磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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長崎医大原子爆弾救護報告

2006年10月28日 | 読書日記など
『長崎医大原子爆弾救護報告』
   朝日新聞社・編/朝日新聞社s45年

帯に書かれています。下「」引用。

「8月9日午前11時02分、ただ一発で長崎の街は原子砂漠と化した。この報告書は、医療隊長・永井隆博士が、その瞬間からの2カ月を克明に記録したもので、奇しくも25年目に発見」



これは『永井隆全集 1』にも収録されています。

これは永井隆博士がおもに書いたそうです。

博士の手書きによるもので、なかみの文章は鉛筆で書かれているそうです。

その書類は一ページずつ印刷されています。

この本はカルテではなく、学長に報告するために書かれたもの。

この当時の永井博士は、白血病にかかっておられたが医学部の助教授をし、長崎に原爆が投下された直後には、救護隊長として活躍された。

その救護隊の報告であるが、原爆症におかされて、寝た切りになって文章にかかれていた時と違って活動的なころだと書かれてあります。


たくさんの人を永井隊長はみたとかいてあります。

しかし、こんな重病人ばかりで、おおぜいの患者がいては、焼け石に水のようであったかもしれませんね。

一個の原爆を落とすということ、落とされるということは、ただ都合のいい考えではない、こんな結果が待ち受けていることも忘れてほしくないものですね。

この報告書が25年たってから発見されたのは、経過も書かれてあります。下「」引用。

「福松さんはどうして「大事かもん」と思ったのか。もちろん命の恩人の永井先生が書いたもの、ということもあったろう。それと報告書の末尾に記載されている診療患者百二十五人の名前の中に、自分の名前と、原爆で死んだ四女のメリ子さん(当時十四歳)、五女のルリ子さん(当時十歳)の名前を発見したからである。福松さんは、この報告書を亡き娘の位牌がわりにと思い、大事に持ちかえったのである。
 それから福松さんは、この報告書を関係者に見せた。しかし見た人は、“個人的な興味”だけに終ってしまい、もっと大きな価値を見出すことができなかった。こうして、この報告書の上に、むなしく二十五年の歳月が流れた。」


川端康成さんと永井博士との会われたことも書かれてありました。


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