磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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われなお生きてあり

2008年10月07日 | 読書日記など
『われなお生きてあり』
   福田須磨子・著/筑摩書房1987年

--この本も有名です。
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「福田須磨子(ふくだ・すまこ)1922年、長崎市に生まれる。県立長崎高女卒。'45年8月被爆。父母と長姉を喪う。'55年発病、エリマトーデスと診断される。'68年「われなお生きてあり」を刊行、第9回田村俊子賞を受賞。'74年4月2日死去。'80年には「福田須磨子を偲ぶ会」が発足し、福田須磨子碑が長崎平和公園に建てられた。著書に詩集『ひとりごと』『烙印』生活記録『生きる』など。」



八月八日の父との会話。下「」引用。

「八月八日--その前日
 朝、学校に行く支度をして階下に降りると、父が沈痛な顔をしてふりむいた。
「須磨子、お前は新型爆弾ってどんげんとか(どんなのか)知っとるか」父の膝の上に新聞がのっている。
「知らんよ、それがどうしたとね」私は父の傍によって、新聞をのぞきこんだ。「六日、広島に新型爆弾使用か、損害甚大」大きな見出しが目の中にとびこんで来た。私は思わず息をのんだ。
「お父さん、これはよっぽどひどか爆弾ばいね、そうせんば(そうでないと)損害甚大なんて書くもんね、大阪でも東京でもジュウタン爆弾でメチャクチャにやられても損害軽微やっけんね」」

大学病院あたり……。下「」引用。

「山越しして来た人たちを見ると、私は思わず駆けよってり、大学病院下あたりの様子を聞く。そして、そのたびにがっかりする。大学病院一帯は火の海で、すぐ近くの穴弘法山や金比羅山は負傷者や避難民で埋まっていると言う。性こりもなく聞いては、同じ答えが得るだけであった。家の者が全滅したことを直感しながら、それでもやはり聞いてみる。そのたびにしょげる私に、先生や同僚たちは、私の家は穴弘法山に近いから逃げているよ、と慰め血からづけてくれるのだが、それもただ空しく聞こえるだけだ。それでいて死んだという実感も伴わない。そんな宙ぶらりんな奇妙な気持のまま、息を引き取る生徒の死体を、何の感動もなく運び出すことを続けた。」

クビにされたのに、笑ったという……。下「」引用。

「「福田さん、もう事務所には来ないでいい、とオヤジさんが言ったよ」彼女はそう言って封筒を出した。無断欠勤二日目の結果は、それまでの給料を渡されて、クビを切られてしまったのである。マーちゃんと延ちゃんは自分がクビになったような深刻な表情で私の顔を見た。私は人情もないこの仕打ちに腹が立ちそうなものなのに、あまりに簡単に片付けられて妙におかしくなり、他人ごとのように笑い出してしまった。二人は慰めていいのか、一緒に笑っていいのか困った顔をしていたが、私の笑い声にひきこまれてこれも笑い出してしまった。しまいには三人ともお腹の皮がよじけるほど涙をこぼして笑うのであった。二人のおかげで高い熱は下がったが、微熱が続いた。クビになったを幸いに、という訳ではないが体がだるいので一日中ごろごろ寝てばかりいた。」

異国を歩くようだったという……。下「」引用。

「「原子病! 原子病!」病院を出てから、ずっとその声が追いかけてくる。頭をふっても、耳をふさいでもその声は聞こえてくる。私は脂汗がにじむような恐怖に追い立てられ、わざと雑踏する道を選んで歩いた。すれ違う人はみな、私と同じ日本人なのに、まるで言葉の通じない異国を、たった一人でさまよっている錯覚におそわれた。」

「初版あとがき」に……。下「」引用。

「五年前に郷土作家の佐多稲子さんと短時間だがお話をしたことがある。その時広島の原爆についてはいろいろ文学作品も出ているけれども長崎ではそんな作品は殆ど見受けられない。それで佐多さんが原爆の問題を取り上げて何か書いて下さるなら、私の知っている限りのことや他の資料が要るなら、その資料を集めて手伝いますから、一つ書いて頂けないかとお願いしたら、火箸で灰をかきならしながらしばらく黙っておられた。そして静かな声で言われた。「福田さん、私が長崎出身の人間であるということだけで原爆の問題を取り上げるということは、おこがましい気がするのですよ」私は実のところがっかりした。すると「福田さん、被爆したあなたがたが書かずに誰に原爆の本当の恐ろしさが書けるでしょう、あなたがたこそ書けるはずです。福田さん、私はあなたが書いて下さるだろうと期待しています」と言われた。その言葉は千鈞の重みをもつて私の胸に落ちてきた。この時私は書く事を決心したのである。」

裏表紙の説明。下「」引用。

「「新しい年をむかえると、生きていると思い、八月九日には、なお生きていると感慨を新たにする」--長崎被爆直後の地獄図とそれにつづく苦闘の生活。女店員、ブローカー、女給などを転々、やがて原爆症の高熱におかされながら原水協世界大会に参加。原爆病院に入退院を繰返す昭和34年までの記録。解説 佐多稲子」

八八歳レイコの軌跡-原子野・図書館・エルダーホステル






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