磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

水爆実験と日本漁業

2008年03月11日 | 読書日記など
『水爆実験と日本漁業』
   近藤康男・著/東京大学出版会1958年

日本漁業に与えた影響。それはあまり、よいものではなかったようにボクには思えます。経営が苦しくなれば、大資本に金をかりる。かりることによって、系列化されるという……。ここでも三菱が出てくる……。財閥は今も続いていますね……。



「はしがき」に書かれてあります。下「」引用。

「社会経済的側面も無視すべきではないとして社会経済班が置かれ、昭和三十年度文部省科学研究費による研究課題「原水爆実験の日本漁業に与える社会経済的影響」が取上げられたのは、その肝入りによったのであった。私はその研究主任としてそれから三年間共同研究に従事した。本書はそれに対する最終報告である。」

第五福竜丸だけではなかったという本を以前紹介しましたね。下「」引用。

「三月に被害をうけた第五福竜丸と第十三光栄丸の二隻は放射能の強さが五、○○○カウントをこえていたが、四月に入って高いカウント数の比率は激減している。すなわち三月の被災は「死の灰」を直接に空から浴びたものと思われるの対して、四月以降のは直接「死の灰」の降下によるそれではなくて、「死の灰」が海水にとけこみ、プランクトンに吸収され、これをマグロが摂取するために起ったものだからである。」

ビキニの海は忘れない

第五福竜丸が入港時、多くの人々はただの漁夫の生命にその関心をもっていた。
しかし、原爆マグロ。マグロ価格の低下。そして、マグロ不況へ……。

index

大型船は安くて安全なインド洋へ。

「おりづる会」が焼津にもつくられたという。下「」引用。

「焼津在住の二十数名の高校生の集りである『おりづる会』による漁師とその家族の調査でもられるのは水爆に反対する理由は“魚価が安くなり、収入がすくなくなるから”といい、家族たちは“漁に出るのは心配だから”とこたえている。」

系列化。下「」引用。

「 東洋棉花--阿部貿易
  伊藤忠--弥生交易
  丸紅--水戸冷蔵
  野崎産業--前島貿易、横須賀冷蔵
  第一物産--横須賀水産、東京水産工業
  三菱商事--国際水産、清水食品
  東京食品--竹芝冷蔵」

この下に船主がいるという。船主は融資を受けているという……。

サモア基地操業についても書かれてありました。下「」引用。

「サモア基地操業について、一五○トン級以下の専用船または兼用船が、ビキニ実験以降、漁場の喪失と漁獲率の低下のもとで、基地操業(サモア諸島、米領ツツイラ島)に一つの突破口をもとめていること、それが三菱商事、日冷等の独占資本の主導のもとで展開されることは、三崎マグロ漁業に対する水爆実験の影響調査において、すでに指摘されたところであった。」










index






エンタメ@BlogRanking

【映画】燃ゆるとき

2008年03月11日 | 読書日記など
WOWOW

燃ゆるとき
中井貴一・主演


中井貴一が主演なので、一応、見ておこうと思いました。

いい作品でした。必死に生きている庶民をよく表現できたと思います。

日系の企業がアメリカで生きていくのも大変なことなんだなあーと思いました。

--小説が原作で、フィクションであるかもしれませんが……。

あの日本でも、悪辣なことをしたハゲタカ・ファンドは本国でもしているようです。

こんな企業を法律で取り締まらないのが不思議です。

ユニオンという組合も、乗っ取りのために仕向けるという。

これでは、暴力団のゆすりと、どこが変わるのか? 疑問に思えました。

組合にも、よいものと悪いものがあると、日本のことでも思いますが、どうも組合については批判されないのが不思議です?。

ドラマなので、実際にどうかわかりませんが……。

さらに格差社会にしたい人たちが、このようなシステムをつくりだすかもしれないので、気をつけないと大変なことになることが理解できる作品でした。

中井貴一の地味な演技。忍耐力、悔しさ……、それらを超える人間愛を感じました……。

すべてをアメリカ流にはしたくない日本人の心意気を感じました。

弁護士料や、示談金をカップめん何個分と表現するところが実に庶民的でよかった……。

庶民に対する愛情をもっている企業が生き抜いていただきたいと思った……。

レモン味のラーメンを一度食べてみたいと思いました。






燃ゆるとき - goo 映画
燃ゆるとき - goo 映画











エンタメ@BlogRanking

原爆前後IX

2008年03月11日 | 読書日記など
『原爆前後IX』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1972年

二重被爆--ヒロシマとナガサキで被爆。その体験をした佐藤邦義さんの文章も掲載されていました。この文章は日経新聞にも掲載されたという。



二重被爆で有名な山口さんの部下だった佐藤邦義さん。下「」引用。

「そんな大惨事のなかで私が生きているのが不思議だった。奇跡的に無傷の私はさっそく長崎から一緒に出張していた若い同僚、岩永章さん(現在長崎市在住)も同室に幸い無事でいるのをみつけた。長崎から同行してきたもう一人の山口彊主任技師はこの朝の出勤途中、忘れた印鑑をとりにひき返していた。私と岩永さんは心配になって山口きんを捜しに出かけた。
 その路上でみかけた光景はまるで地獄だった。全身焼けただれて水ぶくれになった中年の婦人、腹だけが異様にふくれあがって倒れている少年、衣服が焼けただれたままよろよろ水を求めて歩いている老人。原爆を知らない私たちは空襲でガスタンクが爆発したのかと思った。一時間ほど捜し歩いて工場へ戻ると山口さんが正門で待っていた。その顔の左半分と左腕が焼けただれて水ぶくれになっていた。道路を歩いているとき原爆にあい、爆風でいも畑へ吹きとばされたのだそうだ。」

ヒロシマで被爆し、そしてナガサキへ。

波止場へ行き、浮き桟橋で航送船を待っているとき、原爆投下。下「」引用。

「その時、またピカッときた。とっさにこれは広島の新型爆弾と同じものだなと頭にひらめいた。それと同時に私はリュックサックを背負ったまま無我夢中で桟橋から海に飛び込んだ。そこには桟橋が爆風のかげをつくり比較的安全だった。まだ桟橋が残ったり、入港してきた航送船の窓ぎわにいてやけどを負った人もいた。そのひとりから「あなたは長崎に原爆が落ちることを知っていたなら、なぜ私たちにも避難法を教えてくれないのか」とうらまれた。」

山口さんは危篤になったこともあるそうです。下「」引用。

「その後二十数年間、原爆症に苦しんでいる人も多い。私の職場の同僚で原爆のためなくなったり、家族を失った人は実に多い。広島、長崎両原爆に被災した山口さんは頭髪が抜け危篤状態になったこともある。」

山口彊さんの手記は第四巻に掲載されたという。
--少し手を加えてデンマークのある出版社に送られて出版。
そのことが朝日新聞の記事に。

--山口はダブル被爆者と呼ぶ。
デンマークのコペンハーゲンの保守系有力紙「B・T・(ベーリングスケ・ティデンゲ)」のニボー・アンデルセン記者が山口に取材する。記事の最後に「私はアメリカをにくむ」という山口の談話で結ばれていたという。










index

index

目 次





エンタメ@BlogRanking

原爆前後VIII

2008年03月11日 | 読書日記など
『原爆前後VIII』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1971年

「魚雷」について詳しく書かれてありました。文集なので、あまり批判はしたくないとボクは思っています。しかし、当然、批判はあることでしょう……。しかし、歴史を残すということは貴重なことだとボクは思う。



広島の新工場をNとSと呼んでいたという。下「」引用。

「広島に新工場が計画された当時、観音工場はN、江波工場はSと仮称されました。
 十九年三月十五日、開所式が行なわれ、正式にN工場は広島機械製作所、S工場は広島造船所と命名されましたが、その後もわれわれはずっとN・Sと呼んでいましたので、当時のことを知っているものはこのN・Sという名に愛着を覚えます。
 なぜN・Sと呼称したか、その由来は今もってはっきりしません。」

広島と長崎の違い。下「」引用。

「この出張のとき見た長崎の惨状を記すのを略しますが、長崎は広島とちがい、長崎古来の町は無事残り、映画館もあり、病院、商店、学校もあり、私は浜ブラをしました。何もかも焼け失せた見渡す限りの焼野が夏の広島の状態に比べると、誠に羨ましく思いました。」

大家族はやはり、苦労されたようです。下「」引用。

「カボチャの土手栽培    弥永卯六
 食糧入手には、戦中、戦後を通じて、どこの家庭でも苦しみましたが、国民学校六年生をかしらに合計六人の育ち盛りの子供を抱えた私の家の戦後の食糧事情は、実に困難を極めました。これは物価統制令が曲がりなりにも守られていた戦時中よりも、終戦後のインフレで食糧事情は益々悪化したからです。
 当時の都会に住んでいた人々はみな同じような経験をされたと思いますが、各家庭では主婦が闇のルートを開拓して農家に通い、米と野菜その他をわが家に運んだものでした。」

敗戦近くになるにつれ、船がだんだん小さくなっていったという。下「」引用。

「それから私の手掛けた工事は、油槽船、大型駆逐艦、商船の航空母艦への改造、魚雷艇、海防艦、さては陸軍の連絡艇、海軍の特殊艇など多種多様であるが、軍艦・武蔵を見ていた目には手掛ける船が段々小型になってくるのに一抹の淋しさを感ぜざるを得なかった。」

石綿がないので岩綿をつかったという。
--痒かったという。


三菱病院で原爆に遭ったという人の文章が掲載されていました。

特攻兵器の液体燃料を研究されていた人もいたようです。








index

index

目 次





エンタメ@BlogRanking