山里の草のいほりに来てみれば垣根に残るつはぶきの花
秋萩の花咲く頃は来て見ませ 命またくば共にかざさん
秋萩の花咲くころを待ちとほみ夏草わけてまたも来にけり
良寛(りょうかん)さんの歌にこんなのがある。
「あは雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち) またその中にあは雪ぞ降る」。
あは雪は春の淡雪(あわゆき)、三千大千世界は仏教の言葉で、世界を千倍し、さらに千倍、また千倍した大宇宙をいう▲春の雪が降ってくる空を見上げると、やがて大宇宙があらわれてくる。その宇宙をじっと見つめると中に淡雪が降っているではないか……。広大無辺の宇宙と、はかない淡雪が入れ子のように入り組んだ壮大にして繊細な幻影である
番号 |
秀
|
冬の部短歌(吉野秀雄「良寛歌集」参考) |
543 |
越に来てまだ越なれぬわれなれやうたて寒さの肌にせちなる |
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544 |
◎ |
来てみればわが古里は荒れにけり庭もまがきも落葉のみして |
545 |
乙宮の杉のかげ道ふみわけて落葉ひろうてこの日暮らしつ |
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546 |
人間はば乙子の森の木の下に落葉ひろうて居ると答へよ |
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547 |
冬がれのすすき尾花をしるべにて尋めて来にけり柴の庵に |
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548 |
木の葉のみ散りにちりしく宿なればまた来む折は心せよ君 |
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549 |
○ |
あしひきの山田の田居に鳴く鴨の声きく時ぞ冬は来にける |
550 |
夜をさむみ門田の畔に居る鴨のいねがてにする頃にぞありける |
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551 |
わが門の刈田のおもにゐる鴨はこよひの雪にいかがあるらむ |
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552 |
さ夜更けて門田のくろに鳴く鴨の羽がひの上に霜やおくらむ |
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553 |
日は暮れて浜辺をゆけば千鳥鳴くどうとは知らず心細さよ |
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554 |
山里の草のいほりに来てみれば垣根に残るつはぶきの花 |
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555 |
あしひきの国上の山の山畑に蒔きしおほねをあさず食せ君 |
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556 |
うづみ火に足さしくべて臥せれどもこよひの寒さ腹にとほりぬ |
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557 |
山かげの草の庵はいとさむし柴をたきつつ夜を明かしてむ |
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558 |
世をそむく苔の衣はいとせまし柴を焼きつつ夜をあかしてむ |
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559 |
夜は寒し苔の衣はいとせましうき世の民に何を貸さまし |
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560 |
よもすがら草の庵に柴たきして語りしことはいつか忘れむ |
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561 |
草の庵にねざめて聞けばあしひきの岩根に落つる滝つ瀬の音 |
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562 |
ひさかたの時雨の雨にそぼちつつ来ませる君をいかにしてまし |
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563 |
○ |
岩室の田中の松を今日見ればしぐれの雨にぬれつつ立てり |
564 |
石瀬なる田中に立てる一つ松時雨の雨にぬれつつ立てり |
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565 |
○ |
いにしへを思へば夢かうつつかも夜はしぐれの雨を聴きつつ |
566 |
水やくまむ薪や伐らむ朝のしぐれの降らぬその間に |
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567 |
柴やこらむ清水や汲まむ菜やつまむ時雨のあめの降らぬまぎれに |
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568 |
飯乞はむ真柴やこらむ苔清水時雨の雨の降らぬ間に間に |
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569 |
この岡につま木こりてむひさかたのしぐれの雨の降らぬ間切れに |
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570 |
飯乞ふと里にも出でずこの頃はしぐれの雨の間なくし降れば |
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571 |
時雨の雨間なくし降ればわが宿は千千の木の葉にうづもれぬらむ |
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572 |
はらはらと降るは木の葉のしぐれにて雨をけさ聞く山里の庵 |
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573 |
山おろしいたくな吹きそ墨染の衣かたしき旅寝せる夜は |
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574 |
草枕旅寝しつればぬばたまの夜半のあらしのうたて寒きに |
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575 |
誰が里に旅寝しつらむぬばたまの夜半のあらしのうたて寒きに |
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576 |
さ夜あらしいたくな吹きそらでだに草の庵のさびしきものを |
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577 |
谷の声峰の嵐をいとはずばかさねて辿れ杉のかげ道 |
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578 |
松風かふりくる雨か谷の音か夜はあらしの風のふくかも |
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579 |
たまさかに来ませる君をさ夜嵐いたくな吹きそ来ませる君に |
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580 |
忘れてはわが住む庵と思ふかな杉のあらしの絶えずし吹けば |
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581 |
みぞれ降る日も限りとて旅衣別るる袖をおくる浦風 |
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582 |
さよ更けて風や霰の音聞けば昔恋しうものや思はる |
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583 |
さ夜更けて風や霞の音すなり今や御神の出で立たすらし |
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584 |
○ |
草の庵にねざめて聞けばひさかたの霰とばしる呉竹の上に |
585 |
夜もすがら草のいほりにわれをれば杉の葉しぬぎ霰降るなり |
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586 |
おく山の杉の板屋に霰ふりあらたどたどしあはぬこの頃 |
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587 |
雨あられちりぢりぬるる旅衣人毎にとりて干しあへるかも |
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588 |
ひさかたの雪気の風はなほ寒し苔の衣に下がさねせむ |
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589 |
いかにして君いますらむこの頃は雪気の風の日日にさむきに |
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590 |
わが宿のすすきが上の白雲は千とせ見れば飽くこともあらむ |
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591 |
心なきものにもあるか白雪は君が来る日に降るべきものか |
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592 |
風まぜに雪は降りけりいづくよりわがかへるさの道もなきまで |
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593 |
今よりはつぎて白雪降りぬべし衣手寒しけさのあしたは |
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594 |
今よりは古里の音もあらじ嶺にも峰(を)にも積る白雪 |
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595 |
今よりはつぎて白雪つもらまし道ふみわけて誰が訪ふべき |
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596 |
今よりは往き来の人も絶えぬべし日に日に雪の降るばかりして |
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597 |
白雪の日毎に降ればわが宿はだつぬる人のあとさへぞなき |
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598 |
君来ませ雪は降るとも跡とめむ国上の山の杉の下道 |
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599 |
ひさかたの天霧る雪のある日には杉の下庵思ひやれ君 |
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600 |
ひさかたの雪踏みわけて来ませ君柴の庵にひと夜語らむ |
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601 |
軒も庭も降り埋めける雪のうちにいやめづらしき人のおとづれ |
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602 |
白雪は幾重も積れもろこしのむろの高嶺をうつさむとぞ思ふ |
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603 |
かきくらし降る白雪を見るごとにむろのたかねの昔おもほゆ |
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604 |
おしなべて山にも野にも雪ふりぬ消えざるをりは粉に似てあるべし |
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605 |
飯乞ふと里にも出でずなりにけり昨日も今日も雪の降れれば |
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606 |
さ夜更けて高ねのみ雪つもるらし岩間にたぎつ音だにもなし |
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607 |
このゆふべ岩間の滝津音せぬは高嶺のみ雪ふりつもるらし |
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608 |
埋み火もややしたしくぞなりにける遠の山べに雪やふるらむ |
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609 |
山かげのまきの板屋に音はせねども雪のふる夜は寒くこそあれ |
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610 |
山かげのまきの板屋に音はせねど雪の降る日は空にしるけり |
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611 |
み雪ふる片山かげの夕暮は心さへにぞ消えぬべらなり |
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612 |
わが宿の浅茅おしなみふる雪の消なばけぬべきわがおもひかな |
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613 |
み山びの雪ふりつもる夕ぐれはわが心さへ消ぬべくおもほゆ |
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614 |
白雪は千重に降りしけわが門にずきにし子らが来るといはなくに |
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615 |
ひさかたの雪野に立てる白鷺はおのが姿に身をかくしつつ |
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616 |
柴の戸の冬のゆふべのさびしさをうき世の人にいかでかたらむ |
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617 |
山住みの冬のゆうべのさびしさをうき世の人は何と語らむ |
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618 |
沓なくて里へも出でずなりにけりおぼしめしませ山住みの身を |
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619 |
わが宿は越のしら山冬ごもり往き来の人のあとかたもなし |
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620 |
わが庵は国上山もと冬ごもり往き来の人のあとさへぞなき |
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621 |
わが宿は越の山もと冬ごもり氷も雪も雲のかかりて |
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622 |
み山びに冬ごもりする老の身を誰か訪はまし君ならずして |
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623 |
冬ながら世の春よりもしづけきは雪にうもれし越の山里 |
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624 |
いと早き月日なりけりいと早く年は暮れけりわれ老いにけり |
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625 |
わが庵は山里遠くありぬれば訪ふ人はなし年はくれけり |
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626 |
○ |
むらぎもの心なかしもあらたまの今年の今日も暮れぬと思へば |
627 |
世の中にかかはらぬ身と思へども暮るるは惜しきものにぞありける |
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628 |
惜しめども年は限りとなりにけりわが思ふことのいつか果てなむ |
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629 |
世の中はそなへとるらしわが庵は形を絵にかきて手向けこそすれ |
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630 |
今朝はしも押し来る水の氷れるにこの里びとも漕ぎぞわづらふ |
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631 |
この里は鴨着く島か冬されば往き来の道も舟ならずして |
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632 |
いかにせむ窪地の里の冬されば小舟もゆかず橇もゆかねば |
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633 |
冬の空結ぶ柳のいとながく千とせの春に逢ふを待たばや |
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634 |
今よりはいくつ寝ればか春来む月日数みつつ待たぬ日はなし |
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635 |
あづさゆみ春になりなば草の庵をとく訪ひてましあひたきものを |
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636 |
◎ |
なにとなく心さやぎていねられずあしたは春のはじめとおもへば |
番号
秀
歌
秋の部短歌(吉野秀雄「良寛歌集」参考)
285
○さびしさに草のいほりを出でてみれば稲葉おしなみ秋風ぞ吹く
286
わせねとる時にと君に契りしにいな葉おしなみ秋風ぞ吹く
287
何となくうらがなしきはわが門の稲葉そよがす初秋の風
288
あはれさはいつはあれども蔦の葉の裏吹き返す秋の初風
289
あしひきの山田のかかし汝さへも穂ひろふ鳥を守るてふものを
290
かくばかりありけるものを世の中は何朝がほをもろしと思はむ
291
秋もややうらさびしくぞなりにける小笹に雨のそそぐを聞けば
292
秋さめの日に日に降るにあしひきの山田の爺は晩稲刈るらむ
293
おくて刈る山田のをぢはいかならむひと日も雨の降らぬ日はなし
294
秋の雨の晴れ間に出でて子供らと山路たどれば裳のすそ濡れぬ
295
秋の雨の日に日に降ればから衣ぬれこそまされ乾(ひ)るとはなしに
296
秋の夜もややはだ寒くなりにけりひとりや君が明かしかぬらむ
297
秋の夜もやや肌くなりにけりひとりやさびし明かしかねつも
298
秋の夜はながしといへどさすたけの君と語ればおもえなくに
299
秋の夜のさ夜ふくるまで柴の戸に語りしことをいつか忘れむ
300
夏草の田ぶせの庵と秋の野の浅茅が宿はいづれ住みよき
301
あだなりと人はいふとも浅茅原朝わけゆかむ思ふ方には
302
晴るるかと思へばくもる秋の空うき世の人の心知れとや
303
たまほこの道のひとごとしをりせむまた来む秋は訪ね来むため
304
花の野にしをりやせましひさかたのまた来む秋はたづね来むため
305
手を折りてうち数ふればこの秋もすでに半ばを過ぎにけらしも
306
あまづたふ日にけに寒くなりにけりいざ帰りなむ幸くませ君
307
秋もややうらさびしくぞなりにけりいざ帰りなむ草の庵に
308
秋もやや衣手寒くなりにけり草の庵をいざとざしてむ
309
里子らの吹く笛竹もあはれきくもとより秋のしらべなりせば
310
虫は鳴く千草は咲きぬぬばたまの秋のゆふべの過ぐころもをし
311
思ふどち門田の畔に円居して夜は明かしなむ月の清きに
312
◎月よみの光を待ちてかへりませ山路は栗のいがの多きに
313
月読の光を待ちて帰りませ君が家路は遠からなくに
314
訪ふ人もなき山里に庵してひとりながむる月ぞわりなき
315
秋の夜の月の光のさやけさに辿りつつ来し君がとぼそに
316
○風は清し月はさやけしいざともに踊り明かさむ老のなごりに
317
誰にしも浮世のほかと思ふらむ隈なき月の光(かげ)を眺めて
318
名にし負ふ今宵の月をわが庵に都の君のながむらむとは
319
旅衣さびしさ深き山里に雲居同じき月を見るかな
320
草枕ねざめさびしき山里に雲居おなじき月を見るかも
321
越の空も同じ光のつきかげをあはれと見るや武蔵野の原
322
古里をはるばる出でて武蔵野の隈なき月をひとり見るかな
323
古里のこと思ひ出でてや君はしも有明の浦に月や見るらむ
324
つれづれに月をも知らで更科や姨捨山もよそにながめて
325
ひさかたの雲のあなたに住む人は常にさやけき月を見るらむ
326
あしひきの黒坂山の木の間より洩り来る月をよるもすがら見む
327
柴の庵をうち出でて見ればみ林の梢洩り来る月の清さよ
328
住めばまた心おかれぬ宿もがな仮の篠屋の秋の夜の月
329
ひさかたの月の光のきよければ照らし貫きけり唐も大和も
330
○しろたへの衣手寒し秋の夜の月中空に澄みわたるかも
331
うばたまの夜の闇路に迷ひけりあかたの山に入る月を見て
332
草むらのたみちに何か迷ふらむ月は清くも山の峰にかかる
333
浮草の生ふるみぎは月かげのありとはここに誰か知るらむ
334
しばらくはここにとまらむひさかたの後には月の出でむとおもへば
335
秋の野の花の錦の露けしやうらやましくも宿る月影
336
○あしひきの国上の山の松かげにあらはれいづる月のさやけさ
337
わが宿ののきばにうゑし芭蕉葉に月はうつりぬ夜は更けぬらし
338
降る月に月の桂も染まるやと仰げば高し長月の空
339
うち群れて都の月を見つれどもなれにし鄙ぞこひしかりける
340
さむしろに衣かたしきぬばたまのさ夜ふけ方の月を見るかも
341
ささの葉にふるやあられのふるさとの宿にもこよひ月を見るらむ
342
小鳥のねぐらにとまる声ならで月見る友もあらぬ山住み
343
わたつみの青海原はひさかたの月のみ渡るところなりけり
344
鳰の海照る月かげの隈なくば八つの名どころ一目にも見む
345
えにしあれば二歳つづきこの殿に名だたる月を眺むらむとは
346
幾人かいも寝ざるらむあしひきの山の端いづる月を見むとて
347
あたら身を翁がにへとなしけりな今のうつつにきくがともしさ
348
あきの夜の月の光を見る毎に心もしぬにいにしへおもほゆ
349
○あまのはらとわたる月かげ見れば心もしぬにいにしへおもほゆ
350
ますかがみとぎし心は語りつぎいひつぎしのべよろづよまでに
351
虫は鳴き千草は咲きぬこの庵を今宵は借らむ月出づるまで
352
君まさば賞でて見るらしこの頃は手向くる花も露ばかりにて
353
萩が上におく白露の玉ならば衣のうらにかけて行かまし
354
秋の野の尾花に置ける白つゆは玉かとのみぞあやまたれける
355
秋の野の草葉の露を玉と見て取らむとすればかつ消えにけり
356
風になびく尾花が上におく露の玉と見しまにかつ消えにけり
357
白露に咲きたる花を手折るとて秋の山路にこの日くらしつ
358
露はおきぬ山路は寒し立酒を食して帰らむけだしいかがあらむ
359
秋の野の草むら毎におく露は夜もすがら鳴く虫の涙か
360
なほざりにわが来しものを秋の野の花に心をつくしつるかも
361
秋日和染むる花野にまとゐして蝶も共寝の夢を結ばむ
362
秋の野の小野をわけつつわがゆけば千草の露に袖ぞぬれける
363
秋山に咲きたる花を数へつつこれのとぼそに辿り来にけり
364
秋の野に咲きたる花を数へつつ君が家べに来りぬるかも
365
秋の野に千草ながらにあだなるを心にそみて何ぞ思ひける
366
百草の千草ながらにあだなれど心にしみてなぞ思ひける
367
秋の野の千草ながらに手折りなむけふのひと日は暮れは暮るとも
368
秋の野に草葉おしなみ来しわれを人なとがめそ香にはしむとも
369
つゆじもにそめて来ぬらむ墨衣色にこそ出でねうるほひにけり
370
秋の野をわがわけ来れば朝露にぬれつつ立てりをみなへしの花
371
秋山をわが越え来れば朝霧にぬれつつ立てりをみなへしの花
372
○をみなへし紫苑なでしこ咲きにけりけさの朝けの露にきほひて
373
秋の野ににほひて咲ける藤袴折りておくらむその人なしに
374
白つゆにみだれて咲ける女郎花摘みておくらむその人なしに
375
白つゆにきほうて咲ける藤袴つみておくらむその人や誰
376
去年の秋うつして植ゑし藤袴このしらつゆにさかりなりけり
377
やさしくも来ませるものよなでしこの秋の山路をたどりたどりて
378
秋の野の尾花にまじるをみなへし月の光にうつしても見む
379
をみなへし多かる野べに標(しめ)やせむけだし秋風よきて吹くかと
380
もろともに踊り明かしぬ秋の夜を身にいたづきのゐるも知らずて
381
○いざ歌へわれ立ち舞はむぬばたまのこよひの月にい寝らるべしや
382
またも来よ山の庵をいとはずばすすき尾花の露をわけわけ
383
またも君柴のいほりをいとはずばすすき尾花の露をわけて訪ひませ
384
またも来よ草の庵を忘れずばすすき尾花の露をわけわけ
385
この岡の秋のすすき手折りてむわが衣でに露はしむとも
386
○この岡の秋萩すすき手折りもて三世の仏にたてまつらばや
387
わが宿の垣根にうゑし萩すすき道もなきまでしげりあひけり
388
秋風の尾花咲きし夕暮れは渚に寄する浪かとぞ思ふ
389
○秋風になびく山路のすすきの穂見つつ来にけり君が家べに
390
秋風に露はこぼれて花すすきみだるる方に月ぞいざよふ
391
秋の日に光りかがやく花すすきここのお庭に立たして見れば
392
秋の日に光りかがやく薄の穂これの高屋にのぼりてみれば
393
○あしひきの山のたをりにうちなびく尾花手折りて君が家べに
394
み山べの山のたをりにうちなびく尾花ながめてたどりつつ来し
395
ゆきかへり見れどもあかずわが庵の薄がうへにおける白露
396
ねもごろにわれを招くかはたすすき花の盛りにあへらく思へば
397
秋の野の薄かるかや藤袴君には見せつ散らば散るとも
398
○わが庵の垣根に植ゑし八千草の花もこのごろ咲きそめにけり
399
わが宿のまがきがもとの菊の花この頃もはや咲きやしぬらむ
400
わたつみの浪か寄すると見るまでに枝もたわわに咲ける白菊
401
いつまでもわが忘れめや長月の菊のさかりに訪ねあひしを
402
わが待ちし秋は来にけりつきくさのやすの川原に咲きゆく見れば
403
こぞの秋あひ見しままにこの夕べ見ればめづらし月ひとをとこ
404
み草刈り庵結ばむひさかたの天の川原の橋の東に
405
我が宿をいづくと問はば答ふべし天の川原のはしの東と
406
ねもごろにたづねてみませひさかたの天の川原はいづこなるかと
407
天の川川べの堰や切れぬらしことしの年は降り暮らしつつ
408
を止みなく雨は降り来ぬひさかたの天の川原の堰や崩ゆらに
409
天の川やすのわたりは近かけれど逢ふよしはなし秋にしあらねば
410
ひさかたのたなばたつめは今もかも天の川原に出で立たすらし
411
いまもかもたなばたつめはひさかたの天の川原に出でて立つらし
412
白妙の袖ふりはへてたなばたの天の川原に今ぞ立つらし
413
秋風に赤裳の裾ひるがへし妹か待つらむ安のわたりに
414
待つといへばあやしきものぞけふの日の千とせのごともおもほゆるかな
415
いましばし川の向ひの水岸へ妹出て待たむ早く漕ぎ出な
416
ひさかたの天の川原の渡し守はや船出せよ夜の更けぬ間に
417
わたし守はや船出せよぬばたまの夜霧はたちぬ川の瀬毎に
418
ひさかたの天の川原のわたし守川波高し心せよかし
419
秋風を待てば苦しも川の瀬にうち橋渡せその川の瀬に
420
恋ふる日はあまたありけり逢ふといへばそこぞともなく明けにけるかも
421
いかならむえにしなればか棚機の一夜限りて契りそめけむ
422
人の世は憂しと思へどたなばたのためにはいかに契りおきけむ
423
臥して思ひ起きてながむるたなばたの如何なる事の契りをかする
424
ひさかたの天の川原のたなばたも年に一度は逢ふてふものを
425
このゆふべをちこち虫の音すなり秋は近くもなりにけらしも
426
このゆふべ秋は来ぬらしわが宿の草のま垣に虫の鳴くなる
427
今よりは千草は植ゑじきりぎりす汝が鳴く声のいとものうきに
428
思ひつつ来てぞ聞きつる今宵しも声をつくして鳴けきりぎりす
429
秋風の日に日に寒くなるなべにともしくなりぬきりぎりすの声
430
わが園の垣根の小萩散りはてていとあはれさをなくきりぎりす
431
しきたへのの枕去らずてきりぎりす夜もすがら鳴く枕去らずて
432
いざさらば涙くらべむきりぎりすかごとを音には立ててなかねど
433
いとどしく鳴くものにかもきりぎりすひとり寝る夜のいねられなくに
434
音にのみ鳴かぬ夜はなし鈴虫のありし昔の秋を思ひて
435
秋の野にだれ聞けとてかよもすがら声ふり立てて鈴虫の鳴く
436
秋風の夜毎に寒くなるなべに枯野に残る鈴虫のこゑ
437
わが待ちし秋は来ぬらし今宵しもいとひき虫の鳴きそめにけり
438
○わが待ちし秋は来ぬらしこのゆふべ草むらごとに虫の声する
439
ともしびの消えていづこへゆくやらむ草むらごとに虫の声する
440
○わが待ちし秋は来にけりたかさごの峰の上にひびくひぐらしの声
441
今よりはつぎて夜寒になりぬらしつづれさせてふ虫の声する
442
秋もやや衣手さむくなりにけりつづれさせてふ虫の告ぐれば
443
○秋もやや夜寒になりぬわが門につづれさせてふ虫の声する
444
わが庵は君が裏畑夕さればまがきにすだく虫のこゑこゑ
445
ぬばたまの夜は更けぬらし虫の音もわが衣手もうたて露けき
446
あはれさはいつはあれども秋の夜の虫の鳴く音に八千草の花
447
いつはとは時はあれども淋しさは虫の鳴く根に野べの草花
448
あまづたふ日は夕べなり虫は鳴くいざ宿借らむ君がいほりに
449
夕されば虫の音ききに来ませ君秋野の野らと名のるわが宿
450
心あらば虫の音聞きに来ませ君秋野のかどを名のるわが宿
451
虫の音も残りすくなになりにけりよなよな風のさむくしなれば
452
肌寒み秋も暮れぬと思ふかなこのごろ絶えて虫の音もなし
453
仇寒み秋もくれぬと思ふかな虫の音もかる時雨する夜は
454
秋の野の萩の初花咲きにけり峰の上の鹿の声待ちがてに
455
わが宿の秋萩の花咲きにけり峰の上の鹿は今か鳴くらむ
456
露ながら手折りてぞ来し萩の花いつか忘れむ君が心を
457
秋萩の枝もとををにおく露を消たずにあれや見む人のため
458
白露に咲きみだれたる萩が花錦を織れる心地こそすれ
459
飯乞ふとわれこの宿に過ぎしかば萩の盛りに逢ひにけらしも
460
○飯乞ふとわれ来にけらしこの園の萩のさかりに逢ひにけるかも
461
飯乞ふとわが来てみれば萩の花みぎりしみみに咲きにけらしも
462
夕風になびくや園の萩が花なほも今宵の月にかざさむ
463
○散りぬらば惜しくもあるか萩の花今宵の月にかざして行かむ
464
○秋萩の花咲く頃は来て見ませ命またくば共にかざさむ
465
夢ならばさめても見まし萩の花今日のひと日は散らずやあらなむ
466
萩が花今盛りなりひさかたの雨は降るとも散らまくはゆめ
467
○秋萩の花のさかりも過ぎにけり契りしこともまだ遂げなくに
468
秋風に散りみだれたる萩の花払はば惜しきものにぞありける
469
○たまほこの道まどふまでに秋萩は散りにけるかも行く人なしに
470
いそのかみふる川のべの萩の花今宵の雨にうつろひぬべし
471
わが園に咲きみだれたる萩の花朝な夕なにうつろひにけり
472
白つゆは異(こと)におかぬをいかなればうすく濃く染む山のもみぢば
473
おく露に心はなきを紅葉ばのうすきも濃きもおのがまにまに
474
奥山に見捨ててかへる薄紅葉われを思はむ浅きこころを
475
あしひきの昨日のみ山のもみぢやもいとどうつくし君が言の葉
476
わが宿のまがきに植ゑし蔦かづら今日このごろは紅葉しぬらし
477
秋山は色づきぬらしこの頃の朝けの風のさむくなりせば
478
秋もやや衣手寒くなりにけり山の木の葉は色づきぬらむ
479
けさの朝わが疾くゆけばへびづかのおすはの森は色づきにけり
480
たまほこの道ゆきぶりの初もみぢ手折りかざして家づとにせむ
481
今よりはつぎて木々の葉色づかむたづさへて来よ一人二人を
482
緑なる一つ若葉と春は見し秋はいろいろにもみぢけるかも
483
○あしひきの山のたよりの紅葉ばを手折りてぞ来し雨の晴れ間に
484
あしひきの山のたよりのもみぢ葉を手折らずに来て今はくやしき
485
あしひきの山の紅葉をかざしつつ遊ぶ今宵は百夜つぎ足せ
486
秋山をわが越えくればたまほこの道も照るまでもみぢしにけり
487
おく山の紅葉ふみわけ殊更に来ませる君をいかにとかせむ
488
わが宿をたづねて来ませあしひきの山の紅葉を手折りがてらに
489
わが園にかたへの紅葉誰待つと色さへ染まず霜はおけども
490
露霜にやしほそめたるもみぢ葉を折りてけるかも君待ちがてに
491
あしひきの山のもみぢはさすたけの君には見せつ散らばこそ散れ
492
音にきく樋曾の山べの紅葉見に今年はゆかむ老のなごりに
493
もみぢばの散らまく惜しみあしひきの木の下ごとに立ちつつもとな
494
秋山の紅葉は散りぬ家づとに子らが乞ひせば何をしてまし
495
秋山のもみぢ見がてらわが宿を訪ひにし人はおとづれもなし
496
紅葉ばの降りに降りしく宿なれば訪ひ来む人も道まどふらし
497
もみぢ葉は散りはするとも谷川に影だに残せ秋のかたみに
498
うちつけに散りなば惜しき紅葉ばを見つつしのばむ秋のかたみに
499
やり水のこの頃音きこえぬは山の紅葉の散りつもるらし
500
ひさかたの時雨の雨の間なく降れば峰のもみぢ葉散りすぎにけり
501
あしひきの山のもみぢ葉散りすぎてうらさびしくもなりにけるかな
502
十日あまり早くありせばあしひきの山のもみぢを見せましものを
503
もみぢばの散りにし人のおもかげを忘れで君が問ふぞうれしき
504
秋山の紅葉はすぎぬ今よりは何によそへて君をしのばむ
505
をちこちの山のもみぢ葉散りすぎて空にさみしくぞなりにけらしも
506
此山のもみぢも今日は限りかな君しかへらば色はあらまし
507
もみぢ葉の散る山里はききわかぬ時雨する日もしぐれせぬ日も
508
木の葉散る森の下屋は聞きわかぬ時雨する日もしぐれせぬ日も
509
山里はうらさびしくぞなりにける木々の梢の散りゆく見れば
510
ひさかたの降り来る雨か谷の音か夜のあらしに散るもみぢばか
511
夕暮に国上の山を越え来れば衣手寒し木の葉散りつつ
512
墨染の衣手寒し秋風に木の葉散り来るゆふぐれの空
513
うべしこそ鹿ぞ鳴くなるあしひきの山のもみぢ葉色づきにけり
514
今日もかも向ひの岡にさを鹿のしぐれの雨にぬれつつ立たむ
515
憂きわれをいかにせよとかわかくさの妻呼びたててさを鹿鳴くも
516
このくれのものがなしきにわかくさの妻よびたててさをしか鳴くも
517
秋さらばたづねて来ませわが庵を峰の上の鹿の声ききがてら
518
秋萩の散りのまがひにさを鹿の声の限りをふりたてて鳴く
519
○このゆふべねざめて聞けばさを鹿の声の限りをふりたてて鳴く
520
さ夜ふけて聞けば高嶺にさを鹿の声の限りをふりたてて鳴く
521
この頃のねざめに聞けばたかさごの峯の上にひびくさを鹿の声
522
さ夜ふけて高嶺の鹿の声きけば寝ざめさびしく物や思はる
523
永き夜にねざめてきけばひさかたの時雨ののさそふさを鹿の声
524
夕月夜ひとりとぼそに聞きぬれば時雨にさそふさを鹿の声
525
秋もやや残り少なになりぬれば峰の上とよもすさを鹿の声
526
秋もやや残り少なになりぬれば夜な夜な恋ひしさを鹿の声
527
夕暮れに国上の山を越えくればたかねに鹿の声を聞きけり
528
たそがれに国上の山を越えくれば高嶺に鹿の声ぞ聞こゆる
529
百草の乱れて咲ける秋の野にしがらみふせてさを鹿の鳴く
530
秋萩の散りもすぎなばさを鹿のふしど荒れぬと思ふらむかも
531
草花の盛りすぎなばさを鹿の臥処荒れぬと思ふらむかも
532
宵やみに道やまどへるさを鹿のこの岡をしも過ぎがてに鳴く
533
夜もすがら寝ざめて聞けば雁がねの天つ雲居を鳴きわたるかな
534
今夜しも寝ざめにきけば天つ雁雲居はるかにうちつれてゆく
535
友呼ばふ門田の雁の声きけばひとりや淋しものや思はる
536
月夜善み門田の田居に出て見れば遠山もとに霧たちわたる
537
夕霧にをちの里べはうづもれぬ杉立つ宿にかへるさの道
538
うがたきてしめり避きませあしひきのみ山はさらに霧のふかきに
539
もたらしの園生の木の実めづらしみ三世の仏にまづ奉る
540
行く秋のあはれを誰に語らましあかざ籠に満てかへるふゆぐれ
541
なほざりに日を暮らしつつあらたまの今年の秋も暮らしつるかも
542
あしひきの山田のくろに鳴く鴨の声聞く時ぞ秋は暮れける
「第42回グリムの里 新春書きぞめ大会」(下野市文化協会など主催)を群馬で開催される。
同大会席書は平成2年1月6日(月)午後4時30分受付で、下野市立石橋体育館で行われる。小中学生ら約100人が一堂に会し、日頃の練習の成果を披露する。学生は半切1/2に「とし」(小1)「はと」(小2)「元旦」(小3)「大会」(小4)「松竹」(小5)「永寿」(小6)「慶祝」(中学)、高校は半切に「尋水臨山」など、季節にちなんだ言葉が課題となっている。真剣な表情で筆を走らせ、20分間で指定用紙3枚に作品を書き上げる。申し込み締め切りは12月5日まで。問い合わせなどは、福田理成(090ー7174-6800)へお願いします。
僕は重い外套がいとうにアストラカンの帽をかぶり、市いちヶ谷やの刑務所へ歩いて行った。僕の従兄いとこは四五日前にそこの刑務所にはいっていた。僕は従兄を慰める親戚総代にほかならなかった。が、僕の気もちの中には刑務所に対する好奇心もまじっていることは確かだった。
二月に近い往来は売出しの旗などの残っていたものの、どこの町全体も冬枯れていた。僕は坂を登りながら、僕自身も肉体的にしみじみ疲れていることを感じた。僕の叔父おじは去年の十一月に喉頭癌こうとうがんのために故人になっていた。それから僕の遠縁の少年はこの正月に家出していた。それから――しかし従兄の収監しゅうかんは僕には何よりも打撃だった。僕は従兄の弟と一しょに最も僕には縁の遠い交渉を重ねなければならなかった。のみならずそれ等の事件にからまる親戚同志の感情上の問題は東京に生まれた人々以外に通じ悪にくいこだわりを生じ勝ちだった。僕は従兄と面会した上、ともかくどこかに一週間でも静養したいと思わずにはいられなかった。………
市ヶ谷の刑務所は草の枯れた、高い土手どてをめぐらしていた。のみならずどこか中世紀じみた門には太い木の格子戸こうしどの向うに、霜に焦こげた檜ひのきなどのある、砂利じゃりを敷いた庭を透すかしていた。僕はこの門の前に立ち、長い半白はんぱくの髭ひげを垂たらした、好人物らしい看守かんしゅに名刺を渡した。それから余り門と離れていない、庇ひさしに厚い苔こけの乾いた面会人控室へつれて行って貰った。そこにはもう僕のほかにも薄縁うすべりを張った腰かけの上に何人も腰をおろしていた。しかし一番目立ったのは黒縮緬くろちりめんの羽織をひっかけ、何か雑誌を読んでいる三十四五の女だった。
妙に無愛想ぶあいそうな一人の看守は時々こう云う控室へ来、少しも抑揚よくようのない声にちょうど面会の順に当った人々の番号を呼び上げて行った。が、僕はいつまで待っても、容易に番号を呼ばれなかった。いつまで待っても――僕の刑務所の門をくぐったのはかれこれ十時になりかかっていた。けれども僕の腕時計はもう一時十分前だった。
僕は勿論もちろん腹も減りはじめた。しかしそれよりもやり切れなかったのは全然火の気けと云うもののない控室の中の寒さだった。僕は絶えず足踏みをしながら、苛々いらいらする心もちを抑おさえていた。が、大勢おおぜいの面会人は誰も存外ぞんがい平気らしかった。殊に丹前たんぜんを二枚重ねた、博奕ばくち打ちらしい男などは新聞一つ読もうともせず、ゆっくり蜜柑みかんばかり食いつづけていた。
しかし大勢の面会人も看守の呼び出しに来る度にだんだん数を減らして行った。僕はとうとう控室の前へ出、砂利を敷いた庭を歩きはじめた。そこには冬らしい日の光も当っているのに違いなかった。けれどもいつか立ち出した風も僕の顔へ薄い塵ちりを吹きつけて来るのに違いなかった。僕は自然と依怙地えこじになり、とにかく四時になるまでは控室へはいるまいと決心した。
僕は生憎あいにく四時になっても、まだ呼び出して貰われなかった。のみならず僕より後あとに来た人々もいつか呼び出しに遇あったと見え、大抵たいていはもういなくなっていた。僕はとうとう控室へはいり、博奕打ちらしい男にお時宜じぎをした上、僕の場合を相談した。が、彼はにこりともせず、浪花節語なにわぶしかたりに近い声にこう云う返事をしただけだった。
「一日いちんちに一人ひとりしか会わせませんからね。お前まえさんの前に誰か会っているんでしょう。」
勿論こう云う彼の言葉は僕を不安にしたのに違いなかった。僕はまた番号を呼びに来た看守に一体従兄いとこに面会することは出来るかどうか尋ねることにした。しかし看守は僕の言葉に全然返事をしなかった上、僕の顔も見ずに歩いて行ってしまった。同時にまた博奕打ちらしい男も二三人の面会人と一しょに看守のあとについて行ってしまった。僕は土間どまのまん中に立ち、機械的に巻煙草に火をつけたりした。が、時間の移るにつれ、だんだん無愛想ぶあいそうな看守に対する憎しみの深まるのを感じ出した。(僕はこの侮辱ぶじょくを受けた時に急に不快にならないことをいつも不思議に思っている。)
看守のもう一度呼び出しに来たのはかれこれ五時になりかかっていた。僕はまたアストラカンの帽をとった上、看守に同じことを問いかけようとした。すると看守は横を向いたまま、僕の言葉を聞かないうちにさっさと向うへ行ってしまった。「余りと言えば余り」とは実際こう云う瞬間の僕の感情に違いなかった。僕は巻煙草の吸いさしを投げつけ、控室の向うにある刑務所の玄関げんかんへ歩いて行った。
玄関の石段を登った左には和服を着た人も何人か硝子ガラス窓の向うに事務を執とっていた。僕はその硝子窓をあけ、黒い紬つむぎの紋つきを着た男に出来るだけ静かに話しかけた。が、顔色かおいろの変っていることは僕自身はっきり意識していた。
「僕はTの面会人です。Tには面会は出来ないんですか?」
「番号を呼びに来るのを待って下さい。」
「僕は十時頃から待っています。」
「そのうちに呼びに来るでしょう。」
「呼びに来なければ待っているんですか? 日が暮れても待っているんですか?」
「まあ、とにかく待って下さい。とにかく待った上にして下さい。」
相手は僕のあばれでもするのを心配しているらしかった。僕は腹の立っている中うちにもちょっとこの男に同情した。「こっちは親戚総代になっていれば、向うは刑務所総代になっている、」――そんな可笑おかしさも感じないのではなかった。
「もう五時過ぎになっています。面会だけは出来るように取り計はからって下さい。」
僕はこう言い捨てたなり、ひとまず控室へ帰ることにした。もう暮れかかった控室の中にはあの丸髷まるまげの女が一人、今度は雑誌を膝の上に伏せ、ちゃんと顔を起していた。まともに見た彼女の顔はどこかゴシックの彫刻らしかった。僕はこの女の前に坐り、未いまだに刑務所全体に対する弱者の反感を感じていた。
僕のやっと呼び出されたのはかれこれ六時になりかかっていた。僕は今度は目のくりくりした、機敏らしい看守かんしゅに案内され、やっと面会室の中にはいることになった。面会室は室と云うものの、精々せいぜい二三尺四方ぐらいだった。のみならず僕のはいったほかにもペンキ塗りの戸の幾つも並んでいるのは共同便所にそっくりだった。面会室の正面にこれも狭い廊下ろうか越しに半月形はんげつがたの窓が一つあり、面会人はこの窓の向うに顔を顕あらわす仕組みになっていた。
従兄いとこはこの窓の向うに、――光の乏しい硝子ガラス窓の向うに円まると肥ふとった顔を出した。しかし存外ぞんがい変っていないことは幾分か僕を力丈夫にした。僕等は感傷主義を交まじえずに手短かに用事を話し合った。が、僕の右隣りには兄に会いに来たらしい十六七の女が一人とめどなしに泣き声を洩もらしていた。僕は従兄と話しながら、この右隣りの泣き声に気をとめない訣わけには行ゆかなかった。
「今度のことは全然冤罪えんざいですから、どうか皆さんにそう言って下さい。」
従兄は切きり口上こうじょうにこう言ったりした。僕は従兄を見つめたまま、この言葉には何なんとも答えなかった。しかし何とも答えなかったことはそれ自身僕に息苦しさを与えない訣わけには行ゆかなかった。現に僕の左隣りには斑まだらに頭の禿はげた老人が一人やはり半月形はんげつがたの窓越しに息子むすこらしい男にこう言っていた。
「会わずにひとりでいる時にはいろいろのことを思い出すのだが、どうも会うとなると忘れてしまってな。」
僕は面会室の外へ出た時、何か従兄にすまなかったように感じた。が、それは僕等同志の連帯責任であるようにも感じた。僕はまた看守に案内され、寒さの身にしみる刑務所の廊下を大股に玄関へ歩いて行った。
ある山やまの手ての従兄の家には僕の血を分けた従姉いとこが一人僕を待ち暮らしているはずだった。僕はごみごみした町の中をやっと四谷見附よつやみつけの停留所へ出、満員の電車に乗ることにした。「会わずにひとりいる時には」と言った、妙に力のない老人の言葉は未いまだに僕の耳に残っていた。それは女の泣き声よりも一層僕には人間的だった。僕は吊つり革につかまったまま、夕明りの中に電燈をともした麹町こうじまちの家々を眺め、今更のように「人さまざま」と云う言葉を思い出さずにはいられなかった。
三十分ばかりたった後のち、僕は従兄の家の前に立ち、コンクリイトの壁についたベルの鈕ボタンへ指をやっていた。かすかに伝わって来るベルの音は玄関の硝子ガラス戸の中に電燈をともした。それから年をとった女中が一人細目に硝子戸をあけて見た後のち、「おや……」何なんとか間投詞かんとうしを洩らし、すぐに僕を往来に向った二階の部屋へ案内した。僕はそこのテエブルの上へ外套がいとうや帽子を投げ出した時、一時に今まで忘れていた疲れを感じずにはいられなかった。女中は瓦斯暖炉ガスだんろに火をともし、僕一人を部屋の中に残して行った。多少の蒐集癖を持っていた従兄はこの部屋の壁にも二三枚の油画あぶらえや水彩画すいさいがをかかげていた。僕はぼんやりそれらの画えを見比べ、今更のように有為転変ういてんぺんなどと云う昔の言葉を思い出していた。
そこへ前後してはいって来たのは従姉や従兄の弟だった。従姉も僕の予期したよりもずっと落ち着いているらしかった。僕は出来るだけ正確に彼等に従兄の伝言を話し、今度の処置を相談し出した。従姉は格別積極的にどうしようと云う気も持ち合せなかった。のみならず話の相間あいまにもアストラカンの帽をとり上げ、こんなことを僕に話しかけたりした。
「妙な帽子ね。日本で出来るもんじゃないでしょう?」
「これ? これはロシア人のかぶる帽子さ。」
しかし従兄の弟は従兄以上に「仕事師」だけにいろいろの障害を見越していた。
「何しろこの間も兄貴あにきの友だちなどは××新聞の社会部の記者に名刺を持たせてよこすんです。その名刺には口止め料金のうち半金はんきんは自腹を切って置いたから、残金を渡してくれと書いてあるんです。それもこっちで検しらべて見れば、その新聞記者に話したのは兄貴の友だち自身なんですからね。勿論半金などを渡したんじゃない。ただ残金をとらせによこしているんです。そのまた新聞記者も新聞記者ですし、……」
「僕もとにかく新聞記者ですよ。耳の痛いことは御免蒙ごめんこうむりますかね。」
僕は僕自身を引き立てるためにも常談じょうだんを言わずにはいられなかった。が、従兄の弟は酒気を帯びた目を血走らせたまま、演説でもしているように話しつづけた。それは実際常談さえうっかり言われない権幕けんまくに違いなかった。
「おまけに予審判事よしんはんじを怒おこらせるためにわざと判事をつかまえては兄貴を弁護する手合いもあるんですからね。」
「それはあなたからでも話して頂けば、……」
「いや、勿論そう言っているんです。御厚意は重々じゅうじゅう感謝しますけれども、判事の感情を害すると、反かえって御厚意に背そむきますからと頭を下げて頼んでいるんです。」
従姉いとこは瓦斯ガス暖炉の前に坐ったまま、アストラカンの帽をおもちゃにしていた。僕は正直に白状すれば、従兄の弟と話しながら、この帽のことばかり気にしていた。火の中にでも落されてはたまらない。――そんなことも時々考えていた。この帽は僕の友だちのベルリンのユダヤ人町を探がした上、偶然モスクヴァへ足を伸ばした時、やっと手に入れることの出来たものだった。
「そう言っても駄目だめですかね?」
「駄目どころじゃありません。僕は君たちのためを思って骨を折っていてやるのに失敬なことを言うなと来るんですから。」
「なるほどそれじゃどうすることも出来ない。」
「どうすることも出来ません。法律上の問題には勿論、道徳上の問題にもならないんですからね。とにかく外見は友人のために時間や手数てすうをつぶしている、しかし事実は友人のために陥おとし穽あなを掘る手伝いをしている、――あたしもずいぶん奮闘主義ですが、ああ云うやつにかかっては手も足も出すことは出来ません。」
こう云う僕等の話の中うちに俄にわかに僕等を驚かしたのは「T君万歳」と云う声だった。僕は片手に窓かけを挙げ、窓越しに往来へ目を落した。狭い往来には人々が大勢おおぜい道幅一ぱいに集っていた。のみならず××町青年団と書いた提灯ちょうちんが幾つも動いていた。僕は従姉たちと顔を見合せ、ふと従兄には××青年団団長と云う肩書もあったのを思い出した。
「お礼を言いに出なくっちゃいけないでしょうね。」
従姉はやっと「たまらない」と云う顔をし、僕等二人ふたりを見比べるようにした。
「何、わたしが行って来ます。」
従兄の弟は無造作むぞうさにさっさと部屋を後ろにして行った。僕は彼の奮闘主義にある羨うらやましさを感じながら、従姉の顔を見ないように壁の上の画などを眺めたりした。しかし何も言わずにいることはそれ自身僕には苦しかった。と云って何か言ったために二人とも感傷的になってしまうことはなおさら僕には苦しかった。僕は黙って巻煙草に火をつけ、壁にかかげた画の一枚に、――従兄自身の肖像画に遠近法の狂いなどを見つけていた。
「こっちは万歳どころじゃありはしない。そんなことを言ったって仕かたはないけれども……」
従姉は妙に空ぞらしい声にとうとう僕に話しかけた。
「町内ちょうないではまだ知らずにいるのかしら?」
「ええ、……でも一体どうしたんでしょう?」
「何が?」
「Tのことよ。お父さんのこと。」
「それはTさんの身になって見れば、いろいろ事情もあったろうしさ。」
「そうでしょうか?」
僕はいつか苛立たしさを感じ、従姉に後ろを向けたまま、窓の前へ歩いて行った。窓の下の人々は不相変あいかわらず万歳の声を挙げていた。それはまた「万歳、万歳」と三度繰り返して唱となえるものだった。従兄の弟は玄関の前へ出、手ん手に提灯ちょうちんをさし上げた大勢おおぜいの人々にお時宜じぎをしていた。のみならず彼の左右には小さい従兄の娘たちも二人、彼に手をひかれたまま、時々取ってつけたようにちょっとお下さげの頭を下げたりしていた。………
それからもう何年かたった、ある寒さの厳しい夜、僕は従兄の家の茶の間まに近頃始めた薄荷はっかパイプを啣くわえ、従姉と差し向いに話していた。初七日しょなのかを越した家の中は気味の悪いほどもの静かだった。従兄の白木しらきの位牌いはいの前には燈心とうしんが一本火を澄ましていた。そのまた位牌を据えた机の前には娘たちが二人夜着よぎをかぶっていた。僕はめっきり年をとった従姉の顔を眺めながら、ふとあの僕を苦しめた一日の出来事を思い出した。しかし僕の口に出したのはこう云う当り前の言葉だけだった。
「薄荷はっかパイプを吸っていると、余計寒さも身にしみるようだね。」
「そうお、あたしも手足が冷ひえてね。」
従姉は余り気のないように長火鉢の炭などを直していた。………
(昭和二年六月四日)
2020年3月11日(水)より、「古典×現代2020ー時空を超える日本のアート」が国立新美術館で開催されます。
同展は、近現代の美術を専門とする国立新美術館が初めて取り組む、古い時代の美術と現代美術を新しい視点で紹介する展覧会です。
江戸時代以前の巨匠たちの作品や仏像などと、現代日本を代表する作家たちの創作を対比させることで、
古今の創造的営みに潜む、時代を超えた造形的、精神的な類似や親和性をひもときます。
展示する組み合わせは、花鳥画×川内倫子、刀剣×鴻池朋子、北斎×しりあがり寿、仙厓×菅木志雄、
円空×棚田康司、仏像×田根剛、乾山×皆川明、蕭白×横尾忠則の8組です。
記者発表会当日は、本展覧会の趣旨や古の名品と現代作品の組み合わせ、
記者発表会当日は、本展覧会の趣旨や古の名品と現代作品の組み合わせ、
見どころを監修者より紹介するほか、現代作家の方々に意気込みや制作中の新作について語ります。