磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

【ニュース】毎日が勲章に値する生活 イラクからの帰還米兵

2008年03月28日 | 読書日記など
NHK BS1 2008年3月21日

毎日が勲章に値する生活
イラクからの帰還米兵
リハビリ生活と闘い!?


戦争というものは、人殺しをしたり、命を落としたり、傷をおったり……。

そして、その後も苦しい生活をしいられる人たちもいます。

アメリカでは安っぽい演芸のような大統領戦が行われていますが、このような人たちのことは取り上げているのをボクは聴いたことがありません。


--ニュースでは、大変なリハビリをしている米兵のことを取り上げていました。

兵士の妻は「復員軍人に対する不十分な対応はなかなか改まりません」と話しておられました。

再び歩けないと思っていたマイケルは、歩けるようになったという。

--トランポリンで遊ぶマイケル。

ビル・グラスさんも熱心にリハビリ。
--今は希望をもっているという。

家族も当時は大変なショックだったようです。

しかし、なかなか回復しない人もいるという。
--だけど、徐々にだけど、足が動かせるようになったという。
母はとても喜んでいる……。

兵士は毎日、勲章にあたいする生活を送っているという。

■補償をもとめる闘いもしているという■
・内臓や脳の一部を摘出したという。
・一生戦い続けなくてはなりません。
ひどいわ。補償を求めて戦い続けるなんて……。と母。

兵士が教えてくれたこと。
「決してあきらめるな!」


ボクはアトミック・ソルジャーのスミザーマンを思い出した。

ヒロシマを生きのびて 被爆医師の戦後史


「戦争は究極の差別」
--そして、都合の悪いところ見つめようとしない人たち。
闇教育のエリートたち。シニシズムで倫理観も、ゲームとしか思っていない人たち……。
--そんな人たちに世界を任せれば、大変なことになると思います……。








もくじ







エンタメ@BlogRanking

原爆前後XXXVI

2008年03月28日 | 読書日記など
『原爆前後XXXVI』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1977年

今回は、キノコ雲についてが印象に残りました。



「あとがき」で白井さんは書かれています。下「」引用。

「なお、本巻には荒木豊作氏の原爆炸裂の初期の珍しい観察記録を収録することが出来た。同氏がこういう観察をされたというのは、お若いころ長船の造機設計に勤務されて多くの艦船の試運転の諸計測になれておられたこと、特に砲兵中尉として中支戦線で、砲弾の着弾観測に経験をつまれたためと僕は思っている。この観察は珍しいものなので、同氏から頂いたスケッチも本書に掲載することにした。-略-
 なお、原爆初期の朝顔型の雲は重工の古賀繁一氏も見ておられるが、それは一個で、すでにその軸は地上に届いている時期のものである。そして、朝顔の花辨の部はピンク色、地上に届いている軸は白色、この軸部は地上近くで逆朝顔形に広がっており、その部分は黒色に見えたという。荒木氏の観察は、古賀氏より少し前の状態のものと思えるが、はたして、そう考えてよいのか、もっともっと資料を集めたい。」

「原爆炸裂の瞬間」で荒木豊作は書かれています。下「」引用。

「北の空をジッと見ていたのだが、思わず「奇麗だなぁ」と感じたほどの次々に拡がる炸裂の煙と姿と色に見入ったのである。
 それは薄い赤紫の平ぺったい朝顔型の輪っぱが一つ先ず下の方に出来、それに続いて、その上に更に大きな朝顔型が一つ、更にもっと大きい三つ目が新しい輪っぱがその上にパッパッと出来てゆき、その一つ一つの輪っぱが広がりながら、一番上の一番大きな朝顔の頂上が、いわゆるキノコ雲上にもくもくと湧き立ち、渦まき立ち昇る光景は、まさに驚歎に値する不思議なものであった。思い出すままに、次々と変化していった光景をスケッチしてみると別図のようになる。」



鈴木内閣については、一部の新聞で、これが終戦内閣になるだろうと匂わしていたという。

8月11日の紙面。下「」引用。

「さらに悪いことには、同じ日の同じ紙面に、参謀本部軍務局の本土決戦派が阿南陸相に無断で出したという例の「全軍将兵に告ぐ」(この全文は31/145に引用してある)という徹底抗戦の軍命令が、前の声明文と並んで掲載されてあった。だから、この日の紙面からは、戦争は当分続くと思われた。」

長崎では14日にはもう終戦はウソだと触れまわっている者たちがいたという。下「」引用。

「それに、さきも言ったように長崎の場合は、十四日に憲兵隊その他が、終戦はウソだと街中に触れ廻っていたというのだから(5/106)、これを聞いた市民には、十五日正午のラジオが終戦を告げるものと予告されていたようなものだった。だから、あの不明瞭なラジオが何であったかが解かったのだろう。さらに、この憲兵隊などの終戦否定の宣伝は十五日、十六日の両日にも行われたので(31/94)、十五日の正午の放送を聞いて意味が解らなかった人々も、あれは終戦の知らせだったのか、と知ったわけだ。」

たぶん、テレビドラマのようにすんなり、終戦だと思った人ばかりではないとボクも思います。

小野田さんや、横井さんのような人たちもいたくらいですから……。

「あとがき」で。下「」引用。

「この巻の長鋼の方々の手記は、三菱製鋼が原爆三十年記念として発行された「原爆の思い出」に掲載されたものである。」









index

index

目 次





エンタメ@BlogRanking

原爆前後XXXV

2008年03月28日 | 読書日記など
『原爆前後XXXV』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1976年

「メモ10・原爆の薬」というのが、印象に残りました……。



横浜から広島工場へ転勤した人の文がありました。下「」引用。

「行けども行けどもネギ畑ばかりで工場らしい煙突も見えず不安であったが、二十分か二十五分も歩いたかと思う頃、ネギ畑の尽きるあたりに小さな神社が見え、その向う側に寮らしい木造二階建ての建物とバラック式の住宅の並んでいるのが目についた。やがて右側に公園かグランドのような空地があり、更に進むと漸く正門についた。新しい広島機械製作所という標札が出ている。正門の先は広い中央道路が作られ、その先は霞むぐらい遠くまで続いていた。道路の左半分は埋め立てられ、正門に近いところでは工場建設の鉄骨が組み立てられていた。右半分は正門前を除いてまだ海であった。」

「ドクダミ」が効いたという。下「」引用。

「宇品の先にある似の島には二、三千名の人が連れてゆかれた。そこで「ドクダミ」を煎じた薬を多量飲まされた人々には助かった人が多かったという。」

医大で医学生の教材になったという著者。下「」引用。

「それが済むと、患者には何の挨拶もなく、僕は病室に帰された。そして担当の医師からも何の説明はなかった。出血は自然に止まった。大学には薬と学用患者も少なくなっていたが、医師の頭には、患者の気持に対する配慮も無くなっていた。」

渡辺千恵子は往診してくれた医師のことを書き残している……。

柿の葉が効いたと九大医学部沢田教授。下「」引用。

「八月二十九日から一カ月近く原爆かんじゃの治療と調査にやって来た九大医学部沢田教授らの医療班は、「柿の葉をすりつぶして飲むといよい」と発表した。これは同医療班が研究したというよりも、実際に柿の葉を飲んだ人たちの経過がよいのを見て驚き、公に発表することになったものである。柿の葉の治療法は原爆患者たちが、本能的に自らの生命を守った生活の知恵だった。」

長崎医科大学の付属病院の永井。下「」引用。

「原爆直後、三山(みつやま)救護班を組織した永井隆博士は、ビタミンBとブドウ糖注射のほか、自家血液刺激法といって患者の血液を二ccとり、そのまま臀筋肉に注射たちら死ぬ人がすくなかった。また鉱泉を暖めて罨法(あんぽう)するように指導したり、生野菜や動物の肝臓を食べるようすすめたりした--著書『長崎の鐘』に書いている。」

長崎の鐘 【長崎の鐘】ふろく付き

また、その永井の下で働いていたことがある秋月。下「」引用。

「『長崎原爆記』の著者秋月辰一郎博士は、食塩ナトリウムイオンが造血細胞に賦活(ふかつ)力を与えることを考案、秋月式栄養学として塩水を飲むこと、玄米飯に塩をつけて握る、からい濃いのみ汁を飲むことをすすめ、みずからも実行、よい効果をあげた。」

保健婦さんは「アロエ」が効いたという。下「」引用。

「藤本さんは福田村役場の保健婦だった。自宅は長崎市山里町にあったが、原爆から一週間、家にも帰らず不眠不休で患者の治療に献身した。同村手熊や小江原には長崎市域山町方面から逃げてきた患者があふれた。無医村地区だったため、看護婦の資格を持つ藤本さんがかけずり回って手当をした。火傷、傷の薬が不足したので「アロエ」と呼ばれる食物を患部に塗ったり、飲ませたりした。患者たちは黄色いものを吐きながら毎日死んでいったが、「アロエ」療法を施した患者は経過がよかった。「せっぱつまった知恵だったのでしょう」と藤本さんはいうが、「アロエ」療法は、当時あちこちで広く用いられたようである。」

松野秀雄さんは、永井博士にお酒を贈ったという。下「」引用。

「原爆患者に酒がよかったという話もかなり伝えられている。私は昭和二十三年はじめ頃、永井博士からその話を聞いた。「なかなか手にはいらないので」といわれたので、その後、如己堂を訪問するたびに、酒好きの先生のため特配の酒を入手して持って行ったことを覚えている。」

Index

■火傷にしても、実にいろいろなものが使われたという。
--ヒマシ油、種油、椰子の油、ゴマ油、ジャガイモ、イカとスルメ、卵の油、肝油、進水用のヘット、機械油まで用いられたという。
--調合したものとしては、椿の油で練った石灰、亜鉛華と胡麻油を混合したものなど。亜鉛華軟膏という家庭薬も用いられたという。

■傷には。
赤チン、沃度チンキ、ヨートボルム、水銀軟膏、オキシフル、当時の新薬サルゾール。傷薬として、馬の油、アロエ、胡瓜やカボチャの汁。










index

index

目 次





エンタメ@BlogRanking

原爆前後XXXIV

2008年03月28日 | 読書日記など
『原爆前後XXXIV』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1976年

「神風が吹いてくれる」といった政治家、「神の国」といった政治家。そんな人物が権力を握っていたら、困ったことになる……。神ではなく、職務に忠実であっていただきたいものです……。



ニッケルは昭和18年にもう手に入らなかったという。下「」引用。

「戦況我に利あらず、南方よりの輸送が杜絶したため、内地のニッケル源も底をつくにいたりました。そのため陸軍当局より十八年の秋頃、ニッケルを大量に配合する戦車用防弾鋼鈑の発注は十八年度をもって打ち切るという内命が出た模様で、会社としては十九年三月末をもって、この防鋼弾鈑のの製造を中止し、製鈑課も一旦解散、戦局好転の暁は朝鮮に於いて再開するということになりました。」

職域軍人会と、三十六時間勤務。下「」引用。

「特に仕事がきつくなったのは終戦の年の六、七月からのことと記憶しています。それよりさき、四月の末には職域在郷軍人会が結成され、それからは職員は規則を重んじ、何事も卒先垂範せねばならなぬということで、職員にも当直週番制も実施し、特に夜間の空襲に備えて、二十四時間勤務から三十六時間勤務というのは、朝七時に会社に出勤して翌日の午後七時まで勤務するのです。会社での食事は、殆ど米粒の見えない弁当で、夜は椅子を並べてその上に寝るとか、または机の上の仮眠でした。つまり、殆ど職場から離れぬ日がつづいたのですから、七月に入ってからは疲労に暑さが重なり躰が続かず、職員の欠勤も多くなり、従って当直も減るようになりました。」

これで亡くなられたこともあるのではないでしょうか?

今の過労死よりもひどいと思います……。

軍人は被爆しても優遇された……。下「」引用。

「やがて、海軍の兵隊が来ましたので、水を求めましたところ
「地方人より兵隊が先だ」
と叱られ、彼等はさっきの兵隊に水筒の水を飲ましていきました。私はただ、それを見送るだけです。太陽の光は、とてつもなく強く、耐えがたい暑さです。」

駄菓子屋があったそうです。下「」引用。

「十九日か二十日ごろでしたが、第三工場の前で駄菓子を売っておられた佐々木のおばさんが、御主人と一緒に私を訪ねてきて下さいました。
 このおばあさんの御主人は造船所の製缶工でお子さんがなく、御本人は「メガネばあさん」の愛称で皆に親しまれていた方です。」

「戦艦武蔵長崎湾に浮ぶ」を梶原正夫(元海軍監督官)が書かれています。

「メモ9・火事こぼれ話」白井秀雄・著が掲載されています。

東条と神風。下「」引用。

「また、東条英機が組閣したというところでは、同首相が議会で戦局の行方を質問されたとき、「神風が吹いてくれる」と答弁したという当時の新聞記事を思い出す。」

寝ぼけた政治家のせいで、多くの人の尊い生命が失われたとボクは思います。

長崎のお医者さんはオートバイに乗っていたそうです。下「」引用。

「当時、長崎のお医者さんがよく使っていた赤い色のインディアンというオートバイの新車は新品が千五百円だったと記憶している。これは大卒の初任給の二十カ月分にあたる。」

しかし、永井隆博士や秋月さんは書かれていませんね……。

今じゃ、プラモも1500円じゃかえません。2800円とか……。
--インディアンモーターサイクル ロードマスター








index

index

目 次





エンタメ@BlogRanking

原爆前後XXXIII

2008年03月28日 | 読書日記など
『原爆前後XXXIII』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1976年

おもに一人の人が書かれています。そのことについて。下「」引用。

「あとがき
 第十四巻のあとがきに百五十枚の原稿を下さったら、その方のために一冊提供してもよいと書いておいたが、この卅三巻でこの僕の提案が実現した。もっとも近頃は巻末に僕のメモを掲載することにしているので百枚ぐらいの原稿を下されば一巻になる。事実、-略-」



友人の紹介で、電気部ではなかったが、造船に入る著者。下「」引用。

「しかも日本一、いや東洋一の帝国海軍の工場で働けるなんてバチが当たるぞ! などと私は有頂天になってしまった。」

電気の勉強をしてきたので、造船屋はやめようとしたが、貴重な存在といわれて留まったという。

カトリック教徒に。下「」引用。

「勿論当時は、カトリックなどという外国語は忌避されていたので、どこでも大てい天主公教会という看板がかけられていた。今もそうだが、当時も呉教会は、イエズス会というドイツの宣教会が布教する広島教区に属しており、ネーベルという一人のドイツ人神父さんがおられた。」

そして、監視されることとなる。下「」引用。

「だが、こんな不愉快な監視や尾行も、考えようによっては、泥棒やスリよけになるガードマンをタダで雇っているのと同じだ、と後で笑い合ったものだった。」

ノイローゼとなり、呉の工場を辞めたという。辞めるにも大変だったようだ……。

そして、長崎へ。空襲を受けたという。下「」引用。

「私たちはいつも部長室の床下に掘ってあった簡易防空壕に入ったり入らなかったりであった。
 ところが或る日、すぐそこで肝をつぶす爆発音がしたのである。腰を抜かさんばかりにしてその床下の穴に飛びこんだが、その一発だけでそのあとは物音一つしなかった。急に外がさわがしくなったので出てみると、第一船台の一番山手のクレーンの運転台が燃えていた。
 それから何日もしない、警報も出ていない時、船台を歩いていると、何の前ぶれもなくいきなりガンガンガンッと機銃掃射を浴びせられ、ぶったまげて逃げ帰ったことがあった。エンジンを止め急降下してやってきのだ。今までなめてきたわれわれが、いよいよなめられはじめたのである。」

そして長崎原爆。妻の死。下「」引用。

「普通なら司祭に告白し終油の秘蹟によって許されるが、それが出来ない場合には心から罪を悔み神の憐みに頼るしかない。そして、今はその場なのだ。
 私は、妻の耳元でその祈りを唱え、聖母マリアにその取次ぎを願った。マリア様への祈りは、「めでたし聖籠充ちみてるマリア……罪人のために今も臨終の時も祈り給え」というのである。妻は、私と共にその祈りを最後の一息までくりかえし安らかにその魂を神にゆだねた。八月二十三日、午前十一時十一分、あの一瞬から丁度十四日と九分後のことであった。
 丘の上の小屋で父と兄そして私にお礼とお別れの言葉を述べたあと、どうかこのまま埋めてくれるようにと言いのこした。すぐ目の下の畑で母をはじめ近所の多くの人びとを焼く悲しい光景に耐え難かったからである。次女操子のときもそうであったが、ありあわせの着物にくるんだ妻の顔に、土をかぶせるときの非情な気持は、今だに鉛のように重い記憶となって残っている。」

--会社に行くと、白人や黒人の米兵がいたという。
制止された先をみると、ドックには潜水艦があったという。

「メモ8・熱気と爆風」白井秀雄・著。








index

index

目 次





エンタメ@BlogRanking