磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

放射能事件ファイル

2008年03月19日 | 読書日記など
『放射能事件ファイル』
   野口邦和・著/新日本出版社1998年

いろいろな事が書かれてあります。それで、詳しく書かれてないので、どうなのか理解できないことがありました。



表紙について。下「」引用。

「写真●セミパラチンスク核実験場の汚染地図
(セミパラチンスク医科大学での入手)」

ポイ捨てされた日本海。下「」引用。

「すさまじいばかりの海洋投棄の実態が明らかになり、まだ興奮収まらぬ同年(九三年)一○月一七日、ロシア海軍は放射性廃棄物の海洋投棄専用船TNT27を使って日本海への液体廃棄物の投棄を行った。グリーンピースの調査船の撮った映像がテレビのニュース番組で映し出されていたので、覚えている読者もきっとたくさんいることだろう。」

しかし、日本の原発事故などは書かれていませんでした……。

違反があったという。下「」引用。

「もっとも、ロンドン条約で低レベル廃棄物の海洋投棄を全面禁止したからといって、ロシアが海洋投棄しない保証はない。実際、『海洋投棄白書』に記載されている旧ソ連およびロシアの海洋投棄はロンドン条約に加盟したのち、いかに旧ソ連とロシアが同条約に違反して投棄を行っていたかを如実に物語っている。一○月一七日の日本海への投棄もロンドン条約違反であった。」

高等戦術だという……。下「」引用。

「これらの発表や発言は、「だからロシアに放射性廃棄物貯蔵施設を建設するための経済援助を!」という声を引き出す一方で、「それまで海洋投棄もやむをえない」と思わせる、ロシア政府首脳と海軍による合同の高等戦術である。なぜなら、こう言いながらも新型の原子力潜水艦はどんどん進水させているからである。」

……ひどいとボクも思います。

核魚雷というのがあるという。下「」引用。

「コムソモーレツの核魚雷はプルトニウムてばなく濃縮ウランということになってしまう。なぜなら、プルトニウム239の核分裂連鎖反応を起こさせるためには、最低でも三~四キログラムは必要だからである。」

■Russian Army - Northern navy fleet■



コバルト爆弾の可能性があるという。下「」引用。

「コバルト爆弾とは水爆のまわりをコバルトで包み込んだ爆弾で、敵の目標を核爆弾で瞬時に破壊するとともに、目標周辺地域を数十年間にわたって放射能で汚染させることを意図した、いわば放射能強化爆弾と呼ぶべきものである。」

チャンガン湖をつくった核実験は、コバルト爆弾の疑いがあるという。そしてセミパラチンスク核実験場周辺地域住民の核実験による被害の実相を明らかにするうえで、貴重な資料だという。

「NHK海外ドキュメンタリー 「チェルノブイリ原発 隠されていた事実」を見て」下「」引用。

「地震がチェルノブイリ事故の引き金になったとにわかに信ずるわけにはいかない、というのが番組を見た筆者の偽らざる現在の感想である。」

ボクは隠蔽する理由としては、これが一番大きいだろうと思います。
--日本でも、昨年の地震で、原発は止まったままですね。
地震国の日本では、役立たないことになるリスクが高いと思います。
事故のリスクも同時に高いのではないでしょうか?

それに、この番組だけでもありません……。

筆者は専門家であるようです。

くわしくはここをクリックしてください。

だから、このようなことも、ご存知のようです。

「ウラン入り陶歯」下「」引用。

「イギリスやドイツ、アメリカなどでも、日本と同様にウラン入り陶歯は減る傾向にある。現在ではほとんどすべての陶歯にウランは入れられていないと思われる。」


マンハッタン計画の人体実験のことも書かれてありました。









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原爆前後XXII

2008年03月19日 | 読書日記など
『原爆前後XXII』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1973年

永井隆博士に治療してもらった人の記事がありました。

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「内燃機設計の十年間」という記事がありました。下「」引用。

「清水菊平さんがMSエンジンを完成され、設計の手にも余裕が出来た昭和十年始め頃のことであった。当時、長崎造船所の元良信太郎さんから清水さんに、試験研究費が余っているから何か研究を申し出ないというお話があって、清水さんはこれに対し、直ぐに物になるかどうか判りませんが一つ研究したいと思うものがありますといって、予て腹案として持っておられたコンパウンドディーゼルエンジンの研究試作を申し出られ、それが認可されて試作にかかることになったのが昭和十年三月頃であった。」

陸軍で依頼があったが、海軍により止められたという。下「」引用。

「ところが大東亜戦争の初期のころ陸軍では、高速艇にガソリンエンジンを使っているので、より安全なディーゼルエンジンに換えたいが、従来あるものは重量が重過ぎるので、軽くて馬力の出るディーゼルエンジンは無いものかという話が出た。この話は、NYKの元工務監督で、当時は陸軍に徴用されていた人で、筆者と同窓の田中敏三君が長崎に来て私にされたのであった。そこで私がついこのコンパウンドエンジンの話をしたところ、それを作って呉れということになり、その後、市ケ谷の陸軍補給本部に呼ばれて説明させられ、是非やってくれとの話になった。長崎に帰って上司の鈴木内燃機関課長に報告したところ、早速着手してみようと云うこととなって、設計を進めているうちに、海軍監督官から艦政本部の耳に入った模様で、長崎造船所は海軍の管轄工場だから、陸軍のものは作ってはならぬと言われ、この話は沙汰止みとなって終った。」

“モロトフのパン篭”というのが使われていたという。下「」引用。

「それは昭和十九年八月十日の夜半近くであった。-略-この時の爆弾は“モロトフのパン篭”という焼夷弾で、夜が明けてみると、その破片が工場のあちこちに散らばっていた。幸い不発のものが多く大した被害がなかった。」

これは一種のクラスター爆弾だという。
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こんな状態でもあったようです。下「」引用。

「海軍病院といっても、軍医さんは少なく、薬剤も甚だ心細いものだった。ある朝、軍医さんの廻診を待っていると、手のひらが痛掻ゆく仕様がないのでオズオズと包帯を除いてみると、張り付けたガーゼがピクピク動いているので、ジッとはがしてみて吃驚した。どす黒いように見える蛆虫がウヨウヨしていた。そしてこの血肉を喰べて赤黒くなっている蛆虫が動く度に堪えられない痛さを覚えるのだった。生身の躰に蛆虫ができるとは、今迄かつて思いもつかなかったが、三回蛆虫が湧いたことを私は記憶している。それから昼もわれわれの病室は一時、蚊帳を張ることになった。」

永井隆博士が、原子爆弾救護班が発足し、巡回診療。
その時、麻酔もなしに、頭のガラスをとってもらったという。

テレビの番組もあったようです。下「」引用。

「昭和四十五年八月、故永井博士の原子爆弾救護班の人名簿が見つかり、その人名簿の中から発見された僕の名前を頼りに、NBC報道部の方々が久松シソノ看護婦長同伴で私の宅を訪問され、私は久松さんとの久しぶりの再会に当時を思い出し、時を忘れて話しにふけった。」

長崎医大原子爆弾救護報告









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原爆前後XXI

2008年03月19日 | 読書日記など
『原爆前後XXI』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1973年

トンネル工場は無傷で残ったという。昨年のニュースではトンネル工場の保存が取り上げられていたのを思い出しました。



賠償の指定があったという。下「」引用。

「三菱長崎兵器製作所は第一着に賠償の指定を受けねばならない性質の工場であったが、一向にその指定が無いので、原爆のおかげで賠償の指定を免れたものと、一同内心喜んでいたのである。
 何故、一か年以上も経過したあとで、賠償の追加指定を受けたものであろうか。そう言えば二十一年初め、-略-「原爆でやられた工場に、こんな沢山の機械が残っているとはどうもおかしい、再調査せよ」と言われたことがあった。「焼損機械や破損機械が含まれているのではないか」とのお話があったことを思い出す。
 終戦後間もなく工場に乗り込んで来た米兵の方が詳細なる三菱長崎兵器の工場配置図を持っていたので驚いたことがあったが、どうも地下工場までは御存知でなかったのではあるまいか。前述の通り地下工場その他に疎開をしていた工作機械、一千台余は完全に無傷で残存していたのである。」

賠償の指定も、財産目録を確認してからだったようですね。

企業の賠償もあったんですね。

記念式典はカトリック教式と仏教式があったという。下「」引用。

「(十) 原爆供養塔の除幕式
 二十六年の七月一日に、長崎精機は長崎造船所に合併され、二十七年四月、講和条約が発効し、同年五月六日、長崎精機の賠償指定が解除となった。
 戦後七年間の苦難の道も、遂に二十七年の始めに終りを告げ、その後はとんとん病死で好転して行った。
 昭和二十七年の八月九日には、大きな御影石の定盤を加工して作られた原爆供養塔の前で原爆追悼の記念式典が挙行された。
 除幕式は先づカトリック教式で、次に仏式て執り行なわれた。三菱長崎製作所の原爆犠牲者の中には相当数のカトリック教徒が含まれていたからである。」

--日本のよくない点を、フェッセル中尉(昭和21年)が語ったという。下「」引用。

「日本では上の人が部下の仕事を十分に了解していない。これが日本の大変によくない点です」

髪の毛が伸びない症状もあったという。下「」引用。

「原爆症の中に「髪の毛が伸びない」という少し変わった症状のものがあったる北御門工師がそのように言って来られたので、「髪の毛が伸びないだけで、体の他の部分に別状が無ければ大丈夫ではあるまいか」と励ましたが、北御門工師もその後十日位で亡くなられた。髪の毛も伸びないのも間違いなく原爆症であった。」

「森米次郎さんを囲んで」という座談会形式の記事もありました。森さんは当時・総務部長。

原爆症に味噌がいいというのは……。下「」引用。

「ところが専門の医者の話によると原爆症にはこれといった療法はない、というのが現状らしい。もっとも長崎の原爆病院長の秋月辰一郎博士は玄米飯に塩をかけて食べ、そしてからい濃い味噌汁を毎日飲むとよいと言っておられる。先生はこれを食塩ミネラル治療法と称して本に書いておられる。昔からレントゲン技師が放射線にやられたときは、こうしたらしい。」

チェルノブイリ事故のとき、ドイツでも味噌が売れたという。
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トンネルの本数について。下「」引用。

「また、赤迫トンネルの本数については、第十三巻に六本という記述があり、本巻には五本とある。これも一般読者の方は、「空襲の被害を逃れるために赤迫に数本のトンネルを作り、そこに機械を入れて作業をしていたが、これは一部未完成だった」とうことが分かるだけで満足して頂きたい、どうしてもこのトンネルの本数をお知りになりたい方は、大部分はそのまゝ残してあるそうだから、赤迫まで行ってお確め願うことにする。」

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原爆前後XX

2008年03月19日 | 読書日記など
『原爆前後XX』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1971年

空襲があり、住吉トンネルに避難されたことが書かれてありました。



空襲から逃れるために、トンネル工場がありました。下「」引用。

「けたたましく空襲警報が発令された。私は藤井君と構鈑、鍛造、鋳造、治工具の女子軍を引率して、約一キロ離れた住吉トンネル工場に待避した。
 最近は殆ど毎日、時には二回三回も警報が出て、今迄に幾十回となく待避させられた。時には山陰から突如としてグラマンが飛び出して驚かれたこともあったが、大概は空高く、面憎いまでにの悠々編隊を組んだB29が南から北へ、そして、長崎には御用はございませんといわぬばかりに、また北より南へと帰って行くのを見せつけられた。」

間違った療法……晩酌。下「」引用。

「四二年より現在の平井技研に勤めさせて戴くようになり、今もって今も亡くなられた福田元所長の、「原爆の薬にはアルコールに限る」と言っておられたことを遵守し、晩酌は欠かしません。」

最初の急性症状のみに有効だったという人もいます。

でも、ボクは急性期といえども、アルコールはいい側面もあれば、悪い面もあったのではないかと思います。


長くなると、アルコールは免疫力をなくすので、かえって悪いそうです。
--チェルノブイリの被害者では問題にされていました。

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また、別の人も空襲で避難したことが書かれてありました。下「」引用。

「二十九日から二日おいた八月一日の昼ごろのことと記憶する。突然、空襲警報が出て、続いて「敵機来襲」と伝令が来た。稲佐山方面から四、五機の編隊が現われたとのことで、組員は全員トンネルの横穴に待避させた。
 やがて爆音と共にドガンドガンと爆弾投下の大きな音がする。幸町の近所でも襲撃されたのではないかと、みんなで話していると
「浦上駅の附近で煙が上っている」
と、また伝令が来る。」

被爆し、故郷へ帰ろうとしている途中、泊まるところがなかったという。下「」引用。

「ボロボロのズボンに杖を持ち、血に染った汚れたシャツ、切れかけた草履、頭には包帯、われながら驚くほどの姿であった。
 さて今夜は困ったことだと思って、「私は長崎で爆撃を受けたものである」と、訳を話して、近くの人に「軒下でもよいから、休ませて貰いたい」と言うが、なかなか、よい返事をして貰えなかった。困っていると、駅の荷役(貨車の荷を下ろす当直)の人が来て「それでは自分等の所に来なさい」と言って、小屋に案内してくれた。その時は本当に涙が出るほど嬉しくて、何度も何度も頭を下げてお礼を言った。」

また、故郷に帰るとき、木炭バスだったという。下「」引用。

「戦時中はガソリン不足だから、みんな木炭バスであったが、田舎のバスは特にのんびりしていた。上り坂になると、全然動かない、元気な人は堪えきれず、バスを降りて坂の上まで歩く。空車になって、やっと動くので、現在では一時間で行く所を五時間ぐらいかかって、やっと生まれ故郷の近くに着く。」

長兵工場を休職して、長兵工場で働く。下「」引用。

「私はもともと学校卒業後、長崎兵器製作所(以下、長兵と呼ぶ)に入社したが、半年後、二年現役の海軍技術士官として横須賀の砲術学校で軍事講習をうけた後、佐世保海軍工廠に配属になっていた。したがって長兵の方は休職になったままで、このたびのことも海軍からの派遣というかたちであった。」

お寺のことも書かれてありました。下「」引用。

「このお寺は原爆当時、大橋工場の皆さんが、そこを目標にして、その裏山に逃れたところですが、私たちの真宗のお寺です。
 和尚さんのお話によりますと、当時は本堂に海軍の兵隊さんが宿泊しておられ、門には門衛が立っていたそうです。原爆のときには本堂も住家も破壊され、そのとき兵隊さんも負傷されたそうです。また、お寺さんのお子さん二名が死亡され、奥様は片目を負傷された由。-略-
 この照円寺の境内に立つと、昔の大橋工場の跡を見おろすことが出来ますが、只今では工場の跡は長崎大学に変り、附近は商店街となり、昔の畑地には民家が立ちならび、二十七年前の面影は全くありません。」

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原爆前後XIX

2008年03月19日 | 読書日記など
『原爆前後XIX』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1973年

--長崎の如己堂。
永井隆博士のことを思い、同時にしみじみ当時のことを思い出されている人の文章もありました。下「」引用。

「お互いに終戦後の衣・食・住の不自由な時代の苦労が胸によみがえり、低回去るに忍びない思いであった。」



「あとがき」書かれてあります。下「」引用。

「この十九巻について、特記したいことが二つある。ひとつは、当時手不足の工場に動員されて来ておられた学徒の方、それらの方々の監督に来られた先生、さらには三菱がはじめた女子青年学校に勤められておられた方、それらの合計六人の学園関係の方々の御手記が掲載されていることである。-略-もうひとつは、当時の三菱製鋼の工務部長・安中昌吉さんに、あの当時の同氏の日記の一部を発表さして頂いたことである。」


三菱女子青年学校というのがあったという。下「」引用。

「長崎の対岸、旭町の市営桟橋で船をおりて、三菱電機の方へ二、三分歩きますと、海岸沿いに大きな煙突がある学校がありました。もと水産学校だったそうで、戦時中は三菱女子青年学校でした。丸尾町三の三、長第三○八工場・女子青年学校が正式の名称です。-略-工場にも高等小学校を出た女の工員さんが現場で働いておりました。この人達に女子の教養を身につけさせるため開設されたのが女子青年学校です。」

その学校に大きな防空壕が作られたという。下「」引用。

「長崎にも敵機が来襲するようになってから学校の校庭を掘って大きな防空壕が出来ました。授業の途中警報が鳴ると、クラス毎に防空壕に入り、やっと解除になって出たかと思うと、また空襲警報が鳴るというようで、出たり入ったりして授業があまり出来ぬ日もありました。学校には目じるしになるような大きな煙突があるし、地面を掘っただけの防空壕ではとても危険だろうとのことで、三菱電機の裏手の山を掘った横穴式の防空壕まで生徒を並ばせて走りました。人員をかぞえて防空壕に入れ、解除と共に走って帰えり人員をしらべて授業をするのですが、生徒も教師もくたくたにつかれました。」

そして、戦争はさらに負けていく……。下「」引用。

「人手薄になってくると、挺身隊員にも従業員に替わる仕事を委せられる様になった。」

地下壕に重要書類は移動。下「」引用。

「長崎にも空襲警報が頻繁になり、重要書類は道路の向いにある鉄筋の建物である技術部の地下室へ移され、一日のうち何度も地下室へ往復しなければなりませんでした。」

戦後、フライパンを持って……。下「」引用。

「戦後しばらくして、勤労課の係長をしていられた陣内さんが、父の開業していた医院へ診察に来られた時、「この頃は兵器も、こんなものをつくって息をつないでいます」といって、フライパンを持って来て下さいましたが、その後間もなく不帰の客となられたと聞き、これも忘れ得ぬ想い出となりました。」

挺身隊の一員……。下「」引用。

「昭和二十年、当時私は県立長崎高女専攻科に在学し、学徒報国隊として三菱電気製作所に動員されておりました。戦局の緊迫と共に父も南方戦線に出征し、友もまた学業を捨てて銃をとっていた時ですので、女子学生としても一途に戦の渦の中に若き情熱を打ち込んでおりました。
 三菱電機は私共のほか、熊本高等工業、熊本女子師範、鶴鳴高女の報国隊と鹿児島女子挺身隊が配属されておりました。」

長崎の平和の折鶴会というのがあるそうです。下「」引用。

平和を祈る子の像の所へ行った。
 これは、被爆者の救援を続ける長崎の平和の折鶴会が、被爆二十周年記念事業として広く内外の世界永遠の平和を願う少年少女の共感と支援によって設立したもので、昭和四十二年八月九日除幕、台座には赤・白・青・黒などの色とりどりの国内国外の石に飾られているが、すべて原水爆禁止を願う平和の石として贈られたものである。」












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