磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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被爆40年-核廃絶への祈り-

2008年11月07日 | 読書日記など
『被爆40年-核廃絶への祈り-』
   愛媛県原爆被害者の会新居浜支部1985年

やはり日常にはありえないことが書かれてあります。
--こんな状況にされないようにしなければ……。
戦争なんてされては、たまったものじゃありません!



「まえがき」に書かれてあります。下「」引用。

「昭和二十年八月、広島・長崎に原爆を投下されてから四十年が経ちました。
 原爆は閃光と共に広島・長崎の街を壊滅させ、その惨禍はかって地球上に例を見ないものでありました。約三十万人が殺され、生き残った人も、最も援護の必要だった昭和三十二年までの十二年間、何の援護政策もとられぬまま放置されました。このともあって、四十年の間に多くの人が死亡し、今なお四十万人の人たちが原爆地獄の責め苦を負いつつ生き続けています。
 わが国は昭和六年九月から十五年間(最初は中国を侵し十六年十二月から世界を相手に)戦争を続け、最後に沖縄を占領され、内地が戦場となる一歩手前で原爆によって無条件降伏しました。
 そして主権在民・人権尊重がうたわれ、女子に選挙権被選挙権が与えられ、その他多くの自由が保障されるなど、世界に誇り得る「不戦を誓った平和憲法」によって、新生日本国として生まれ変ったのです。
 今、戦前の耐乏生活と戦後の混乱期を省みるとき、現在は夢かと思えるほど豊かになりました。これは“戦時中の莫大な軍事費”が民生・教育・国土開発・産業復興などに振り向けられ、また種々の自由が保障されたので、国民が持っている英智と勤勉さを遺憾なく発揮出来た結果と言えるでしょう。-略-
 私達被爆者は「安全保障」のためであれ、戦争「抑止」の名目であれ、核兵器を認めることはできません。地球上の核兵器がすべて廃絶されるまで、このことを叫び続けます。
 戦後四十年、戦争体験もたない世代が人口の六○%を超えています。そういう中で被爆の実相と、その被害が私達被害者の苦しみとなっていることを、若い世代の人々に知ってもらいたいという思いにかられ、長い間、心に秘めていた被爆体験を、遺言の気持ちを含めて、記録としてまとめました。拙い文章ですがお読みいただけると幸いです。
   昭和六十年八月 愛媛県原爆被害者の会新居浜支部
     支部長 有光登一」


浮沈空母発言の中曽根総理の登場により、日本は軍事費が福祉を上回っていき、ひどい状況になりましたね……。

「少年院生の被爆」野口勇・著。下「」引用。

「昭和二十年八月六日朝八時頃、勤務先〔宇品の裁判所(現在の家庭裁判所)に併設されていた〕の少年院に出勤し、椅子に腰をかけると、突然西側のガラス窓が「ピカッ」と光った。-略-院生の一人が私の名前を知っていて「野口先生、水下さい。」と言うと、他の者まで全員「水下さい。」を連発し、その時の異様な状態は、可愛さが胸に詰まったが、今思い出すと戦慄を覚えるものだった。
 審判所での養生は二日ほどで、身上調査の上、帰宅療養可能者は帰宅させ、その他の者は宇品港から島の収容所に移送した。気の毒にも松本課長は重傷であったので、安佐郡古市町上安の自宅に臥し、約一カ月後に死去した。そして他の職員も次々に死去した。-略-」

入墨をした男……。下「」引用。

「四十五歳の男で入れズミを入れているが全身火傷の人が「兵隊さん水を下さい。」ととりすがり、大きな涙を落している。火傷に水は禁物であるが、死に水と思い水を一升ビンに入れ、親が子にあたえるように抱いて一升ビンを口にあたえると、ひふのない手でビンをはなさず、ビンの音がホーホーとでるほど水を吸い取ると「あーうまかった兵隊さん有り難うご座いました。」と言うやいなや、その人の黒赤くなった体の各部分に亀裂ができ、黄色い油じるがタラタラと流れ出る。「兵隊さん、ワシの子供は十七歳の男であるが、どこにいるのか心配だなー。兵隊さん、たのみます。」と言う。「おじさん、自分がさがしてあげる。」と言うと、「たのみます、たのみます」と言って死んでいった。背中いっぱいの龍の入れズミが淋しく見えていた。」

「原爆指定医療機関及び被爆者一般疾病医療機関」のリスト有り。








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