サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

ラーマ物語番外編ジャバリーの巻

2016-01-20 04:30:34 | 日記
良い行為だけが悪い性質を無くしてくれるのです。
心を清めるために良いことだけをするようにギーターは教えています。
しかしそれだけではありません。
本当に心を清めるためには、すべての行為を神に捧げなければなりません。
皆さんの行為をすべて神に捧げて下さい。
その時はじめて本当に心は清められます。SGc33

ポニョ:サイババさんは、お講話の時にいろんなエピソードを紹介されるけれど、シャバリーのエピソードが好きやったな。

ヨシオ:ほう。シャバリーのエピソードってどんなエピソードなんや。シャバでブルースリーが暴れる話か?

ポニョ:シャバでブルースリーが暴れるからシャバリーという名前を持ってるって面白すぎるやないの。そうではなくて、シャバリーはおいらのようにとても優し心の持ち主で、両親が決めた相手と結婚する事になっていたんやけれど、部族の決まりで女神様に結婚式の時に山羊を生贄として捧げなければいけなかったんや。でもシャバリーは「この山羊の死にゆく悲鳴が幕開けとなる私たちの結婚生活が、どうして幸福なものとなり得るでしょう?」と両親の足元に平伏して山羊を助けて欲しいと懇願したんやけれど、両親はその願いを無視したんや。それで結婚式の前日、シャバリーは夜中に家を抜け出して森の中に潜んでいたんや。両親を始め、親戚や新郎側の家族も森の中を探し回ったんやけれど、見つからなかったんや。シャバリーが身を低くして深い茂みのところで横たわっていると、捜索人たちがやって来て「あの庵には行けるわけはないだろう。あそこには女は誰も入れてもらえないだろうから」と言って去って行ったんや。その会話を聞いたシャバリーは、その庵こそ自分にとって最も安全な場所であると確信して、その庵の主であるマタンゴやったかな。名前は忘れたな。そういやマタンゴって昔、東宝の映画でやってたキノコの化けもんの名前やったよな。あれは怖かったな。どこかの南の島にいるキノコの化けもんに襲われたら、その襲われた人もマタンゴというキノコの化けもんになってしまうんや。

ヨシオ:そんな事は知らんちゅうに。マタンゴじゃなくて有名な聖者であるマータンガやろ。

ポニョ:ハッハッハそうでした。それで、聖者マタンゴはシャバリーの願いを受け入れて庵で面倒見る事にしたんや。ここからが面白いところやから、サイババさんの御言葉で直接聞いて下さいね。

マータンガはシャバリーを認めて庵に住むことを許可しました。マータンガはシャバリーに告げました。
「ラーマの姿をとった神が、いつかこの庵にやって来るだろう。なぜなら、ラーマは14年間森に追放されており、森で苦行中の僧侶や求道者たちを、平和を乱す羅刹の破壊行為から救うことに熱心であられるからである!」
ラーマは妻のシーターと弟のラクシュマナを伴って、ある場所から別の場所に向かっているのだと、マータンガは言いました。
その日から、シャバリーの心には、ラーマのこと以外、一切何も浮かびませんでした。ラーマのダルシャンを得て、その御足に触れて、ラーマと言葉を交わす機会を得ることだけを待ち望んでいました。シャバリーのハートはラーマの甘露で満ちていました。シャバリーは、ジャパもディヤーナ(瞑想、禅)も他の霊性修行もしなくなりました。シャバリーは、ラーマが庵に来る時のための準備に時間を費やしました。
シャバリーは、道を掃き清めるのと同時に自分のハートも清めました。その努力によって、石ころと茨が道とハートの両方から消え去りました。シャバリーは森を通って歩き、頭の上にかかる蔓草と茨の枝を取り払いました。おそらくラーマは髪を梳かしていないので、それらが髪に絡みつくだろうと想像したのです。また、塊になった土を砕いたのは、もしシーターがその上を歩いたら、柔らかな足の裏が傷つくだろうと恐れたからです。
シャバリーは、毎日、密林の木や植物の果実と根菜を集め、その日の分をとっておきました。ラーマがいつやって来るか誰も知りはしなかったからです! さらにシャバリーは、もしものことも考えました。集めた果物を一つひとつ味見して、苦いか、酸っぱいか、甘いかを調べ、ラーマが一番おいしい果実を食べることができるようにしたのです。
シャバリーは、密林の小道の脇に横たわる全部の石の表面を磨きました。ラーマかラクシュマナかシーターが歩き疲れた時に、そのどれかの石の上に腰を下ろすかもしれないと考えたからです。シャバリーは、自分が丹精込めて磨き上げたどれかの石の上で、三人のうちの誰かがしばらくの間でも憩ってくれることを願いました。このようにして、シャバリーのハートはラーマのハートとなりました!
シャバリーがあまりにもラーマに心酔したために、他の行者たちはシャバリーが女であるということをまったく意識しなくなりました。マータンガからシャバリーの霊性修行が高いレベルのものであると告げられた彼らは、シャバリーが庵に居続けることを認めました。さらにマータンガは、「ラーマがおいでになった時、ここにいるのに値するのはそなただけだ」と言って肉体を去り、自分の庵をシャバリーに明け渡しました。

ヨシオ:感動的なエピソードやな。

ポニョ:サイババさんは、一人ひとりの心の中に住んでおられる神さんが、住み良いようにシャバリーが荊や蔦草を取り、石ころや土の塊を綺麗に取り除いたように、自分の心の中の悪い性質を取り除きなさいと話を締めくくっておられるんや。

ヨシオ:ラーマやラクシュマナ、シータが疲れた時に腰を下ろすかもしれないと思って、道端の石や岩まで綺麗に磨き上げるってすごいよな。シャバリーって本当に優しい心をもっていたんやな。毎日の生活を神さんに捧げたら神さんに到達出来るという素晴らしいエピソードやったな。俺たちもこのシャバリーの一途な神さんを思う気持ちの爪の垢ぐらいを煎じて飲みたいよな。

ポニョ:誰かの爪の垢なんて飲みたくないズラ。それって汚いズラ。おいらが感動したところは、いつラーマの一行がやって来るか分からないけれど、その日が今日かもしれないと思い、毎日がその日であっても良いように、森の中で生えている木や植物の果実と根菜を集め、その日の分を取って準備していた事やぜよ。しかもそれらを味見して、不味いやつや、苦いやつを取り除いて、美味しいものだけを用意していたって所が感動したぜよ。

ヨシオ:チャクラの位置が胃にある人は、食べ物のエピソードがインパクトを感じるんやな。おれは、全ての行為をシャバリーのようにハートから神様に捧げれば、神に到達出来るって所が良かったな。

ポニョ:ところでシャバリーは、庵にやって来たラーマ様御一行に会ってお迎え出来たんやろか。聖者さんはラーマ様御一行が来る前にくたばられたんやろ。

ヨシオ:その聖者はずっとラーマ様御一行が来られるのを首を長くして待っておられたんやろな。だから待ータンガという名前なんや。もうすぐラーマが来るから死なずにちょっと待ータンガって感じやろな。

ポニョ:首を長くしてちょっと待ータンガって、めちゃ面白いダジャレやぜよ。これで聖者の名前を永遠に忘れないっちゃ。

ヨシオ:永遠に忘れないって大げさな奴やな。その頃、森の中にはマータンガだけではなく、いろんな聖者が様々な庵を持っていて、ある聖者は大きな庵に何千人もの弟子を抱えていたんや。ラーマが自分が長年営んでいる庵がある森に追放されたという話を聞いて、その聖者はプライドが高くて自分はその森の主のように思い込んでいたので、ラーマが自分の森にやって来たら、自分がラーマに挨拶に行く必要はなく、ラーマが自分の庵に挨拶に来るべきだと思い込んでいたんや。やがてラーマ様御一行が近くにやって来た時に、その聖者の弟子たちは待ちきれずにラーマ様御一行に会いに行ったんや。そして庵に帰ってくるや否や、その聖者に「この宇宙を統べるラーマ様御一行が、庵の近くに来られていますよ。聖者様も一緒にご挨拶に行きましょう」と何度も言ったんやけれど、聖者はその言葉を無視し続けたんや。ラーマは聖者が挨拶に来ないのを知って「大丈夫だよ。将来、彼に何度もダルシャンを与えるから」という謎のような言葉を残して去って行かれたんや。それから二万年以上も経ってラーマ神がサイババさんとして生まれ変わり、ホワイトフィールドのアシュラムでダルシャンを与えられていたけれど、そのダルシャングランドに影を落として、人々をインドの猛烈な暑さから守っていた大きな木が、その聖者の生まれ変わりなんや。

ポニョ:このエピソードは以前紹介したよな。でも聖者が木になって生まれ変わるって面白いな。おいらはそのエピソードを聞いて、ホワイトフィールドのアシュラムの責任者の人に質問をした事があるんやぜよ。だってその木がある年に行くと切り倒されていて無くなっていたんや。だから、どうしてあの大きな木を切り倒したのかって。あの木は昔、聖者だって知っているのかって。

ヨシオ:するとアシュラムの責任者の人は、どうしてお前はその木の事が木になるのかと聞かれたんやろ。

ポニョ:あの。木の字が違っていますが…。すると責任者の人は、サイババさんが聖者を木の中から解放する時がやって来た。彼には充分ダルシャンを与えたから切り倒しなさいと言われたんやて。

ヨシオ:二万年前のシャバリーの生きている時のエピソードが、この現代に受け継がれているってところがすごいよな。

ポニョ:でもこの話にはオチがあって、その木をサイババさんの指示で斬り倒そうとチェーンソーで切り始めたら、切ったところから血のような赤い色の樹脂が流れて来たんや。それでみんな怖くなって木を切るのをやめてサイババさんに報告したら、その聖者の話をして下さったんや。

ヨシオ:木を切ったら聖者の血が流れて来たって怖いよな。そんな話を聞いたら、余計にその木を切れなくなるやないか。

信愛の道(バクティ ヨーガ)はとても容易であり、この道においては、肉体を酷使することも、お金も必要なく、必要とされるのはただ愛のみです。
心(マインド)と五感を制するのは容易なことではありませんが、信愛(バクティ)を通じて神へと到った人は大勢います。
多くの人がラージャ ヨーガやカルマ ヨーガといった別の道を歩みましたが、神に到ることはできませんでした。
バイクに乗ることもそうですが、どんな冒険も初めは難しいものです。
しかし、徐々にうまくできるようになります。
バガヴァッドギーターには、「初めに習練ありき」とあります。
正しい行いを重ねることによって、人は悪い性質を手放すことができるのです。
そうすると、神のことを想い続けることができるようになります。
それこそが真の繁栄であり、本当の富なのです。24/4/96



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