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明治の三筆-中林梧竹
鳴鶴が大きな志を抱いて中国行を果たしたころ、中林梧竹(なかばやしごちく 1827‐1913)も中国に渡っていた。
梧竹は、佐賀県小城市(旧小城町)新小路(しんこうじ)に生まれた。長崎の清国長崎理事府理事官だった余元眉(よげんぴ)と親交し中国金石学を学び、その紹介でその師の潘存(はんそん)に指導を受け、書道の革新に先鞭をつけた。
明治十五年、一時帰国の余元眉に伴われて北京に渡った。鳴鶴より10年ほど早かった。ときに梧竹56歳。
北京の潘存に師事したものの、潘存は寡黙な人で会話は筆談が主だった。潘存から学んだものは深く、多岐にわたった。周代の金文には文字造形の起点があり、漢代から魏にかけての筆づかいには生命の根源を知った。王義之系統にも規範と品格を学んだ。
なにより収穫が大きかったのは北京紫禁城にちかい胡同にある、瑠璃廠(ルーリーチャン)の骨董街に入りびたり、金文、漢・魏・六朝碑の玄原拓に直接学んだことで、これは梧竹にとって大きな刺激で、懐具合の許す限り金石の拓本買い集めた。
こうして梧竹の書は篆・隷・楷・行・草の各体にわたり、長鋒柔毫の筆を駆使して規模の大きい固有の世界をひらくことになり、鳴鶴と梧竹は明治の三筆として併称されることになる。