大化2年(646)に奈良元興寺(がんごうじ)の僧、道登(どうと)によって最初に架けられたと伝えられ、古来より「瀬田の唐橋」「山崎橋」とともに、日本三古橋のひとつに数えられている宇治橋。
その宇治橋が架けられたいきさつを格調高い「六朝(りくちょう)風」の銘文で刻んだ石碑(重文)が、宇治橋東詰の橋寺にある。後に下部を継ぎ足したことから「宇治橋断碑」と呼ばれ、上部の原碑は、天平時代に作られたものと推定される。原因は不明であるが、いつしか姿を消し、長い間地中に埋没していた。
江戸時代の寛政3年(1791)に、寺の境内から上部3分の1の断石が発見された。尾張の学者、小林亮適ら5人によって、鎌倉時代に編纂された歴史書「帝王編年記」に記されていた原文をもとに下の部分を補い、寛政5年(1793)に現在の姿に復元された。
群馬県の「多胡碑(たこのひ)」、宮城県の「多賀城碑」とともに、日本三古碑に数えられている
◆
宇治橋断碑(うじばしだんぴ)は、京都府宇治市橋寺放生院にある宇治橋架橋の由来を記した石碑。日本最古の刻石文である。646年(大化2年)に建てられた。いつしか河川に転落したが、江戸時代の寛政年間(1789年~1801年)橋寺放生院の溝のなかから掘り出され、その首部三分の一のみが伝わる。尾張の人 中村維禎が『帝王編年紀』に載せた全文によって古法帖の文字をつらねてこれを補刻し、橋寺の庭に建て、裏面に由来を記した。刻文は名筆であるとされる。
碑銘
碑銘はつぎのとおり。
浼浼横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知杭葦 世有釈子 名曰道登 出自山尻 恵満之家 大化二年 丙午之歳 構立此橋 済度人畜 即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其苦縁
その宇治橋が架けられたいきさつを格調高い「六朝(りくちょう)風」の銘文で刻んだ石碑(重文)が、宇治橋東詰の橋寺にある。後に下部を継ぎ足したことから「宇治橋断碑」と呼ばれ、上部の原碑は、天平時代に作られたものと推定される。原因は不明であるが、いつしか姿を消し、長い間地中に埋没していた。
江戸時代の寛政3年(1791)に、寺の境内から上部3分の1の断石が発見された。尾張の学者、小林亮適ら5人によって、鎌倉時代に編纂された歴史書「帝王編年記」に記されていた原文をもとに下の部分を補い、寛政5年(1793)に現在の姿に復元された。
群馬県の「多胡碑(たこのひ)」、宮城県の「多賀城碑」とともに、日本三古碑に数えられている
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宇治橋断碑(うじばしだんぴ)は、京都府宇治市橋寺放生院にある宇治橋架橋の由来を記した石碑。日本最古の刻石文である。646年(大化2年)に建てられた。いつしか河川に転落したが、江戸時代の寛政年間(1789年~1801年)橋寺放生院の溝のなかから掘り出され、その首部三分の一のみが伝わる。尾張の人 中村維禎が『帝王編年紀』に載せた全文によって古法帖の文字をつらねてこれを補刻し、橋寺の庭に建て、裏面に由来を記した。刻文は名筆であるとされる。
碑銘
碑銘はつぎのとおり。
浼浼横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知杭葦 世有釈子 名曰道登 出自山尻 恵満之家 大化二年 丙午之歳 構立此橋 済度人畜 即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其苦縁