サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

途中下車して駅弁食べよ

2019-02-18 04:00:38 | 日記

ポニョ:ハヌマンも、偉大な聖者ラーマクリシュナ パラマハムサも、星やんもみんな神さんになるより、神の至福を味わうことが出来る、「私は神様の召使いである」という段階に留まっていたいと思うって面白いよな。

ヨシオ:砂糖は砂糖の甘さを知ることは出来ないし、蟻のように砂糖を求めることもしない。人は、私は神様の召使いです。と思っている間は神様の持っている喜びを感じることが出来るし、それをもっともっと欲しいので、神様に泣きついてでもその神聖な甘さを体験したいと思うんや。

ポニョ:まさしく、星やんがそうやったな。蜜の味を知ったミツバチのようにババさんの事だけを思って毎日を毎時間の一瞬一瞬を過ごしていたよな。すごい信者やったな。


ヨシオ:まだ若かったのに、ババが命を取っていかれたな。素晴らしい信者が死んじゃった。

ポニョ:こんな不謹慎な言葉遊びはやめようぜ。

ヨシオ:不謹慎かな?世の人は、子供が生まれると喜んで祝う。死ぬと悲しんで弔う。でも、霊的な視点から見ると逆なんや。本当は人が死ねば、お祝いせないかんねん。


西洋の言葉では「命を失う」というが、インドでは「肉体を去る」という。
西洋では、人は肉体を持ち、肉体に魂が宿るというが、インドでは、人は魂であり、魂が一時肉体の衣をまとうという。
したがってインド人は、感覚の楽しみと世俗の栄光を追い求める文明や文化は砂上の楼閣であり、崩れ去る前の僅かな時間輝くだけのものと考えている。                       

死は嘆くべき出来事ではない。
それは旅の終わりであり、目的地についたとき、持ち主が車を降りるだけのことである。
一つの完成であり、少なくともそうなるべき幸福な結末なのだ。
ただし、皆が死をそのように賢明に捉え、そのために準備しているようであればの話だが。                          

悲劇を喜んで迎え、神聖な思いをよろいかぶととして、戦い抜きなさい。
劇は神が創作し、それぞれの役割は神の贈り物。
筋書きは神が書き、神がディレクターであり、衣装と飾りも神が与え、身振りと調子、入場と退場も神が決めます。
割り当てられた役割を見事に演じ、幕が下りる時神から褒められるようにしなさい。
技と熱意によって、より良い役を演じれる権利を勝ち取りなさい。
それが人生の意味であり、目的なのです。
世間に執着しすぎてはなりません。
人生における様々な出来事に巻き込まれてはなりません。
常に感情をコントロールしなさい。
逆巻く波は海の表面だけです。
深い海底は鎮まっています。
それと同様に、人は深く沈静するならば人生の波立ちと無関係でいられます。
識別心を働かせて、何がガラクタで何が宝物かを見付け出しなさい。SIP5-70


ヨシオ:俺は、生まれ変わる前の事を少し覚えているけれど、また生まれ変わるのは絶対嫌やと言って神さんにごねたことがある。肉体の中に入るってとても面倒くさい事なんや。でも神さんは、私も人の身体を取って仕事をするので来なさいと言われたんで、仕方なしにこの世界に来ることにしたんや。その時のフィーリングはとても強烈で、この世に生を受けた後もトラウマのように消えないな。めちゃ悲しかったで。この世に六十年以上生きてきているけど、あんなに悲しい思いをしたことは一回も無い。だから、生まれてからもこの世が嫌で嫌で仕方なかったんや。幼稚園に行って誰もそんな俺の気持ちを分かってくれる人はいないと思っていたし、誰とも親しくなりたくなかったので、いつも一人でいてることが多かったな。

ポニョ:そういう意味では、星やんも身体から離れて幸せやったやろな。今ではババとずっと一緒に入れるんやからな。

ヨシオ:人が死んで、まだこの世に支払い切れていないカルマが残っていたら、神さんに融合出来なくて、自分が創り上げた心の世界に行くけれど、その世界の中に、星やんやったら、星やんがイメージしているババがおられて一緒に過ごすことが出来るんや。だからめちゃハッピーと違うか。

ポニョ:その心の世界には自分の亡くなった両親やら知り合い、友達なんかもいるんやろ。それって良いよな。

ヨシオ:俺の叔父貴が、自分の妹が末期ガンになって、その痛みが苦しくて自殺したのを聞き、急いで妹の亡骸に対面するためにやって来たんや。その叔父と俺は一つ屋根の下に住んでいて、親父がいない俺の面倒を見てくれていたんや。でも、一度もガキの頃からその叔父貴が感情的になって涙を流した事を見た事が無かったんやけど、妹の亡骸に対面した途端に、周りにたくさんの弔問の人がいてるのに、大声で泣きながらこう言ったんや。「和子よ。おお和子よ。俺の愛する妹よ。こんな姿に変わり果ててしまった。もうこの世に未練はなくなったんか?あっちに行きたかったんか?あっちに行けば、俺たちの兄貴や両親がいてるもんな。お前が行けばちょうど四人になって麻雀が出来るやんけ。俺たちと一緒にいるよりそっちの方がええよな。」と言って泣き続けたんや。俺は、叔母が麻雀をやっているのを見たことは無いし、叔父の世界では人が死ねばみんな麻雀をやるんかなと思って、複雑な気持ちになって泣き崩れている叔父貴を見てたんや。

ポニョ:ババは、人には三人の自分がいる。一つは自分が肉体やと思い込んでいる自分。二つ目は他人の世界にいて、その他人の人が創り出している自分。そしてアートマである本当の自分。このババの話によれば、あんたの叔父さんの心の世界では、人が死ねばみんな麻雀をやっているんやろな。面白いなぁ。

ヨシオ:人はそれぞれこのように、自分の世界を創り上げているんや。ババは何を見ても、それは神さんだと思いなさい。と教えを説かれているやろ。それってとても大事なことなんや。だって、自分の創り上げた世界にいる全ての人や全てのものが神さんだと分かれば、自分の心の世界にいるものたち全てが神さんだらけになってしまって、違いは消え失せてしまうんや。

ポニョ:そう言えば、ババはこの世の算数では、三引く一は二になるけど、霊的な視点から見ると、答えは一になるって言われたことがあるな。

ヨシオ:そんな事を言っておられたな。鏡に映っている自分を見ている自分の話やったな。

ポニョ:そうそう、そこには、鏡と、それに写っている自分と、それを見ている自分の三つがあるけれど、鏡を取ってしまえば、そこには本当の自分しか残っていない、という例えを使ってこの世のカラクリをうまく説明されていたぜよ。

ヨシオ:この世の全てが神さんだと分かれば、もう生まれ変わらなくてもええんや。だって、死んで身体を離れて自分の世界に行っても、そこに見えるものは全てが神さんだらけなんや。叔父貴の場合はみんな麻雀している人だらけやけどな。インタビュールームでババにこんな事を聞いた人がいてる。ババ様、人が死ねばどうなるんですか?霊界か何処かに行くんですか?って。ババはその質問した人に自分で自分を指差してごらんと言われたんや。そして、その人がそうすると、人が死ねば、お前が自分の肉体を指差しているように、また肉体を取って生まれ変わってくる。と言われたんや。

ポニョ:面白いな。また肉体の中に入って生まれてくるんや。自分たちは生まれ変わりのエキスパートなんやな。

ヨシオ:俺は神様を探し求めて若い頃、いろんな霊的な本を読んだり、あっちこっちの霊的なグループや宗教組織に出入りしたことがあるけど、ババはあまり霊界の話をされないやろ。それは霊界ってその人が創り上げた世界で、それにこだわっていたら、いつまで経っても神の方に行けないんや。それよりも、自分が神御自身になれる近道を教えてくれているから、死んだ後の世界のことなんて知らなくてもええんや。

ポニョ:おいらも、一歩一歩霊的な道を登ってきて、やっとババに巡り会えたな。霊界通信とか、霊界物語とか、スエーデンボルグの本はめちゃ高かったけど無理して全部買って読んだぜよ。

ヨシオ:最初の話に戻るけど、自分が神の召使いだと思っている間は、神さんの仕事をしている時や、一緒にいてる時にはとてもハッピーなんやけど、一旦離れてしまうと、神さんを求めて悲しくなってしまう。でも、帰依者はその段階を乗り越えてもうひとつ上の段階へ登らなければならないんや。


ハヌマーンは「私はラーマ様の僕だ」という一途な気持ちによって大きな悦びを味わっていました。
ただその気持ちはいつまで続くでしょう?
それは神の恵みを受け、神の近くにいるときだけです。
神と別れてしまったら大変苦しむことになるはずです。
「私は神」の段階になれば苦しみの問題は全く起こりません。
高度な段階になれば、いつも神と一つなのですから、神と別れたり苦しんだりすることはありません。
「神の僕」の段階では、神と僕が別れてしまう事もあるが「私は神」の段階では悦びが途切れることはありません。
二つに分かれることは決して無いからです。SGc9

ポニョ:以前、ヴィジャヤ クマーリさんの話をした時に、ババが長い間ヴィジャヤさんを無視されていたよな。それで、ヴィジャヤさんはババを心から思い焦がれる詩を書かれて、それをババの前で泣きながら読まれた話が感動的やったぜよ。

ヨシオ:でも、その時のババのリアクションが興味深かったな。ババは、ずっと首を垂れながらその感動的な詩を聞かれていて、その場にいた人も全て胸を打たれて泣いているのに、ババは一言、君はこのような詩を書くんですか?と意外にもクールな感じで聞かれたな。

ポニョ:ババはそのような詩を期待されていなかったようやったな。

ヨシオ:ババがそのようなレベルに達した帰依者に期待されているのは、自分が愛そのものである神様だと気付いて欲しいんや。いつまで経っても子供のレベルに留まって、愛である神さんを求めて泣くのではなく、自分の人生を神聖化させ、自らの心の内におられる神さんを、神さんの愛を自分自身の生において、自分の生き様が神のメッセージとなるように神を顕現させて欲しいんや。

信仰の目的とは、自らのハートにおわす神を認識する事、そしてその神の光と力をあなたの身体を通じて顕現さすことです。
これが成し遂げられたなら、この世の全てのものに対して投げかけられている神の愛があなたのハートの中から溢れ出てくることでしょう。
そうなれば、あなたの目はあらゆるものの中に神を見、あなたの手は万人のために良いことだけをするために使われ、そしてその結果、あなた自身が神の化身そのものとなり、至福に満ち、永遠の法悦を味わうことでしょう。
この状態にあっては、帰依者と神との違いは消え失せてしまいます。
常に神を憶念し、神に全託することによって帰依者は神自身となります。
それゆえ、あなたが常に神を思うなら、あなたは神の似姿となるのです。
その時、永遠の歓喜と平安を味わうのは他でもなく、あなた自身なのです。PD42

ポニョ:つまり、一人ひとりが愛に満ちた神様のようになって欲しいって事やろ。人は光の子になるんやというか、光そのものになるんや。それって、難しいよな。誰でもなれるってもんやないから。

残念なことに、今日、あなたは数々の欲望のせいで、このような至福の神聖な性質を失っています。
もしこうした欲望を切り離すことができれば、あなたはつねに至福に満たされているでしょう。
たとえば、ここに白い布があります。
白さがこの布の本質です。
しかし、いつも使っていることにより、この布は汚れます。
同じように、あなたの心ハートもつねに純粋で、明るく、至福に満ちています。
しかし、心は欲望によって汚れます。
ですから、愛を培い、心をつねに純粋にしておきなさい。
そうすれば、あなたは人生のいかなる瞬間においても至福に満たされるでしょう。
しかし、あなたは、至福の内なる本質を忘れてしまい、つねに、悩みと不幸に浸っています。14/1/05

ヨシオ:その段階に至るまでに、人は神さんを恋い焦がれなければならないんや。星やんみたいに。神さんへの愛情を持っていなくて、いきなり神さんのようになれるなんて無理なんや。

ポニョ:おいらは昔から落語や、舞台もんが好きで見に行っていたけど、役者がお殿様の衣装を着て舞台に上がってお殿様のふりをしても、またその衣装を舞台裏で脱げば、お殿様からただの役者に戻るだけやもんな。

ポニョ:甘露の海に少し膝ぐらいまで浸っても、まだ神さんはこんなに甘くて優しいですよって、人に伝えることは出来るけど、浸りすぎて、口まで浸かったらもう話すことが出来なくなるもんな。お兄さん。幸せそうやね。どうしたの。何か言いたいんですか?口から泡吹いて癲癇ですか?ブクブク言うだけで、なにを言ってるかわからんぜよ。

ヨシオ:そんな霊的な段階にまで昇った人が、また俺たちのような人のレベルにまで降りて来れるのは、創造主である神の化身だけや。この世にいる聖者やグルはまだそこまで達していないので、人々に教えを垂れることが出来るんや。俺たちは神様に続く線路の途中の駅で下車して、みんなにこっちに来いよと言っているだけなんや。

ポニョ:お腹空いたから、駅弁買うで。ちょっと途中下車しよかと言っているようなもんやな。

ヨシオ:また胃袋を膨らます話か。ちょっと食べることを忘れられへんのか?

ポニョ:ババはマイライフ イズ マイ メッセージって言っておられるやろ。それと一緒や。

ヨシオ:どこが一緒やねん。

ポニョ:イーティング イズ マイ メッセージや。

ヨシオ:……。

ポニョ:おいら達のようにブログを立ち上げて、ピーチクパーチクうるさく世間を騒がしているおしゃべりさんは、まだまだ神から程遠いところにいるって証拠やもんな。おいらも、早く美味しい駅弁食べて無口な人になりたいな。

ヨシオ:なりたいなと思っている間はなれないんや。そういうものは自然になるんや。それに、どこの駅で菜食駅弁なんか売ってるんや。

ポニョ:そういや、ずっと昔豊橋駅の駅弁を食べようとしたらスズメの姿焼きが入っていてびっくらこいたぜよ。

ヨシオ:ポニョは、どっちでもええから早くなんか食べて来いや。お腹空いてるのんが丸分かりや。



話すことを少なくすればするほど、あなたの心の力は強くなります。
心の力が強くなるにつれて、識別心も強くなります。
その結果、あなたは個人的な(狭い)識別力を捨て、(すべてを網羅する)根本的識別力を頼りとするようになります。
それに伴い、あなたは自分個人の安寧よりも世界全体の善を考えるようになります。
あなた方学生は、若いうちからそのような広い感情を培わねばなりません。24/5/92
最初は、神は姿を持つものとして認識されます。次に、神のその御姿が至る所見られるようになります。それから神を無形のものとして認識することが出来るようになります。というのも、すべての形は永遠のものではないからです。
CWSSBJp113
お前の身体ではなく心を私の近くに持ってきなさい。ハエや蚊は私の身体の近くにいつもいるが、それらはモクシャに達せれるかね?p278ANDI
私はあなた方に告げます。神から逃げることは出来ない、と。
一切の生物は長い途を行くか、短い途を行くかの違いはあっても、いつの日か必ず神に到達せねばならないのです。
ヴィジャヤダサミの日1953
神を忘れるのは人間です。
神は決して信者から離れていることはありません。
信者が神から離れているだけです。
あなたは神があなたから離れていると思っています。
しかし全くそうではありません。
あなたは神を忘れ、神があなたを忘れたと宣言していますが、実はあなた自身の感情があなたに反映されているだけなのです。14/1/96

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