昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

憲法記念日に寄せて

2015-05-03 20:15:22 | 国際・政治

今年も憲法記念日がやって来た。
今年は憲法に関する目立った争点もなかったのか、比較的平穏な憲法記念日だった。
憲法に関する、争点・論点というと「護憲」か「憲法改正」か、ということになる。
オカブも少し前まで「憲法改正」を唱えていたが、今はどうでもよくなった。
今の憲法論議はあまりにもイデオロギッシュであるからである。
もちろん、人はバイアスのかかったイデオロギーから離れられない。
自分自身もバイアスがかかっていることを十分に自覚している。
しかし、その「バイアス」とか「イデオロギー」というものは、一見確固としたものに見えながら、個々人が置かれた環境や、取り入れた情報や社会情勢によって左右される極めて脆弱なものであると言えよう。
だから、戦中から戦後にかけて、「左」から「右」へ、「右」から「左」へと猫の目のように転向者が出たのであろう。
ウェーバーが「ベルト・フライハイト」を主張したのは、「価値観」という呪縛からの自由というよりは、こんないい加減なものに左右されるなという訴えかけのように思えてならない。
「日本国憲法」の中の最大の争点である九条も極めてイデオロギー論争的な場で議論されている。一方で「自民党憲法草案」も内容の稚拙さは措いておいて、一方的価値観を露骨に前面に出した実に政治的なものであった。
集団的自衛権も、安全保障という観点から必要な政策ではあったが、イデオロギー論争において「悪」とされ、安全保障の確保のための技術的問題が価値観の争いに置き換えられてしまった。しかし、あの解釈改憲を閣議決定したのはまずかった。現行憲法の縛りという点からは、現状の武力の保持、すなわち自衛隊も、もちろん集団的自衛権も違憲であるのは明白である。堂々と改憲を訴え、国民の議論を待つべきであった。
しかし、われわれ一般庶民が憲法への思考を停止してしまってはいけない。
立憲は国民の最大の政治的権利である「参加」の根幹をなすものである。
要はこの日本国は国民が造り上げたという証左を成すものである。
しかし、現行憲法の縛りの中では、現行憲法を改正することも、新憲法を制定することも事実上「出来るわけがない!」のである。
日本人の政治意識の低さはこのあたりから来ていると言えなくもない。
しかし、「護憲」「改憲」双方の立場から憲法を議論することは、選挙以上に重要な国民の参政の基本的機能である。
そして、それは現行憲法の意義の議論を含めて、改憲の意義をも対象にしなければ無意味である。「日本国憲法」は他国の物と比較しても、「憲法」としては非常に完成度の高いすぐれた憲法であるとオカブも認める。惜しむらくはその制定時に国民的議論がなされず、政体の根本を国民自らが選び取るという歴史を逸してしまったことである。
だから、イデオロギーでギトギトになった九条を議論することはさておいて、手続法である九十六条を「議論すること」の正否を「議論すること」から始めてはどうだろう?
「護憲」の立場も理解したうえで、憲法が「不磨の大典」であってはならない、というのがオカブの立場である。

世の中の喧し憲法記念の日   素閑 

 



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