管家の万葉集に 読人不知
二十五 あさみどりのべのかすみはつつめども こぼれてにほふ山さくらかな
管家の万葉集に (よみ人しらず)
(浅緑、野辺の霞は包み隠しても、こぼれでて色鮮やかな山桜だなあ……若い延べの彼済みは、つつみ隠しているけれども、もれ出て匂う、山ばの、おとこ花だことよ)
歌言葉の「言の心」と言の戯れを紐解く
「あさみどり…浅緑…新緑の頃…山桜が浅緑の葉とともに薄紅色の花を咲かせる頃…若々しい」「のべ…野辺…山ばではない…延べ…延長」「かすみ…霞…彼済み…彼澄み」「つつめども…包めども…隠せども…慎めども…慎重ても」「こぼれて…零れて…はみ出して…あふれ出て」「にほふ…鮮やかに色ずく…匂う」「山桜…野辺が浅緑の頃咲く八重桜…山ばのおとこ花…遅く咲くので愛でたいお花」「かな…感動・感嘆の意を表す」
歌の清げな姿は、新緑、春霞、山桜の景色。
心におかしきところは、若くてなおも零れる如く咲いた山ばのお花。
百人一首に撰ばれた伊勢大輔の歌「いにしへのならのみやこの八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」、この八重桜は興福寺の僧から宮中への恒例の贈り物で、その御礼の歌である。「桜」などは、同じ「言の心」で詠まれてある。「かな」もほぼ同じ感動を表している。
歌の清げな姿は「古き奈良の都の八重桜、今日、宮中に・九重に色鮮やかに咲いたことよ」、心におかしきところは「いにしえの寧楽の宮この、八重に咲くおとこ花、今日・京・絶頂に、九重に匂ったことよ」。この喜びの感動は、感謝の心となって伝わるだろう。この歌は、公任の歌論にてらしても「優れた歌」である。女房たちを代表して今年は伊勢大輔が詠めと、中宮の仰せによって詠んだという。伊勢大輔の祖父は後撰集撰者大中臣能宣。赤染衛門、紫式部、和泉式部の歌にも学んだエリートである。この時代の文脈のただ中に居ることは間違いない。