昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

ビフテック・フリット

2016-03-18 20:04:49 | 政治

かーたんの体調は昨日と同じくあまりすぐれない。
食事がまともなものが食べられないので疲れやすくなっているようだ。
だから今晩も半病人食。
ところで、一方のオカブは豪勢にビフテキを焼いて食った。いつもいつも食い物ネタばかりで恐縮だが、お付き合い願いたい。今日は、少し真面目な話もしようと思っている。
牛肉を焼いたビフテキとじゃが芋を拍子木に切って揚げた「ポンム・フリット」はフランス人の国民食である。フランス人は当たり前のように、この献立を毎日食っている。このことは過去にも述べた。
しかし、例外がある。フランス人の敬虔なカトリックは金曜日は肉を食べないのだ。いわゆる「精進潔斎」のためである。この日は彼らは、鰯の塩焼きやサバのワイン煮などちょっとフランス人らしからぬものを、普通は家庭で食う。 
ところ日本人のオカブはその金曜日に堂々とステーキを食っている。まあ、無論、たかがオージー・ビーフである。写真で見るとでかいが、いつも行く西友で一切れ600円程度のものだ。 神様も目を瞑ってくれるだろう。目を瞑ったついでに、ビールも飲んだが、こちらもお目こぼし願いたい。

ところで民主党の有田芳生議員が、参議院予算委員会の質問で、いわゆる「ヘイト・スピーチ」に対する対策を安倍首相に糾したという。
言うまでもなく、激越な言葉で他者や特定「民族」を攻撃し貶めることは、たとえ法に触れなくても、一般的な良識や、普遍的な人権の観点から指弾されなくてはならない。
しかし、そのことは措いておいて、滑稽なのは、普段は「安倍死ね!」と叫ぶ輩に与する議員が、こと自分の政治テーマである「ヘイト・スピーチ」に関しては、「国家権力」の出動に縋らなければならないという点である。
この「国家」とか「国家権力」が今日、語りたい中心的論題である。
国民国家の出発がウェストファリア条約からであるとすると、もう人類は600年近くも、この怪物(リヴァイアサン)と付き合ってきたことになる。マルクス主義のように最終的には国家の消滅を予言したり、EU連合のように限りなく、国家の垣根が低くなるような動きもあるが、国内・国際を問わず、未だ、「国家」は政治の中心的アクターである。これに対峙する存在として「近代的個人」があるわけで、西欧型近代社会の歩みは、この「国家」と「個人」との絶え間ない闘争の過程であったと言っても過言ではあるまい。
その中で、国家を・・・・特にその経済的規模において最小限にし、個人の活動への国家の介入を必要最低にまで抑えようとするのが自由主義の基本的概念である。そして、それは突き詰めれば「夜警国家」や「茶会」の世界まで突き進むのは、例外的事象とは言えず、ごく自然な事である。「新自由主義」も、結局は、それは自由主義が生んだ鬼子とはいえ、自由主義のメカニズムの本質を見据えれば、それが行き着く先として、なんの不思議もない。
当然、その国家対個人の関係の質や程度は国ごとの事情や国民性、歴史的背景によって異なるのであり、例えば、中途半端な福祉政策であり、とても国民皆健康保険の制度とは呼べない「オバマ・ケア」にも強く反対するアメリカ人という国民がいる一方で、ほぼ完璧な国民皆保険の制度を当たり前のように受け容れている日本人という国民もいるのである。しかし、双方の「国家」の「個人」への介入、言い換えれば行政の権能に関する考え方の違いは、程度の問題であり、根本的な相違はない。
近代国家は「ある程度」個人の自由を認めつつ、「ある程度」福祉国家としての機能も維持しているのだ。
では、個人の自由を極限まで認めれば、そのことは本質的な意味での国家の「枠組み」の価値を薄めているのかというと、そうした事実を認めることはできない。「個人の自由」も国民が選び取った国家権力の実質的機能により保障されていることを忘れてはならない。そのことは「自由な個人」たる国民が国家に隷属することを意味しない。近代において、「自由化」が進めば進むほど「国家」の存在が肥大化するという矛盾に眼を向けるべきだ。
その意味で、自由主義と民主主義は共存しうる概念なのである。一面では、民主主義下の「国家権力」は立憲国家においては、「憲法制定権力」である国民そのものであり、その観点から治者被治者自同という概念も出てくる。しかし、そのように単純なモデルに還元できないほど現代社会が複雑であることは論を待たないが、本質的には上記の事実は真理である。
そのことは日本国憲法による法の支配の始点と歴史と現実を観れば明白だ。乱暴な言い方に換言すれば、日本国憲法下では、国民は自らのための自由を保障される一方、他者の為の「不自由」をも義務付けられているということである。
民主主義に「立憲」を加えると、「自由民主主義」になるという見方が一般的だが、オカブはそれには疑問を呈せざるを得ない。主権者であり、治者であると同時に被治者でもある国民は、憲法下で自由とともに不自由も同時に受け容れなければならないという事実の前に、先に自由主義と民主主義は共存しうると言ったが、時にそれらは相対立する関係にもなる。
そうした環境と条件の中において、我々はもっと、国家、政府、個人、企業、諸団体、さらにはマスメディアなどが、より国家と個人の関係に緊張を持たせながらも、それに対する調整の役割を果たすように強く思考、自律、監視を行わなければならない。
だから、冒頭の有田議員の質問も国家権力である「安倍晋三」への要求であるとともに、自らへの要求でもあるとよく自覚すべきだ。

高ぐもりそよとも揺れぬ菫草   素閑