磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

帝国主義日本にNOと言った軍人水野広徳

2008年03月09日 | 読書日記など
『帝国主義日本にNOと言った軍人水野広徳』
   大内信也・著/雄山閣1997年

先日テレビでやっていた水野広徳のことを知りたくて手にした本です。

軍服を脱いだジャーナリスト 水野広徳




人間的な人だったようです。下「」引用。

「これは、これまで三科目以外は徹底的にサボリ続けた水野にとって〈青天の霹靂(へきれき)〉致命的打撃であった。あわてて松山中学に再入学し二七年八月再度受験したが「痔」で不合格。」

1898年、西郷従道海相のころ、海軍大拡張時代の幕開け。
--水野は追加募集で合格。

日露戦争のみが、水野の実戦経験。下「」引用。

「翌一九○四(明治三七)年二月始まった「日露戦争」には海軍大尉第四十一号水雷艇長として従軍した。水野が現役軍人として実践に参加したのは、日露戦争だけ。水野の「戦争論」「国防論」の原点は日露戦争にある。」

当時のベストセラーと、その背景。下「」引用。

「日露戦争をテーマにした著作は『此一戦』『戦影』の二冊。日露戦争では、海軍は従軍記者を認めなかったため政府の公式記録以外で日露戦争実戦記は少なく『此一戦』は、闊達な描写と流麗な文章によって超ベストセラーとなり〈洛陽の紙価〉を高めた。
 水野は日露戦後明治三九年、軍令部出仕を命ぜられ『明治三十七、三十八海戦史』(日露海戦の公式記録)の編纂にあたった。水野自身の年譜によると、当局から旅順口閉塞隊の報告を命ぜられ提出したが、締切り後で、新聞にまわされ全国の新聞にのせられことで名文家として名がしられ、軍令部出仕のキッカケになったという。『此一戦』の執筆は、公私混同の批判をさけるため帰宅後、深夜にかけて出筆した。」

国民とともにある「軍国主義」下「」引用。

「水野の「軍国主義」は国民のために、国民とともにある「軍国主義」で、彼の海兵時代回顧にある、「海兵生活で生きた世の中を全く忘れ」卒業の喜びを「腹一杯飯が食える事、動物の檻から放たれ身体の自由を得た事」と言う感性は生涯変わることはなかった。」

今の小泉元総理などは、国民とともにはないと思う。
--彼らの金儲けのためのものであると思う。

index


日露戦争により、企業、国民は重税にあえいだという。
--今も、福祉よりも、国防費の方が高い国である。
こんな国を福祉国家とは呼べないとボクは思う。

「赤旗」とテロについて書かれてありました。下「」引用。

「また『赤旗』が創刊され、第一次共産党事件が発生し、天皇、皇室に対するテロ未遂事件が続発したことも、権力、支配層にショックをあたえ、〈思想善導〉治安強化のキッカケとなった。」

そして、暴力団との癒着。下「」引用。

「政府、政党、官僚と、ヤクザ、暴力団の〈癒着〉を断罪する(「暴力黙認と国家否認」)」

それは今も続く……。

私物国家 日本の黒幕の系図


世界一アメリカ。これもきちんと把握していたようです。下「」引用。

「米国は国土、人工、工業、財力などの点からみて「少なくとも世界第一の強国である。少なくとも世界第一の強国たり得るの資質を備えて居る」ことを立論の前提にする。」

--国民とともにない「軍国主義」者たち……。

でも、ボクはこちらしか知らなかったと記憶する……。










index






エンタメ@BlogRanking

index 平和とジャーナリズム

2008年03月09日 | TOP【もくじ】
index 平和とジャーナリズム



index

帝国主義日本にNOと言った軍人水野広徳

【ドキュメンタリーとジャーナリズムは異なる場合がある?】

ドキュメンタリーは嘘をつく

朝日新聞の戦争責任-東スポもびっくり!の戦争記事を徹底検証-

index

■その他■

ウサギの耳とハトの夢 日本の核と情報戦略

戦争報道の犯罪 大本営発表化するメディア

新聞は死んだ 驕り、偽善、エゴを衝く

平和・協同ジャーナリスト基金

■アメリカ■

ウォルター・リップマン-正義と報道の自由のために-





もくじ






米軍資料 原爆投下報告書-パンプキンと広島・長崎-19

2008年03月09日 | 読書日記など
『米軍資料 原爆投下報告書-パンプキンと広島・長崎-19』
   奥住喜重、工藤洋三、桂哲男(訳)/東方出版1993年

この本で印象に残ったのは、米軍資料では長崎原爆を投下したB-29の航路図は、沖縄をとおっていなかっという……。また、航路図は長崎原爆の投下が広島になっていたという。資料も間違っていることがあるようだ……。



パンプキンでの爆撃
--長崎型の模擬爆弾での爆撃。
宇部窒素肥料会社があるのは、爆薬などの材料をつくっていたからであるようだ。下「」引用。

「鉛室法と接触法の両方による硫酸、硝酸と爆薬、クレオソール[-略-]の大生産所である。」

空海救助団図。下「」引用。

「二つの原爆投下作戦についてだけ空海救助図があるが、6日の任務13番と9日の任務16番の図が入れ違いになっているようである。」



技量のいいものを集めたようです。下「」引用。

「第393戦隊の隊員の一部は淘汰されて、アメリカ濃くない、ヨーロッパ・太平洋の前線から、目的も知らされずに技量の優秀な者が選抜されて入れ替えられた。第393戦隊を支えるためには、機密保持の必要上、整備、輸送、警備などを自前で処理できるように、第390航空補給群団(第603航空技術戦隊、第1027資材戦隊)、第320輸送機戦隊、第1395憲兵隊など、各種の任務を帯びた戦隊や群団が部隊に加えられた。秘密の親切部隊が第509混成群団と呼ばれることになったのはこのためである。のちには爆弾護衛専任の第1兵器戦隊、最後には第1技術分遣隊、戦時局雑務群団なども加わった。その兵力が将校225人、兵士1542人を擁したとは、「陸軍航空軍史」が挙げる数字である。」

グローブズが1945年1月1日に、オッペンハイマー博士に送った手紙。住所はやはり私書箱。ニューメキシコ州サンタフェ(Santa Fe.)私書箱1663。下「」引用。

「私は彼に、それは生産上現実的でないと知らせ、月に最低9発ならば供給できるだろうと申しました。これらの大型原爆は、どれもできるだけファットマンの最終型に似せるというのです。
 ティベッツの群団には、生産が許す限りの大型爆弾を供給して、もっとも安全な訓練を保証してやりたいのですが、いや、しかしこれは、「Y」においてはるかに重要な問題に取り組んでおいでの方を煩わすことではありません。」

ティーベッツの要求でパンプキンが作られたようである。

事実と違う長崎原爆航路……。下「」引用。

「8月6日に広島を攻撃した任務13番の航路には問題がない。しかし8月9日に長崎を攻撃した任務16番の航路は明らかに事実に反している。この日の航路は硫黄島を経由せず、テニアンから直接屋久島上空に向い、帰路には長崎上空から沖縄経由でテニアンに帰るという変則なものであった。にもかかわらず、航路図には往復とも硫黄島を経由したことになっている。」

しかし、どうして、沖縄経由が事実であったのかは説明されていなかった。


6月30日、調整とオリエンテーション飛行。
7月23日、ティベッツはパンプキンを積み、一機だけで一時間半の予定で飛行。
7月25日、ティベッツは一機だけで飛び出した。空身(からみ)で丸腰、燃料5,4000ガロンを積み、硫黄島まで行って、テニアンに日帰りしたかと思われる。これは本番に備えて、予備機の配置をするための点検であったかも知れない。
7月31日の3機の出撃、8月6日の同じ顔ぶれが搭乗していたという。日本には接近せず、洋上で何かをしたという。スウィニーは、グレート・アーティスト号の機長でついていく。これはおそらく、8月6日のリハーサルであっただろうという。


パンプキン野外劇場での勝利ミサ



勝利ミサの祭壇


ミサと書かれてはあるが、カトリックぽくないとボクは思う。










INDEX

INDEX





エンタメ@BlogRanking

原爆前後 上下

2008年03月09日 | 読書日記など
『原爆前後 上』
   白井秀雄、相原秀次(編)/朝日新聞社1983年

この本は、『原爆前後』という三菱関連の人たちの文集をまとめたものといっていいかと思います。

帯に書かれあります。下「」引用。

「ナガサキ--1945年8月9日11時2分
爆心地に最も近い長崎兵器・長崎製鋼・三菱重工長崎造船所従業員の被爆体験記と、投下直後から救援をつづけた所員たちによる救援の記録。いま、あらためて、戦争と核兵器の恐さ、残酷差への思いを深くする。」

まずは仲間うちで始ったという。下「」引用。

「私ども三菱重工業長崎造船所関係者有志によって、文集「原爆前後」の発刊が決まったのは、昭和四十三年のことであった。あの原爆、終戦の前後三、四年間に体験したことを、孫にでも書き残すつもりで手記を寄せてもらい、印刷・製本して仲間うちだけに配布しようというのがその趣意である。
 寄稿は予想以上に順調に集まり、あれから十五年後のいまも刊行がつづいている。昭和五十八年四月現在、五十五巻が印刷を終え、寄稿総数六九六編に達した。この間、「原爆前後」は縁あって、朝日新聞社の目にとまり、今回、その一部を抄録したものが公刊されることになった。当初からの世話人の一人であり、十五年間文集の編集に当たってきた僕の立場から、これまでのいきさつについて触れておきたい。」

広島の三菱造船所との関わり。下「」引用。

「広島とのつながりも、この文集の特徴のひとつである。戦時中、広島に建設された広島造船所は、創業の際に長崎造船所から、多数の人びとが応援に出向したまま、被爆、終戦を迎えた。なかには任務を終えて長崎へ帰る直前に広島原爆を受け、ようやくたどりついた長崎でまた原爆を受けた人もいる。広島と長崎とは、三菱重工の場合、職場として密接なつながりを持っていた。」

捕虜と囚人のことも書かれてありました。

カトリック信徒の従業員の文章もありました。

石油ストーブIKASAGANを米軍に造らされたという。



『原爆前後 下』
   白井秀雄、相原秀次(編)/朝日新聞社1983年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「ナガサキ--1945年8月9日11時2分
原爆一発で、ナガサキの町と市内の軍需工場は壊滅した。敗戦必死の中、秘密兵器や船舶・艦艇を造りつづけていた、三菱重工長崎造船所従業員の手記は、今さらながらに、戦争指導者の愚かさと兵器の持つむなしさ、悲しさを考えさせる。」

終戦間際の新兵器開発のことが書かれてありました。

割腹自殺をした中尉。下「」引用。

「呉工廠では魚雷艇建造関係の中尉の人が建造不振の責任で、割腹自殺をされたという折だった。」

そして、終戦の時も割腹自殺。下「」引用。

「このわれわれの佐世保滞在中、機関故障などの時、必用な部品、工具等の借用に便宜を計ってくれたのが工廠の組立工場主任の宇田川中佐、製図工場ディーゼル係の平野技師、組立工場ディーゼル係の山口技師の各氏であった。このうち宇田川中佐は終戦の折、割腹自殺されたよしである。」

山口彊(つとむ)さんの文章もありました。



生かされている命 広島・長崎「二重被爆」、90歳からの証言







index

index

目 次





エンタメ@BlogRanking