『青い目の人形-写真資料集 日米友情の人形交流の記録-』
武田英子・編著/山口書店1985年
平和を伝えるために、あるいは平和をつくりだすために……。
心の友である人形……。下「」引用。
「人形は人の姿を模した“おもちゃ”ではありますが、童心の世界では、幼い子どもたちの心の友であり親しい遊び相手です。
その人形にアメリカの少年少女たちの友情をこめて、日本の子どもたちに贈り、友好と親善の心を育て、将来への平和を根づかせたいと、空前の「人形計画」を立てたのは、世界児童親善会の人たちでした。
この時期、1920年代のアメリカでは日本人移民への排斥運動がひろがり、日系の人びとは苦難の中にありました。これを日米両国間の重大事として憂慮する人たちが、その好転を願って、「人形計画」をアメリカ各州に呼びかけました。これに協力した人びとは260万人。「友情の人形」1万2千体余を仕立て、メッセージを添えて送り出しました。
日本がわでは国際児童親善会が窓口となってこれを受け入れ、1927(昭2)年3月のひな祭の日に、東京で盛大な歓迎会を催しました。-略-」
友情の人形……。下「」引用。
「その日、1927(昭和2)年3月3日、東京神宮外苑の日本青年館には、2千人もの人びとが集まり、はなやかなひな祭風景が繰りひろげられていました。-略-貴賓席には渋沢栄一子爵(1840生-1931没)、幣原外相・岡田文相ほかの高官と、アメリカがわのマクベー大使、バランタイン総領事などの要人が並び、国家的セレモニーの威儀が満ちていました。-略-」
平和の使者・ギュリック博士。下「」引用。
「画期的な「人形計画」を考えたのは、シドニー・ルイス・ギュリック博士でし。「日米問題の解決は、声なき声によって神から命じられたもの」との使命感を抱く宗教者でした。1860(万延元)年に宣教師の家庭に生れ、ダートマス大学とユニオン神学校に学んだのち、宣教師として来日しました。熊本・大阪・市国などに在住し、20余日本で生活しました。日本語に堪能な長身の紳士でした。1906(明治39)年から7年間同志社大学の神学部教授として、宗教教育に大きく貢献し、多くの教え子たちに、深い影響を与えました。ギュリック博士は渋沢栄一翁を敬愛し交際を続けていました。-略-」
答礼人形を贈る。下「」引用。
「日本の子どもの絵画などの作品をおさめたアルバムや、高価でない贈り物を入れた「友情袋」などはどうかと、ギュリック博士はアイデアを提供していますが 、日本がわでは答礼人形を贈ることとし、短い日時に間に合わせるため、児童たちからの一銭醵金をもとに、人形製作を専門の職人たちに依頼し、「寧ろその数を少なくして巧緻典麗な人形」を作製することとしました。
国際児童親善会では、各道府県と植民地、六大都市の代表人形を作り、これに「ミス・ジャパン」を特製して58体の人形を作り、米国各州に人形各1体ずつを贈るプランを立てました。経費は当初「貮万六千九百九円」と見積もりました。-略-」
日本では「2 人形処分の嵐の中」
アメリカでは答礼人形は無事……。下「」引用。
「アメリカ人形の非運に涙した関屋さんは、答礼人形について、こう書いています。
「こんな日本の状況に対して、アメリカでは一体の日本人形も恥辱をうけていないことは、かのポトマック河畔のかつて日本から贈られたさくらの樹の枝一本も折られたことを聞かなかったと同様である」(『社会教育事始め』
答礼の使命を担ってアメリカへ渡った日本人形たちがはたして1体残らず健在かどうか、十分な調査は今後の課題ですが、それぞれの保存場所に納められ、美術館や博物館所蔵の「美術的な人形」として扱われていたことは事実です。アメリカの人形の研究家でニューヨーク在住の小林恵さんの追跡では、ハリケーンで失われたミシシッピー州ガルフポート公立図書館のミス・愛媛、水害で消えたケンタッキー州のルイスビル市スピード記念博物館のミス・富山の2体のほか、16体の答礼人形たちが無事であることが判明しています。その後、ミス・京都、ミス・名古屋の健在が確認されました。」
1973年NHK「人形使節メリー」放送。
宮川ひろが出演し、思い出を語ったという。
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1983年テレビドラマ「青い目をしたお人形は」放送。
高校用英語科副教材「リトルメリー」(1984年4月)出版。
「友情の人形とクエーカー教徒の婦人たち(ハイアット婦人提供)1926年」の写真あり。
それぞれ残った人形のモノクロ写真と、その人形に関する経過などが書かれてあります。
ネットでも、残った人形のことがいろいろ記事にされています。
北海道八雲町立八雲小学校
「友情人形サイト」について
全国の「友情人形」の輪をつくろう!
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もくじ
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武田英子・編著/山口書店1985年
平和を伝えるために、あるいは平和をつくりだすために……。
心の友である人形……。下「」引用。
「人形は人の姿を模した“おもちゃ”ではありますが、童心の世界では、幼い子どもたちの心の友であり親しい遊び相手です。
その人形にアメリカの少年少女たちの友情をこめて、日本の子どもたちに贈り、友好と親善の心を育て、将来への平和を根づかせたいと、空前の「人形計画」を立てたのは、世界児童親善会の人たちでした。
この時期、1920年代のアメリカでは日本人移民への排斥運動がひろがり、日系の人びとは苦難の中にありました。これを日米両国間の重大事として憂慮する人たちが、その好転を願って、「人形計画」をアメリカ各州に呼びかけました。これに協力した人びとは260万人。「友情の人形」1万2千体余を仕立て、メッセージを添えて送り出しました。
日本がわでは国際児童親善会が窓口となってこれを受け入れ、1927(昭2)年3月のひな祭の日に、東京で盛大な歓迎会を催しました。-略-」
友情の人形……。下「」引用。
「その日、1927(昭和2)年3月3日、東京神宮外苑の日本青年館には、2千人もの人びとが集まり、はなやかなひな祭風景が繰りひろげられていました。-略-貴賓席には渋沢栄一子爵(1840生-1931没)、幣原外相・岡田文相ほかの高官と、アメリカがわのマクベー大使、バランタイン総領事などの要人が並び、国家的セレモニーの威儀が満ちていました。-略-」
平和の使者・ギュリック博士。下「」引用。
「画期的な「人形計画」を考えたのは、シドニー・ルイス・ギュリック博士でし。「日米問題の解決は、声なき声によって神から命じられたもの」との使命感を抱く宗教者でした。1860(万延元)年に宣教師の家庭に生れ、ダートマス大学とユニオン神学校に学んだのち、宣教師として来日しました。熊本・大阪・市国などに在住し、20余日本で生活しました。日本語に堪能な長身の紳士でした。1906(明治39)年から7年間同志社大学の神学部教授として、宗教教育に大きく貢献し、多くの教え子たちに、深い影響を与えました。ギュリック博士は渋沢栄一翁を敬愛し交際を続けていました。-略-」
答礼人形を贈る。下「」引用。
「日本の子どもの絵画などの作品をおさめたアルバムや、高価でない贈り物を入れた「友情袋」などはどうかと、ギュリック博士はアイデアを提供していますが 、日本がわでは答礼人形を贈ることとし、短い日時に間に合わせるため、児童たちからの一銭醵金をもとに、人形製作を専門の職人たちに依頼し、「寧ろその数を少なくして巧緻典麗な人形」を作製することとしました。
国際児童親善会では、各道府県と植民地、六大都市の代表人形を作り、これに「ミス・ジャパン」を特製して58体の人形を作り、米国各州に人形各1体ずつを贈るプランを立てました。経費は当初「貮万六千九百九円」と見積もりました。-略-」
日本では「2 人形処分の嵐の中」
アメリカでは答礼人形は無事……。下「」引用。
「アメリカ人形の非運に涙した関屋さんは、答礼人形について、こう書いています。
「こんな日本の状況に対して、アメリカでは一体の日本人形も恥辱をうけていないことは、かのポトマック河畔のかつて日本から贈られたさくらの樹の枝一本も折られたことを聞かなかったと同様である」(『社会教育事始め』
答礼の使命を担ってアメリカへ渡った日本人形たちがはたして1体残らず健在かどうか、十分な調査は今後の課題ですが、それぞれの保存場所に納められ、美術館や博物館所蔵の「美術的な人形」として扱われていたことは事実です。アメリカの人形の研究家でニューヨーク在住の小林恵さんの追跡では、ハリケーンで失われたミシシッピー州ガルフポート公立図書館のミス・愛媛、水害で消えたケンタッキー州のルイスビル市スピード記念博物館のミス・富山の2体のほか、16体の答礼人形たちが無事であることが判明しています。その後、ミス・京都、ミス・名古屋の健在が確認されました。」
1973年NHK「人形使節メリー」放送。
宮川ひろが出演し、思い出を語ったという。
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1983年テレビドラマ「青い目をしたお人形は」放送。
高校用英語科副教材「リトルメリー」(1984年4月)出版。
「友情の人形とクエーカー教徒の婦人たち(ハイアット婦人提供)1926年」の写真あり。
それぞれ残った人形のモノクロ写真と、その人形に関する経過などが書かれてあります。
ネットでも、残った人形のことがいろいろ記事にされています。
北海道八雲町立八雲小学校
「友情人形サイト」について
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