昨日から調子が悪い。
日課のマンションの清掃のバイトもかーたんに行ってもらった。
それにも拘らず昨晩は半徹夜した。
頭がくらくらして、気持ちが悪い。
朝食も食べる気が起こらない。
しかし、なにか腹に入れておかないと、ますます調子が悪くなる。
買い置きの桃をかーたんと食った。
かーたんは休暇中のエルさんとこれから渋谷に行ってお食事をして映画を見てくるという。
オカブは今日は一日ゴロゴロしていようと思う。
病得て桃のわずかに渋きかな 素閑
昨日から調子が悪い。
日課のマンションの清掃のバイトもかーたんに行ってもらった。
それにも拘らず昨晩は半徹夜した。
頭がくらくらして、気持ちが悪い。
朝食も食べる気が起こらない。
しかし、なにか腹に入れておかないと、ますます調子が悪くなる。
買い置きの桃をかーたんと食った。
かーたんは休暇中のエルさんとこれから渋谷に行ってお食事をして映画を見てくるという。
オカブは今日は一日ゴロゴロしていようと思う。
病得て桃のわずかに渋きかな 素閑
夏休みでもないし、すべき仕事がないわけでもないが、やる気がしない。
どうも、このじめじめした天候のせいのようだ。
朝からグダグダしている。
庭に水を撒いた後は、クーラーの効いた部屋に籠り、朝酒を始めた。
スコッチのオンザロックからスタートし、それが尽きて、赤葡萄酒をがぶがぶ飲む。
ご承知のようにオカブはアルコールには節操がない。
なんでもチャンポンでも飲む。
ただただメチルアルコールだけは飲まないまでである。
いくら呑んでも、それほど酔わない。
身体がアルコールに毒されてきた証拠である。
ウィスキーボトル半分ほど、葡萄酒を一本ほど空けた。
庭の植え込みの様を眺めながらただ黙々と飲む。
次は日本酒の一升瓶に手を出す。
かーたんはレッスン、エルさんはライヴで茨城に行っている。
一人きりの居留守である。
時は虚しく過ぎていく。
病葉を手に取り音無き青木立 素閑
このところ炎暑というほどの暑さでもなく、どちらかというと涼しい凌ぎやすい日が続いたが、今日から少しづつ暑さが盛り返してきたようだ。
どうもオカブは暑さが苦手で、夏は嫌いだ。
だが夏にしか味わえない日本の情趣というものもあるので、なんだかんだとは言いながら、なんとか暑い夏の日々を過ごしている。
もう8月である。
あっという間に秋がくる。
最近の秋は残暑が厳しいとはいえ、やはり夏が過ぎるというのは一種の感傷が伴うものだ。
『余りにも短かった夏の光・・・』ボードレールは『秋の歌』でこう詠んだ。
快適で、冬には陰鬱な天候に包まれているヨーロッパなら自然な感情であろう。
エルさんも今は夏休みを満喫していて今日も茨城県までライヴ・コンサートを聞きに行っているが、この子が羽を伸ばせる夏休みもとても短い。
学生の頃は夏期休暇があって夏という季節はなんとなく嬉しいものだったが今は暑いだけである。
しかし過ぎていく夏にはそこはかとない哀れを感じるものである。
梧桐の葉の揺れるなき原爆忌 素閑
地球温暖化の危機が叫ばれて久しい。
二酸化炭素ガスの削減は目下の急務のごとく言われている。
しかし、これを目的とした国際合意「京都議定書」及び「パリ合意」が極めて政治的であり、先進国とみなされる国々と途上国とみなされる国々の間で、先鋭的な経済的摩擦を生じた結果、世界が足並みをそろえて、この問題を解決する機運にはなっていない。
一方で、地球温暖化は二酸化炭素が原因ではない、とする説もあり、事態は混迷の域に達している。
オカブは難しいことはわからないが、暑い夏は大嫌いなので、とにかく、もっと気候が涼しくなってほしいと願うばかりである。
昔は(と言っても10代から20代にかけての大昔だが)、夏はよく叔父の菅平の別荘に避暑に行っていた。
菅平は標高約2,000m弱。非常に涼しい。曇った日など寒いくらいでジャンパーが欲しくなるほどである。
冬はスキーヤーで賑わう菅平は、夏の間は、避暑客というよりも、学生や若者のスポーツ合宿のメッカとなっていた。
特に、早稲田大学のラグビー部の合宿が夏に菅平で行われるために、当時のいわゆる追っかけがこの高原にも目立ち始めていた。
現在のように、夏はセブ島だバリ島だというような、海外旅行に気軽に行けるようなご時世ではなかったので、この時期の信州の高原はちょっとセレブ感漂う皆の憧れの場所だった。
菅平と並んで、八ヶ岳山麓の清里と、軽井沢は、その当時、若者であふれかえって、そして彼らを当て込んだ店舗が軒並み店を並べて、まるで原宿が移転してきたようだと言われていたものだ。
菅平は、まだ静かな方で、清里と軽井沢は、夏には本当に山の中に一大都会が出現したような様相だった。
しかし、今では嗜好が多様化し、軽井沢は歴史ある避暑地として、なんとか隆盛を保っているものの、清里などはすっかり寂れてしまったと聞く。
俗化から解放され、昔の静寂が戻ってきたのはいいが、店舗やレジャー施設の建物が廃屋として残され荒んだ雰囲気になってしまったそうだ。
こういうところが日本の観光政策の方向性の無さの犠牲である。
ヨーロッパは自由な国々だが、観光は一大産業なので、景観保持などその資源を守るために統制すべきところは厳しく統制している。
イタリア、スイス、フランスなどのアルプス周辺では一切の俗的な施設を設けることを許さない。
景勝地となるとすぐに秘宝館の建つ日本とは大違いだ。
今日は、かーたんとブランチに三茶の『きゃんどる』にまた行ってきた。
日差しが照り付けじりじり暑かった。
ビールを飲み喉を潤した。
7月も後半になり、暑い東京にいると、昔、行った涼しい高原が懐かしく思い出される。
横丁の店にて青き山思う 素閑
我が家の庭に紫陽花が咲いている。もう旬の終わりを過ぎているようだが、日当たりの悪い我が家の庭では、丁度、咲き盛りの頃だ。
幕末のかの有名なシーボルトは日本での愛人を「マクロフィラ」と呼んだ。紫陽花のことである。なにか物悲しい。
鎌倉の明月院は紫陽花の参道で有名だが、この歴史は意外と新しいという。
戦後になってから、今の先々代の住職が垣根代わりに植えたとのこと。
シーボルトは、アルフォンス・ドーデの短編『盲目の皇帝』に出てくる。
恵まれない晩年だったようだ。
紫陽花というと物の哀れが付きまとう気がする。
紫陽花や雨音数えて留守居かな 素閑
いま、北朝鮮が注目!
アメリカとのチキンゲームで、どちらが先制攻撃をするか目が離せない。
老い先短い身にとっては、東京に核ミサイルが降ってこようが、さして身の危機とは感じないが、まあ、世間一般の人々にとっては大事だろう?
ここで、朝鮮半島を巡って、アメリカ・日本、そして緩衝役の中国、さらに第三者的な立場のロシアがあるわけだが、ロシアって日清戦争の時もこんな役回りを演じていなかったっけ?
日本と清による朝鮮支配のせめぎあいの渦中で漁夫の利を狙うのがロシアの立場だ。
思えば、ロシア、ひいてはロシア人って少し変だとしきりに思うことこの頃である。
ロシアという民族は北欧人のルスが、現在のノヴゴロドの辺りに移住して、そこで独自の集団を作ったのが最初とされる。
ノルマンの英雄オレーグと言えば、半ば伝説的な人物だが、それに近い実在の人物はいたことは確かだ。
そして、ノヴゴロド公国、モスクヴァ公国などと行政・支配的には分割統治されたロシア・スラヴは文化的には東ローマ・ビザンツ帝国と深く結びつき、宗教的にもギリシャ正教を崇めることになる。
群雄割拠のロシアは、やがてイヴァン雷帝のモスクヴァ公国が力抜きんでて、統一の中心となる。
そして、ロマノフ朝の長い治世下に服することになる。その間、イェカテリーナ女帝など珍妙な人物を輩出するのだが、その辺は割愛する。
ロシアが変だと思えるのは、帝政末期、本当に退廃と倦怠の文化の中で、ロシア人は何にもやる気のない民族だと思わせるところである。
その辺はその当時のロシア文学の小説を読んでみればすぐに感じ取れる。
ゴンチャロフのオブローモフ、チェーホフの『決闘』のラエーフスキー、ゴーゴリの『鼻』や『外套』や『検察官』に出てくる有象無象。そして極めつけはドストエフスキーの『罪と罰』の究極の虚無主義者、ラスコーリニコフ。
資本主義の勃興期にあって資本の原初的蓄積をなさねばならぬ時に、こんな非生産的な連中を抱えていたロシア帝国は風前の灯火とも思える。
まさに、倦怠と怠惰と妄想の中に無為に日々を送っているような奴らばかりである。
だいたい何等官とかって、帝政ロシアは、国民総公務員の社会主義国家なのかよって思う。
そうこう考えて、ロシアはもうダメ、となる寸前に、また180度指向の異なるとんでもない連中が出てくる。
言うまでもなく、レーニン、トロツキー、スターリンのご一党様である。ここでロシアは真逆に向きを変えて唯物論の国になる。
ここでは、財の生産が最重要視される国家が生まれる。
実際、ロシアはヨーロッパの辺境の後進国であったにもかかわらず、様々な製品を生産し世に送り出した。
しかし、その最たるものは軍事装備であった。
そして、第二次大戦を迎える。
ソヴィエト・ロシアは戦時において史上最大の犠牲者を出しながらも、その主たる陸軍兵器を駆使して、ナチス・ドイツ勢力を蹴散らした。
あの、何にもしない、キャベツのスープがない、自らの等級より上の官吏には媚びへつらわなくてはならないなどとと文句を垂れていた帝政ロシア時代の公務員国家がこの大事業を成し遂げた。
これでは、ロシア国民はやる気があるんだか、ないんだか分からない。デカダンなのかストイックなのか分からない。
大戦が終わり、米ソに大国家の間の冷戦下で、圧倒的に科学水準、経済力に勝るアメリカとよく伍して、覇を競った。
しかし、無理な社会主義体制の拘束に綻びが生じ、全世界的な雪解けの一環として、デタント、そして体制崩壊へと突き進む。
そして、ソ連邦が分割され、一応、自由主義陣営の一員になったロシアは、それでも、過去のクレムリンの恐怖・秘密政治を思わせる、プーチンの強面によって牛耳られている。
誠に不思議な国、民族と言わねばならない。
オカブは大学時代、第二外国語にロシア語を取った。その当時は米ソ二大国の時代になると思っていたからである。
ロシアは今では大国というにはおこがましい、二流国の地位に甘んじているが、その保持する文化、思想、国民性など、現代社会に与える影響は大きく、決して、学生時代ロシアの言語を勉強したことを悔いていない。
というよりも、なぜ、ロシアが上述したような変梃りんな歴史をたどってきたのか、今からでも勉強したい。
今日は、連休初日。かーたんと三茶に出かけた。
いつもの『きゃんどる』でランチをした。
美味かった。Aランチ珈琲、サラダ付きで1,000円である。
ほんとに、ここはいい店です。
初夏の薫る中、日の傾いた道をたどって帰宅した。
世の波濤激しく天皇誕生日 素閑
最近、やることがなくなった。
仕事は開店休業状態だし、そういうわけで、道楽に回す金もなく、鼻糞でもほじってゴロゴロしているしか手はない。
学生時代に、もっと勉強しておけばよかった、と最近になってつくづく思う。
別に、勉強したからといって、いい仕事に就いたり、金を儲けようという野心などさらさらない。
ただ、こうして老いてからの暇つぶしに、なんらかの役に立ったのではないかと思っている。
専攻は政治である。
時は米ソ冷戦の真っただ中であった。
米ソがミサイルを撃ち合って、地球がドロドロになるのではないかという恐怖が、連日、まことしやかに報じられていた。
そんな時代背景の中で、ゲームの理論を基礎に、どうしたら核戦争に勝てるかというテーマを研究していた。
担当教授は、平和主義者だったから、こっぴどく叱られ、単位は可しか貰えなかった。
もう、そんな時代状況ではなくなったので、学生時代やったことは、今の時代、ほとんど役に立たない。力半ばにして相拮抗した二大陣営の対立の構図は無くなったから、北朝鮮や中国のミサイルの恐怖はあっても、その当時の理屈は、全く通用しない。
核ミサイルの他は山登りにうつつを抜かしていた。
バイトをして金がたまると山に行っていた。
思えば、無駄なことに金と時間を費やしたと思っている。
学生時代の本質は、壮大な浪費といっても、それにしても、もう少し実になることをやっていればよかったと思っている。
今になって、法律でも勉強しておけばよかったと思っている。
学生時代は、法律など訓詁学だろ、サイエンスじゃねーよな、と馬鹿にしていた。だから、政治学科といっても、法律の授業は、憲法と行政法以外はまったく取らなかった。
しかし、ちらっと、最近、覗いてみると、なかなか奥が深そうだし、第一、ミサイルの勉強をするより実用的だ。
基礎理論、法哲学などは結構、面白そうだ。
しかし、「法哲学」とは言っても、それらの実態は倫理学だと思っている。
だから、ケルゼンもロールズも「学者」というよりもむしろ、価値判断を基に置いた「思想家」なんじゃないかな?などと考えてしまう。
まぁ良い。老いの醜さで、オカブも人間如何に生きるべきか?などという、柄にもないことを思い出したということだ。自分のふしだらな生き方は措いておいて・・・
晩御飯はまた鶏鍋だった。
オカブは確かに鶏鍋は美味いといったが、こう毎日、鶏鍋を食わされていると、酉年生まれのオカブが、酉年の今年に、本当に酉になってしまいそうだ。
締めの雑炊を食うと、もう腹がいっぱい。
また、肥りそうだ。
水ぬるむ立身せぬ身もまた良きか 素閑
正月はのんべんだらりと過ごしていたら、もう今日は三日だ。
毎年思うのだが、歳を取ると時間の経つのが光のように速い。
正月ボケを治すために少し早く起きて、メールチェック。
今日、深夜のテレカンファレンスの準備などをする。
昼過ぎにかーたんと三茶に買い物。
西友でホウレン草とパンを買っただけ。
新年の店を開けたキャロットタワーの26階のレストラン、スカイキャロットでお食事。
清水の舞台から飛び降りたつもりになって、フィレ・ステーキのセットを二人とも頼む。一人1,800円也。オカブはこれに黒ビール。一杯700円也。
まあまあ、この店にしては美味かった。
しかし今年の三が日は好天が続いた。窓から見渡す東京都心の光景に食欲も進む。昨日、間近に見てきたスカイ・ツリーがくっきりと望める。
夜までグダグダして、7時から『ニューイヤー・オペラ・コンサート』。
今年は出色の詰まらなさだった。
バーを模したくだらない演出過剰。
新進歌手を表に出そうというのは分かるが、実力派のベテランが揃わないお粗末。
そして場違いな老害、鈴木雅明が3曲もこれまた場違いなバロックオペラで長々と放映時間を占領する図々しさ。
見ていてイライラした。
しかしその中でも、中村恵理のリューはちょっと聴かせた。
また、妻屋秀和のバルトロもいい出来だった。
御大と呼べるのは、福井敬、森麻季、藤村実穂子くらいだったが、福井敬の詰まらなさは除いて、森、藤村は実力のほどを見せてくれた。
まあ、林美智子、幸田浩子、木下美穂子の3人を欠いたニューイヤー・オペラはクリープを入れない珈琲のようなものだ。
雑煮を食べながら、ベッドサイドで見ていたのだが、雑煮の汁をベッドにこぼしてしまった。
勝手な文句・御託を並べたことに対する天罰か?
腰を上げなにかをせむと三日かな 素閑
2016年も今日で終わりである。
今年は、かーたんの癌との闘いと教会でのカルトとの闘いに明け暮れた一年であった。
仕事で結果は出せなかったし、やったことは後ろ向きのことであったが、不思議と悔いはない。
年末にはエルさんと父娘二人旅行にも行けた。
人生塞翁が馬、足るを知ることで道は開ける。
今日は、午後に知人とかーたんとで三茶で食事をし、7時過ぎに手作りの蕎麦を食べ、その後『こうもり』を見た。
いつもの、カルロス・クライバー指揮、オットー・シェンク演出のバイエルン国立歌劇場のシルヴェスター公演のものである。ブリギッテ・ファスベンダーのはまり役のオルロフスキーで最高に楽しい、『こうもり』の決定版の『こうもり』だと思う。
今年の第九は国音の合唱がなかったので見なかった。見たかーたんの感想によるとプロムシュタットは余り好感が持てなかったし、東京オペラシンガーズの合唱は確かにプロの演奏ではあるが、国音の一回しか出演できないという緊張感と清新さに欠けるとのことだった。
11時半から東急ジルヴェスター・コンサート。
小倉智之が出ていたので非常に不愉快であった。こいつは親しくもない外国人をファースト・ネームで呼ぶしか能のない男である。獨協の外語卒がそんなに偉いのか!?と言いたい。
今年のカウントダウンは歌劇『イゴール公』より『韃靼人の踊り』。
かーたんと新婚旅行のウィーンで聴いた想い出の曲である。
今年も暮れていく。
カウントダウンは2017年0:00:01秒に少し早かった。
新年おめでとうございます!
甲斐もなく独りごちたる晦日かな 素閑
今日は冬至。一年で一番昼間の短い日である。
しかし、この日闇の支配は終わり、光の世界が開ける、と言ったら、モーツァルトの『魔笛』の世界だが、クリスマスの由来もこの辺からきていると、聞いたことがある。12月のクリスマスの起源は古代ゲルマンの原始宗教、ミトラ教の太陽の祭りだという。
ちょっと、教会に用事があり、三茶に出て、かーたんと『きゃんどる』で食事。
いつもいつもAランチにレーベンブロイの生大ジョッキのオーダーだが、この店のAランチは日替わりで変化に富んでいて、お客に飽きさせない。
珈琲と前菜のセットをつけても、なんと1,000円である。
こちらのお店でも、サービスのデザートを出していただいた。
素晴らしい!
大満足で、西友でおかずを買って、ご帰館。
昼酒や冬至の日差しの侘しさや 素閑