『NHKスペシャル 旧ソ連 戦慄の核実験』
NHK(モスクワ・広島)取材班・著/
日本放送出版協会1994年
人工湖(原子の湖)というのは、わざわざ計画して核兵器をつかってつくったそうです……。もちろん、被害者は出た……。

取材目的地はパラチンスク核実験場。
核実験の記録映画をとっていたソ連。下「」引用。
「本部棟の二階奥には「映画写真部」の作業部屋が並んでいた。核爆発のキノコ雲の写真パネルが何十枚も掛かった長い廊下を進んで、一番奥にある特別試写室に案内された。」
--ソ連最初の原爆「RDS1号」の映画「第二演習場での実験(オプト ナ ポリゴニ N2)」を記者は見る。スターリンに見せるための白黒映画であるという。
--1949年8月29日、米ソの核競争がはじまった日。そして実験。下「」引用。
「爆心地の状況は凄惨だった。鉄橋は、橋桁から切断されるように、下に落ちていた。実験動物の犬は、心臓が衝撃波で引き裂かれ死んでいた。」
ソ連政府は一貫して、放射能汚染はないと……。下「」引用。
「ソ連政府と軍部は戦後、一貫して「核実験場周辺での放射能汚染が起きたことは過去一度もないし、被爆者はただの一人も存在しない」との立場をとり続けてきた。」
地元のアレクサンダー医師は記者に、村で出された物は食べるなと忠告。放射能汚染されているという……。
--「神経衰弱」という死亡診断書。
49年以後、毎年のように20人近い村人が癌で死亡。
死亡診断書には、「神経衰弱」の文字ばかりだという。下「」引用。
「役場の担当者に聞くと、この神経衰弱という病名こそが、がんや白血病など放射能障害による死亡を指すものだという。当時は“放射線”や“がん”は禁句で、そう記入するしかなかったのである。
ソ連崩壊後、死亡診断書に神経衰弱という病名が記されることはなくなった。「神経衰弱」の文字は消え、代わりに「がん」「白血病」の文字が一挙に増えた。」
「カイナール症候群」と呼ばれているという……。下「」引用。
「五三年以後、カイナール村ではエレオガゼさんのような原因不明の異変があちこちで見られるようになり、「カイナール症候群」と呼ばれた。エレオガゼさんとともに村に残った人たちも相次いで病に倒れ、驚くべきことに四十二人中四十人までががんか白血病で亡くなった。また、一人は病気を苦に自殺したという。」
ソ連にもアトミック・ソルジャーがいたという。下「」引用。
「私たちが見ることのできた、ソ連核実験に関する極秘映像の数々。その中でも、トーツク軍事演習の記録映画ほど鮮烈に心に焼きついたものはなかった。
トーツク軍事演習というのは、水爆実験成功のおよそ一年後の五四年九月に、中部ロシアで行われ、実際に原爆を使用した軍事演習である。
映画の中では、もうもうと立ち昇るキノコ雲めがけて大勢の兵士たちが突入していく。
勇壮な音楽が高鳴り、ナレーションが叫ぶ。
「核兵器を含め、あらゆる兵器を使って、名誉あるソ連軍の勝利を目指そう!」
トーツク軍事演習は、核の時代が、次なる段階に踏み込んだことを象徴する出来事だった。」
index
サハロフ博士は核実験のことを“人殺し”と……。下「」引用。
「サハロフ博士は、一メガトンの水爆による犠牲者は、この三千年の間に一万人に及ぶと推計している。自分たちの行っている核実験は将来の世代に対する人殺しではないか、サハロフ博士の心の中に核実験に対する最初の道徳的な疑問がきざした。」
計画的に作られた人口湖。下「」引用。
「実験の前年にあたる六四年、クルチャトフでは科学者たちが具体的な実験候補地の検討を重ねていた。将来、湖となり得るクレーターを作るには、水源となる河川が近くにあること、核爆弾を埋め込む縦穴の掘削が容易な地盤であることなどが必須条件とされた。これらの条件に適合した、B地区の東端のアシス川とチャガン川の合流点近くが実験場所に決まり、以後この計画は「チャガン人工湖」と呼ばれることとなった。」
通常、地下核実験は5~600メートル地下。
クレーターをつくるために、41メートルとした。
--大量の放射性物質が噴出したという。
ソ連でも反核の会があったという……。下「」引用。
「共著のチャゾフ医師は、八○年に『核兵器に反対する医師たちの会』の創設を参加しました。我々医学者は核戦争に勝者も敗者もないということを認識していたのです。」
index



NHK(モスクワ・広島)取材班・著/
日本放送出版協会1994年
人工湖(原子の湖)というのは、わざわざ計画して核兵器をつかってつくったそうです……。もちろん、被害者は出た……。

取材目的地はパラチンスク核実験場。
核実験の記録映画をとっていたソ連。下「」引用。
「本部棟の二階奥には「映画写真部」の作業部屋が並んでいた。核爆発のキノコ雲の写真パネルが何十枚も掛かった長い廊下を進んで、一番奥にある特別試写室に案内された。」
--ソ連最初の原爆「RDS1号」の映画「第二演習場での実験(オプト ナ ポリゴニ N2)」を記者は見る。スターリンに見せるための白黒映画であるという。
--1949年8月29日、米ソの核競争がはじまった日。そして実験。下「」引用。
「爆心地の状況は凄惨だった。鉄橋は、橋桁から切断されるように、下に落ちていた。実験動物の犬は、心臓が衝撃波で引き裂かれ死んでいた。」
ソ連政府は一貫して、放射能汚染はないと……。下「」引用。
「ソ連政府と軍部は戦後、一貫して「核実験場周辺での放射能汚染が起きたことは過去一度もないし、被爆者はただの一人も存在しない」との立場をとり続けてきた。」
地元のアレクサンダー医師は記者に、村で出された物は食べるなと忠告。放射能汚染されているという……。
--「神経衰弱」という死亡診断書。
49年以後、毎年のように20人近い村人が癌で死亡。
死亡診断書には、「神経衰弱」の文字ばかりだという。下「」引用。
「役場の担当者に聞くと、この神経衰弱という病名こそが、がんや白血病など放射能障害による死亡を指すものだという。当時は“放射線”や“がん”は禁句で、そう記入するしかなかったのである。
ソ連崩壊後、死亡診断書に神経衰弱という病名が記されることはなくなった。「神経衰弱」の文字は消え、代わりに「がん」「白血病」の文字が一挙に増えた。」
「カイナール症候群」と呼ばれているという……。下「」引用。
「五三年以後、カイナール村ではエレオガゼさんのような原因不明の異変があちこちで見られるようになり、「カイナール症候群」と呼ばれた。エレオガゼさんとともに村に残った人たちも相次いで病に倒れ、驚くべきことに四十二人中四十人までががんか白血病で亡くなった。また、一人は病気を苦に自殺したという。」
ソ連にもアトミック・ソルジャーがいたという。下「」引用。
「私たちが見ることのできた、ソ連核実験に関する極秘映像の数々。その中でも、トーツク軍事演習の記録映画ほど鮮烈に心に焼きついたものはなかった。
トーツク軍事演習というのは、水爆実験成功のおよそ一年後の五四年九月に、中部ロシアで行われ、実際に原爆を使用した軍事演習である。
映画の中では、もうもうと立ち昇るキノコ雲めがけて大勢の兵士たちが突入していく。
勇壮な音楽が高鳴り、ナレーションが叫ぶ。
「核兵器を含め、あらゆる兵器を使って、名誉あるソ連軍の勝利を目指そう!」
トーツク軍事演習は、核の時代が、次なる段階に踏み込んだことを象徴する出来事だった。」

サハロフ博士は核実験のことを“人殺し”と……。下「」引用。
「サハロフ博士は、一メガトンの水爆による犠牲者は、この三千年の間に一万人に及ぶと推計している。自分たちの行っている核実験は将来の世代に対する人殺しではないか、サハロフ博士の心の中に核実験に対する最初の道徳的な疑問がきざした。」
計画的に作られた人口湖。下「」引用。
「実験の前年にあたる六四年、クルチャトフでは科学者たちが具体的な実験候補地の検討を重ねていた。将来、湖となり得るクレーターを作るには、水源となる河川が近くにあること、核爆弾を埋め込む縦穴の掘削が容易な地盤であることなどが必須条件とされた。これらの条件に適合した、B地区の東端のアシス川とチャガン川の合流点近くが実験場所に決まり、以後この計画は「チャガン人工湖」と呼ばれることとなった。」
通常、地下核実験は5~600メートル地下。
クレーターをつくるために、41メートルとした。
--大量の放射性物質が噴出したという。
ソ連でも反核の会があったという……。下「」引用。
「共著のチャゾフ医師は、八○年に『核兵器に反対する医師たちの会』の創設を参加しました。我々医学者は核戦争に勝者も敗者もないということを認識していたのです。」



