S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「障害」と「支援」

2005年04月14日 | 「障害」に関わること
ヘレン・ケラーの名言に、こんなものがあります。
障害は不便です。でも、不幸ではありません

不便は「支援」で超えられる可能性をたくさん持っているもので。
障害をもつということは、「支援とともに生きる」ということでもある。

そこで、
なんですけどね。
「不便は支援で超えられる」わけですが、その場面場面に応じた「支援」に関して、もちろん感謝の心は誰でも持っていると思う。

ただね。
一日のうちに、5種の支援が存在しているとする。
5種の支援で、「5人の支援者」と関わる場合があるとする。
支援の終了時に「ありがとうございました」と頭を下げるのは、それは当たり前のことなのだと思う。

でもね。
一日に5回、同じテンションで「ありがとうございました」と頭を下げて言い続けるのは、こりゃけっこうくたびれますよ。

ここで。
「支援者」と「被支援者」で、意識の差が出てくるときがある。
「支援者」は、自分の中でひとつの「支援終了」ですから、まあ、人間関係上、当たり前のテンションで「ありがとうございました」というものが、心のどこかで「あるべきもの」と思ってしまう場合がある。
まあ、当然といや、当然なんですが。
「被支援者」というのは、支援者に対して、その支援の質が高ければ高いほど、「支援が必要な状態を理解された」と、思いますわな。
だから、「ありがとうございました」と言い続けなければならない人生の気苦労というものも、理解されたと思いますわな。
そうすると、安心して、
そう、安心することで、通常の基本的な礼儀を欠いてしまう場合が、あります。

すると。
ひとつの危険が生まれてくるわけです。
支援者が被支援者に対して、こう思う場合がある。
「あの被支援者は、権利意識が高く、感謝の心が無い」

障害をもつ人たちの中で、「一日に5種の支援を受ける」生活をしている方もいらっしゃる。
「一日に5種」というほどの頻度でもなくとも、「一ヶ月に5度」という方も、いらっしゃる。
頻度が高くても低くても、「障害をもつ」ということが生涯続くということを考えれば、まあ原点としての心境は同じ状態にあるということも、ありますわな。
常に誰かに頭を下げ続けなければならない、と。
その生活の中にあるものは、暖かな支援に対しての「ありがとう」という「頭を下げる」ことだけじゃない。
消え入るような思いでの「すみません」や「ごめんなさい」、
これを言わなくてはならないシチュエーションというものも、その障害によっては存在するわけです。

障害をもつ人の支援に回る立場の方々で、支援する方に対して、ちょっとした精神的きしみを感じたことがある方には、一度、ちょこっと、その辺、想像力を働かせてみていただきたい。
そんなことを思うこと、あります。

まあ、理想的なのは、支援される側が、常に同じテンションで、人に頭を下げ続けることを、苦もなくできることなんですけどね。
これが「自然な感覚」でできれば理想的は理想的なんでしょうけど。
でも「自然な感覚」にさせてくれない環境というものも、その障害によっては、障害をもつ人の周囲に実際に存在しているわけです。

わたしは障害児の家族ということで、「支援される側」ですが。
「支援される側」として、支援の必要度は、まあ、軽い程度の方だ。
だから、「支援する側」にも回る。
「支援する側」に回った時は、相手が安心して「支援とともに生きる」という気持ちを持ってもらうために「相手の非礼にこだわらない」という意識を持つこと。
そのことも、自分が「支援として提供するもののひとつ」だと、思っています。
ただし、
相手の非礼から具体的な問題が発生する場合は、その問題点に関して説明することも、また支援の一つであるとも、思います。

支援される側としては、
集団で支援を受けるときは、集団のメンバーに対して、折りにふれ、
「お世話になる方の所属ではなく、個人のお名前を覚えること」
「基本的な挨拶を欠かしてはいけないこと」
などを、やわらかな姿勢で、提示していかなければならないと思っています。

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