを見せるオマエは幼いなあ」とも思う。
でも、彼のそんな「距離感」も、もう終息までは時間の問題だろう。
アンタが自分でその距離を終わらせるまでつき合ってやるよ、と思う。
「拒絶」ではなく「卒業」と、本人が認識できるように。
しかし、とっくに個室で1人で寝られるようになっているのに、母に自分の人間関係上の秘密を持つプライベート感覚は成立しているのに、このウンコに見る「距離感」はおもしろい。
成長というものは、そういう多様なものなのだろうと思いつつ。
さて。
年老いていけば、子どもや介護者という立場の人間を別にすれば、配偶者がウンコの世話をする場合がある。
夫婦により個体差はあるだろうが、たいがいにおいて、夫が妻に世話になる。
夫のウンコの始末を妻がする場合、「愛された歴史という実感を持つ妻」は苦にならないらしい。
妻に育児歴があれば、特に「もともと知っている作業の応用版」という部分もある。
ただし、妻をないがしろにしてきた夫は、そうした介護を妻から受けることが難しい。
立場としての「妻」でも感情を持った人間であり、精神的な距離が遠い存在の「ウンコ」は、駄目なわけで。
この精神的な距離から発生する抵抗感が、ウンコの度に、夫婦が傷つけ合う可能性を多様に持たせていくだろうと思う。
人間関係上の距離感が関係なく、仕事として事務的に処理をする介護者に任せていくことがお互いの「利」となるのが自然だと思う。
たかがウンコ、されどウンコ。
ウンコには、見ようによっちゃ、健康だけでなく人生が見える。
そんな自分の「腸」とのつき合いの中で、「立派なウンコ」は彼の喜びのようで。
「立派なウンコ」が出現すると、トイレから叫ぶ。
「おかあさん、おかあさん、来て! スゴイよ!」
彼が叫ぶ「立派なウンコ」の基準は、体の教育で勉強した「バナナの形」で太くて長いもの。
喜ぶ彼のテンションを下げないように、負けないテンションで母は喜んでやることにしている。
しかし、クサイ。
「立派なウンコ」は、軽度の便秘後に多いので、しっかりとクサイ。
その臭さを感じる度合いは年々増加しており、また「直視時間」も微妙に減少している。
これは子どもの成長により生じている、わたしが彼のウンコに感じる精神的な「距離」なのだと思う。
赤ん坊の時期は、赤ん坊の肛門を直視し、ウンコを間近に見る。
クサイのなんのというより、肛門から出る「健康のバロメーター」を凝視する。
乳児から幼児期にかけて、お風呂で体が温まるとぽこんぽこんと浴槽内でウンコをしてしまうことが何度かあった娘に関しては、何度もウンコを手づかみで拾った。
「子どものウンコが怖くて母親がやれるか」なのである。
また、母親が子どものウンコに抵抗が無いという「距離感」に基づくものとは、子どもが母に向ける無心の愛によるものなのではないかとも思う。
母の愛が無常の愛なのではなく、母の愛というものは子どもが母に向ける無心の愛に育てられるものという気がする。
子どもというものは最低でも生まれ落ちて数年くらいは、どんな母親に対しても、母親がどんな態度を取ろうとも、母親がどんな人格を持とうとも、無心に母親を求めてくる。
愛されれば女は強いという公式が、ここでも成立しているような気がする。
オムツが終わり、パンツをはくようになっても、失敗すればウンコは目の前の存在だ。
やがて、当たり前に「個人の時間」をトイレで持つようになると、子どもと母親との間で、ウンコは遠い存在になっていく。
こういう「プライベートの確立」の象徴のひとつがウンコかもしれない。
5年生になった息子が、母親にウンコを見せる。
喜んでやりながら、自分が感じている「距離」を隠し、そして「その年齢になっても母親にウンコを見せるオマエは幼いなあ」とも思う。
でも、彼のそんな「距離感」も、もう終息までは時間の問題だろう。
アンタが自分でその距離を終わらせるまでつき合ってやるよ、と思う。
「拒絶」ではなく「卒業」と、本人が認識できるように。
しかし、とっくに個室で1人で寝られるようになっているのに、母に自分の人間関係上の秘密を持つプライベート感覚は成立しているのに、このウンコに見る「距離感」はおもしろい。
成長というものは、そういう多様なものなのだろうと思いつつ。
さて。
年老いていけば、子どもや介護者という立場の人間を別にすれば、配偶者がウンコの世話をする場合がある。
夫婦により個体差はあるだろうが、たいがいにおいて、夫が妻に世話になる。
夫のウンコの始末を妻がする場合、「愛された歴史という実感を持つ妻」は苦にならないらしい。
妻に育児歴があれば、特に「もともと知っている作業の応用版」という部分もある。
ただし、妻をないがしろにしてきた夫は、そうした介護を妻から受けることが難しい。
立場としての「妻」でも感情を持った人間であり、精神的な距離が遠い存在の「ウンコ」は、駄目なわけで。
この精神的な距離から発生する抵抗感が、ウンコの度に、夫婦が傷つけ合う可能性を多様に持たせていくだろうと思う。
人間関係上の距離感が関係なく、仕事として事務的に処理をする介護者に任せていくことがお互いの「利」となるのが自然だと思う。
たかがウンコ、されどウンコ。
ウンコには、見ようによっちゃ、健康だけでなく人生が見える。
私が父親とお風呂に入らなくなったのは、いつ頃だったかなあ・・。
適度な距離を保つ 夫婦円満のためうちの場合これ不可欠なんですが、
寝たきりになってウンコの世話をするとなれば、プライベートもへちまもなく
無防備にすべてさらけ出せる心境にならなければ無理で、
ダンナに私のウンコの世話はさせたくない。というか「恥ずかしいから絶対ヤダ!」と。
この女の恥じらいがいつまで続くのか、女は死ぬまで女ってのは本当か?
でも、実際に寝たきりになったら他人にウンコ見られるより、ダンナの方がまだましかと思うかもしれませんが。
ダンナの下の世話はできるのかというと、できそうな気がするんですよねえ。不思議と。
♀には生まれつき母性ってものがあるからでしょうか。
ダンナに「私のウンコ見れる?」って聞いてもようかな。
外科手術を何度かやったんですけどね、術前の「陰部の剃毛」を看護師さんにやられるのをいやがってねえ。
叔父が頼んで、叔母がやってましたね。
「女の恥じらい」というか。
ここからゴメン、子ども生む話なんだけど。
子ども妊娠して出産までに、パンツ脱いで陰部を人の顔の前に投げ出しってのを何度も何度もやりますから。
下半身と上半身の意識の割り切りというか、そういうの経験するね。
だから子ども生んだ女は、疑似体験で経験済みってとこあるかもしれない。
>ダンナに「私のウンコ見れる?」って聞いてもようかな。
はっはっは。
お宅、今、どんな話、しても、ノロケに聞こえるよ。
乗り越えた夫婦ってのは、強いね。
「オレそういう趣味ないから、ごめん」って、何勘違いしてるかなあ~ダンナ。
そういえば、女には生理もあるし生臭いことには慣れてますね。
でも私は他人(医者含)に下半身見られるの慣れてないからなあ。
ここ10年ダンナ以外に見せたことないし。
考えてみたらダンナの介護の心配より、姑の介護が先でした。
>ここからゴメン、子ども生む話なんだけど。
お子さんの話、私好きなんですよ。 もっとしてください。
で、そん時に「ウンコをしたあとのお風呂に入れる」っていうのに、しばらくピンとこなかったのよ。
ほら、うち、ウンコ、水だから。
お風呂に混ざってウンコ温泉になっちゃうんだわ。
そうか、つまめるウンコだったのか。
これでやっと映像が目に浮かんだぜ。
なんか、ウンコも愛らしいなあ。
ぷかぷかと。
子どもを生んだ女性というのは、まあ、何度も何度も内診を経験しますから、その後の子宮ガン検診なんぞというものを受けるのにも、「必要」を感じて受ける、と。
しかし子どもを生んだ経験の無い女性は、子宮ガン検診の「内診」に精神的な抵抗が大きいので、発見が遅れがちになると。
そんな感じの内容で。
未婚の義妹に、時々、そんなことを言って、「子宮ガン検診、受ける気無い?」などと聞くのですが、たいがい笑って流されてしまってます。
あ・うんさんも、気をつけてね。
違う、「携帯」ではない。
あの当時、わたしもアンタもまだピッチだった。
2001年ですな、何月頃だっただろ。
夏前、だな。
電話だよ、電話。
ほら、アレだよ。
アンタが夜中に、洗濯物の干すヤツ、あれ壁に投げつけて泣いて騒いだって翌日の午前中だよ。
で、大騒ぎの「泣き」だったはずなんだけど、「風呂のウンコ」の話になって。
それでアンタの「夫婦ゲンカで襖投げ」っていう逸話が出てきて、爆笑ぶっこいてたんじゃなかったっけ。
「吸引職人の技術を持つ、踊る武闘家」が、
「吸引職人の技術を持つ、踊る武闘家、タトゥーあり」になって、
「吸引職人の技術を持つ、踊る武闘家、タトゥーありのアロマテラピスト」になっていく。
キミは「出世魚」かね?
>そうか、つまめるウンコだったのか。
ちゃう。
「つかめるウンコ」だ。
浮く。
時間との闘い。
ウンコ、つかむ。
トイレに流す。
ガキ、風呂から出す。
風呂の栓、抜く。
一応の「満足」がいく量の水が抜けたら、新しい湯を足す。
ガキ、入れて、体暖める。
熱めのシャワーで体を洗い、風呂から出す。
最初は呆然としたけど、慣れたわ。
なんでか、この「事故」、冬が多かった。
体が冷える季節ってのが、便秘に微妙に影響与えたのかね。
で、「体があったまってぷかぷか」になったのかな。
体温調節が上手になって、なくなったってことかな。
そういえば、冬場、ざばっと風呂から上がって、ばたばたトイレに全裸でかけていくこと、無くはないな、アイツ。
で、「ウンコ手づかみ」に話は戻るが。
なんか、慣れちゃってたんだよ、作業自体。
ウンコが湯に与える影響を最小限にするためには、「ウンコてづかみ」が最も適していると、そう「納得」するまでに至っていた。
しかしその慣れた作業を12月24日の夜にやったときに、何かこう、虚しさが爆発したってこと。
世間はイブかい。
そしてわたしは、ウンコ手づかみかい、って。
おっほっほっほ。
10年ちょい前のことだす。
「一昔前」になったのね。
「ちぃままに花買って来たって言ってくれた?」
と聞いていた。
自分のニョーボはすぐ忘れるが、ちぃままなら
覚えていてくれると踏んだらしい。
出世魚ね、今は『乳がでかい』ってのが、付いてます。
これ、娘が発熱だったのでずっと乳をくわえていて、再び大きくなりました。
で、やっぱ、時期的にあと何ヶ月かで
「乳のしぼんだアロマテラピスト」ってやつに
なる予定です。
つか、アロマテラピストになれんのか!?
カルテまとめなきゃ。
夜なべだ、夜なべ。
息子といい勝負の宵っ張りだ。
http://www.sky.sannet.ne.jp/mikeneko/psychology/cognitive02.htm
どうもわたしは、この「エピソード記憶」の能力が発達しているらしい。
その時のイメージというものが戻ってくるのだよ。
例えばこの時の電話だと、
精神的混乱の状態などを耳で聞きながら、ふむふむ思いながら、見るともなく、視界に入る光景がある。
これと共に、記憶がよみがえるんだよね。
パソ机の前で子機で話聞いてて。
肩肘ついて、顔はちょっと斜め。
視界の先にはプリンタ。
って、こんな感じで、その瞬間の全体像をもってして、あの日の午前中の「ウンコ話」まで、記憶が復帰するんだよね。
>「ちぃままに花買って来たって言ってくれた?」
のけぞってウケました。
わたしがゆきとつき合い始めてから、ダンナがゆきに「花を買った」のは3回目。
一度目は、ゆきが花の種類まで丁寧に指定して「買いに行かせた」アレンジメントでしたね。
で、二回目を、アンタは「初めて」と、言ったのさ!
>つか、アロマテラピストになれんのか!?
そう言いながら、いろんな経過、超えてきたではないですか。
夜なべしろ、夜なべ。
がんばれ~~。