磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

被爆記者の証言 太陽が落ちる

2007年09月25日 | 読書日記など
『被爆記者の証言 太陽が落ちる』
    松野秀雄・著/長崎の証言刊行委員会1973年

この本の特徴は、被爆された記者が、当時のことだけでなく、当事者のところで取材し、検証されてきたことを書かれていることだと思います。



松尾哲男(長崎県立美術博物館長)が永井博士のことを書いています。下「」引用。

「忘れようとして忘れがたい記憶。どこへ向けてよいか判らぬ憤懣。そこに一役買ったのが例の永井博士であった。博士に人気が沸騰したのは、著者のためでもなく流行歌のせいでもない。押さえがたい悶々を、甘美な涙でやさしく慰撫してくれた功徳による、と私は思っている。俳人や歌人らが、原爆忌という新季語をこさえて、あの悲惨な事実を風流三昧の中に美化してかかったのもその頃のことで、考えてみると、これまた切ない市民感情の一面であったといえよう。」

当時、生きておられた方の感想です。

このような思いを伝えることも、大切なのではないでしょうか?

そして、長崎市民が平常に復するのに四半世紀を要したという。
それも原爆の威力といっていいと思えます……。
また、福祉や医療なども、やはり充分ではなかったともいえるかと思います。


3.5キロ離れた県庁も時間がたってから出火。
--吹き飛んできたドアが当たって片目失明した人も……。

精神障害者、アサイチの被爆死も書かれてありました。

--焼失した長崎駅。
昭和48年8月9日、国鉄職員の慰霊碑建立され、現地で除幕式。
長崎原爆による国鉄関係の犠牲者は138人。

永井隆博士のことが書かれてありました。

当時、長崎唯一の国宝福済寺が延焼。
--長崎市筑後町(当時は下筑後町、爆心から二・七キロ)。

「血盟団」の汚職についても書かれてありました。
戦中、国民は飢えていたというのに、料亭で飲み食いして楽しまれた役人たちの事件です。

--長崎刑務所浦上支所は、爆心から150メートルの高台にあったため、建物は跡形もなく破壊。
職員18人、収容者81人、隣接の官舎に住んでいた職員の家族35人死亡。
……収容者のなかに33人の中国人。彼らはいわば二重、三重の受難者。

奇形作物についても書かれてありました。











Index

Index

目 次





エンタメ@BlogRanking


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。