『行李の中から出てきた原爆の詩』
広島文学資料保全の会・編/峠三吉・著/暮しの手帖社1990年
峠三吉が集めておいた子供たちの原爆の詩。それが行李の中から発見されたという。
好村冨士彦さんは、峠三吉の思い出を書く。下「」引用。
「峠はメモ魔といってよいほど、彼の仕事の計画、過程、目標、手はずなどを克明にメモしていた。この本の編集のさいでも同様てあって、私たちは、彼の残したおびただしいメモによって、この仕事がどのように進行したかを、かなり具体的にたどることができた。」
1986年11月、峠三吉と親しかった広島女子大学学長(当時)の今堀誠二氏のと、峠三吉記念事業委員会の田辺昭太郎などが集まって、「広島の文学資料保全をすすめる会」の組織をつくりはじめる。
--この会は「広島文学資料保全の会」と改称。
そして、峠三吉の資料を整理。下「」引用。
「そしてこれらの資料と共にひとまとめになって小学校児童などの詩草稿四三○篇が発見された。-略-これは『原子雲の下より』の未収録原稿だろうと判断した。青木文庫掲載作品一二四篇の原稿もほとんどすべてが同時に見つかった。もちろんこれらが応募原稿のすべてではなく、これ以外に八○○篇ほどのものがどこかに残されているはずであるが、その行方は分からないままである。」
そして『暮らしの手帖』に掲載されという。下「」引用。
「一昨年、暮らしの手帖社はこの未発表作品の存在を知って、これらの作品の資料的価値を重視し、その一部分でも『暮らしの手帖』誌に発表したいと申し入れてきた。私たちはこれらの作品を何らかの形で早く公表することを願っていたので、この申し出に応じて掲載に協力した。同社はこれらの作品のうち二十八篇を選んで、「行李の中から出てきた原爆の詩」として、『暮らしの手帖』十五号(一九八八年八・九月号)に発表した。」
この会はボランティア活動で支えられているので、大変だったという……。
「暮らしの手帖」の大橋鎭子さんの文。下「」引用。
「一九八八年の七月二五日に発行した「暮らしの手帖」第15号の「編集者の手帖」に、私たちはこう書きました。
三月の末、大阪で見た新聞に「原爆の子の詩がみつかる」という小さな記事がのっていました。戦争が終わって四十年もたっているのに、まあ、と思い、もし、その詩を暮らしの手帖にのせられたらと、心から思いました。
連絡の末、〈広島文学資料保全の会〉から、おゆるしがあって、広島に伺い、その一枚一枚を見せていただきました。
紙のない時代です。茶色く変色したワラ半紙、ザラ紙の原稿用紙、粗末な広告のウラ。一枚に裏にも表にもかかれています。-略-」
そして、この本へとつながったという。下「」引用。
「この暮らしの手帖15号に掲載した二十七編の詩に、あらたに四十一篇の詩、四篇の作文、峠三吉の長文の詩を加えた「行李の中から出てきた原爆の詩」を発行するにあたって、私たちは初めてこの詩に接したときの感動を、もう一度思いかえします。原爆の子たちのこの痛切な訴えを、ぜひ一人でも多くの方に読んでいただいて、つぎの世代に語り伝えるための一冊としていただきたいと思います。-略-」
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もくじ
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広島文学資料保全の会・編/峠三吉・著/暮しの手帖社1990年
峠三吉が集めておいた子供たちの原爆の詩。それが行李の中から発見されたという。
好村冨士彦さんは、峠三吉の思い出を書く。下「」引用。
「峠はメモ魔といってよいほど、彼の仕事の計画、過程、目標、手はずなどを克明にメモしていた。この本の編集のさいでも同様てあって、私たちは、彼の残したおびただしいメモによって、この仕事がどのように進行したかを、かなり具体的にたどることができた。」
1986年11月、峠三吉と親しかった広島女子大学学長(当時)の今堀誠二氏のと、峠三吉記念事業委員会の田辺昭太郎などが集まって、「広島の文学資料保全をすすめる会」の組織をつくりはじめる。
--この会は「広島文学資料保全の会」と改称。
そして、峠三吉の資料を整理。下「」引用。
「そしてこれらの資料と共にひとまとめになって小学校児童などの詩草稿四三○篇が発見された。-略-これは『原子雲の下より』の未収録原稿だろうと判断した。青木文庫掲載作品一二四篇の原稿もほとんどすべてが同時に見つかった。もちろんこれらが応募原稿のすべてではなく、これ以外に八○○篇ほどのものがどこかに残されているはずであるが、その行方は分からないままである。」
そして『暮らしの手帖』に掲載されという。下「」引用。
「一昨年、暮らしの手帖社はこの未発表作品の存在を知って、これらの作品の資料的価値を重視し、その一部分でも『暮らしの手帖』誌に発表したいと申し入れてきた。私たちはこれらの作品を何らかの形で早く公表することを願っていたので、この申し出に応じて掲載に協力した。同社はこれらの作品のうち二十八篇を選んで、「行李の中から出てきた原爆の詩」として、『暮らしの手帖』十五号(一九八八年八・九月号)に発表した。」
この会はボランティア活動で支えられているので、大変だったという……。
「暮らしの手帖」の大橋鎭子さんの文。下「」引用。
「一九八八年の七月二五日に発行した「暮らしの手帖」第15号の「編集者の手帖」に、私たちはこう書きました。
三月の末、大阪で見た新聞に「原爆の子の詩がみつかる」という小さな記事がのっていました。戦争が終わって四十年もたっているのに、まあ、と思い、もし、その詩を暮らしの手帖にのせられたらと、心から思いました。
連絡の末、〈広島文学資料保全の会〉から、おゆるしがあって、広島に伺い、その一枚一枚を見せていただきました。
紙のない時代です。茶色く変色したワラ半紙、ザラ紙の原稿用紙、粗末な広告のウラ。一枚に裏にも表にもかかれています。-略-」
そして、この本へとつながったという。下「」引用。
「この暮らしの手帖15号に掲載した二十七編の詩に、あらたに四十一篇の詩、四篇の作文、峠三吉の長文の詩を加えた「行李の中から出てきた原爆の詩」を発行するにあたって、私たちは初めてこの詩に接したときの感動を、もう一度思いかえします。原爆の子たちのこの痛切な訴えを、ぜひ一人でも多くの方に読んでいただいて、つぎの世代に語り伝えるための一冊としていただきたいと思います。-略-」
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