磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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戦争と私-五十余人の体験記-

2008年11月07日 | 読書日記など
『戦争と私-五十余人の体験記-』
   徳田太郎・編著/府中(広島県)
      「戦争と私」出版委員会1997年、同年2版

原爆のことがよく書かれてありました。




人間も消耗品だった……。下「」引用。

「人類がもっとも恥すべぎ戦争という野蛮行為は、兵器、弾薬だけでなく人間をも大量に消耗したことを知らなければなりません。だから戦後大きな問題となった中国人の強制連行があったわけです。日本軍は南太平洋で一九四二年のガタルカナル島から、一九四五年の沖縄まで玉砕、全滅が続いています。その間兵員不足たのめ一九四三年には植民地朝鮮に徴兵令を布き、若い朝鮮人を戦場に送り込み、それでも足りないので学徒動員を行なって大学生を死地に送りました。」

しかし、消耗品ではない人たちもいた……。
--戦争は究極の差別……。

正露丸でもダメだったという……。下「」引用。

「やがて、今まで健康体で働いていた病院関係者の体調が悪化し、下痢する者が多くなり、正露丸を服用しても一向に止まらない。-略-」

弥山監視所。下「」引用。

「監視所は岩の上に立てられた小屋作りで、いざという時の防空壕はないから、敵機が来ると監視所の周囲をぐるぐる隠れるほかなかった。勿論小屋作りでも雑木や枝などで偽装してあった。
 食糧は司令部から山下の警察まで届けられた。-略-」

8月15日終戦、飛行機が……。下「」引用。

「その時である。二枚翼の飛行機が低空で市内から宮島あたりを旋回しながら、『日本は絶対に敗けない、最後まで戦え』と怒鳴っていた。」

海外では、中国人に救われたという人もいる……。下「」引用。

「敗戦直後から中国人の態度が急変した。日本人への報復的な集団リンチが始まった。有田も大勢に囲まれてリンチされかけたが、中国人の掃観に救われことがある。-略-」

また、日本人の墓を中国人が建立。下「」引用。

「十八年三月頃、浜田大佐の状況判断の甘さから、天宝山付近の戦闘で大敗した時、原田は参加しなかったが戦死したという戦友が気になり探し廻った。
 ところが何ともう遺体は片づけられ「忠勇日本兵の墓」と墓標か建てられ懇ろに葬ってあった。さすが儒教の国柄だと感心した原田は合掌したまましばし佇んでいた。」

世界に反核平和を訴える人。
--BBC放送で下江武介さんを紹介

艦体が割れて漂流した人の体験記。
「漂流7日間フカで命を継ぐ」下「」引用。

「-略-漂流6日目だっか、真鍮製のパイプで二米位のヤリを作った。フカ取りのためであった。三本か四本のヤリを打ち込むと、人間の倍ほどあるフカを仕留めた。海水で煮て全員で苦しくても食って命を継いだのだった。」

歩行不能者注射して戦死……。

「親元を離れ学童疎開」。

原爆投下当日……。下「」引用。

「夜中にトラック四台分に分乗して七、八十人が広島へ向かった。トマトや握り飯を食糧に準備して積み込むのもを忘れなかった。安芸府中町に入って神社で休息した。見ると旋盤などの機械類が、無造作に置いてある。多分東洋工業(マツダの前身)から運び出されたものであろう。
 まだ広島市街地の状況が見える時間帯ではなかったが、海軍将校がオートバイでさかんに走り回っているのが目立った。」

そして、入市被爆……。下「」引用。

「広島で死体の整理を一週間ばかりやった久保川は、75kgあった体重が41kgに減って、ふらふらと病人同様の姿で府中へ帰っている。原爆投下直後の放射線がどんなに反応が強かったは、久保川と一緒に行った人が被爆して死んでいることでもわかる。
 久保川も一カ月位で頭髪が抜ける、気力がなくなりふらふらするようになると、自分も死ぬんかと身の毛のよだつ思いに悩まされている。
 もちろん原爆症に特効薬はなかった。久保川はヤミでブドウ糖を買って打った。調子がよいらしいと続けると、確かに快調の兆しが見えた。久保川はブドウ糖をやったが、ぶどうも出来るだけ食った。お陰で現在の様な健康体になった。」














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