こう毎日、俳句を詠んでいると、俳句とは何か?と真剣に考えてしまう。
しかし結論は、何のことはない、曰く俳句とは大したものではないということである。
いい歳をした大人が茶柱が立った立たないで喜んでいるに等しい。
五・七・五の中に遠大な思想や微細な美意識を収めることは不可能である。
であるから日常の細々したものの中の面白みをただ詠んでいるだけである。
俳句の面白みは二つ。
日常の中にこんなことがあったか、という新たな発見。
もう一つは、そういえばそんなこともあるなあ、という共感。
およそ伝統俳句の世界はこんなものである。
前衛俳句に関しては分からないが、「日常」が「言葉」の組み合わせに替わって、そこで新たな発見と共感を見出すことで、伝統俳句と本質的に違わないのではないか?
まことに「卑近」な「芸術」である。
しかし、その日常の「卑近」さの中に「宇宙」があり人間を包摂するともいえる。
ある人が俳句はある意味命がけでやるものだと言ったのを聞いたが、その通りだと思う。
茶柱が立った立たないが一面の人生の本質であるとしたら、人間の知覚空間を俳句は鋭くえぐっているものともいえる。
なかなか俳句も馬鹿にはできない。
ひれ酒やここは亭主の弱り目か 素閑
ひれ酒や温めごごちの勘所 素閑
俳諧の宗師ひれ酒酌みにけり 素閑
ひれ酒や波平らかな浦の岸 素閑
ひれ酒や夕のこまかき雪の空 素閑
丸顔となりてひれ酒覚えたり 素閑
ひれ酒の間の外に来る痩せ犬や 素閑
桟橋に想ひの人をひれ酒や 素閑
ひれ酒の香こもる部屋羅山の書 素閑
渡欧する友にはなむけひれ酒や 素閑
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