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「カツオを食する歴史」

2012-10-07 07:07:51 | 日本

漆原次郎は、日本人の「カツオを食する歴史」について書いている。
以下、要約する。


⇒カツオの旬というと、山口素堂が詠んだ「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」から新緑の頃が思い浮かばれる。だが、旬は春だけでない。夏に太平洋を北上したカツオが、脂の乗った体で再び南下してくるのだ。この戻りガツオが獲れるのは、これからの秋の季節だ。
日本近海の黒潮に乗って泳ぐカツオは、日本人にとって昔からの食料であり続けてきた。カツオ節から抽出するエキスは出汁という“日本の味”にもなった。まさに、カツオは日本の食文化と切り離せない魚と言える。


カツオは漢字で「鰹」と書く。それよりも前、日本人はカツオを「頑魚(かたくなうお)」あるいは「堅魚(かたうお)」と呼んでいた。そう呼びはじめたのには諸説があるが、そこからカツオ食と日本人の出合いや歴史を垣間見ることができる。
『日本書紀』によると、景行天皇53(西暦124)年、天皇が安房に巡幸したところ、信天翁(あほうどり)が鳴いてうるさいため、家来に捕まえるよう命じたという。船を出して信天翁を捕まえようとしたが叶わなかった家来から、代わりに差し出されたのは魚だった。家来が弓で魚を追い払おうとしても魚は“頑な”に離れなかったため、天皇はこの美味なる魚を「頑魚(かたくなうお)」と名付けたという。

こんないわれもある。カツオは鮮度が落ちやすい。そのため、乾燥させたり、火を通して煮たりする。するとカツオは堅くなってしまう。そこで人びとはこの魚を「堅魚」と呼ぶようになったという。
その後、文字どおり、魚へんに「堅」と書いて、これを「カツオ」と呼ぶようになった。じつは「鰹」という字は本来、ウナギなどの魚を指すのに使われていた。「鰹」がカツオを示す字として定着したのは、その語感が人びとにしっくりきたからだろう。


日本人はカツオを様々な方法で食してきた。
代表的なものはカツオ節にして出汁をとるというものだ。カツオを保存して食べるには、乾燥させることが1つの手だった。日本では4世紀以前、すでに、カツオをそのまま干したり、煮てから干したりして食べていたと言われる。
室町時代になると、この干したカツオを焙って乾かすという工程が加えられた。それが、いまのカツオ節の製法になっていく。大坂の大商人や京都の上流階級が、煮汁にカツオ節を入れて旨味を出したことで、出汁にカツオ節を使うという日本食にとって重要な方法を編み出したのである。

また、出汁の誕生以前から、日本人は調味料としてカツオを用いてきた。カツオの煮汁を煮詰めていき、うまみを固形に凝縮させたのである。これを「竪魚煎汁(かたうおいおり)」と呼んだ。
もちろん、鮮度が落ちやすい魚ではあるが、獲れたてであれば冷蔵技術がなくとも生で食べることができた。だが、鎌倉時代末期の歌人だった兼好法師は『徒然草』の中で、鎌倉の海で獲れ、生で食されたであろうカツオを「最近もてはやされるようになった魚」として綴っている。

<鎌倉の海に、鰹という魚は、かの境には双なきものにて、このごろもてはやすものなり>

兼好によれば、鎌倉の年寄りには「この魚は私たちが若かりし頃は、身分の高い人の前に出されることはなかった。頭は下人も食べず、切って捨てたもの」と言っていた者もいたようだ。兼好の時代にカツオの生食観が大きく変わったのかもしれない。


江戸時代に入っても、生のカツオは“流行りもの”としてもてはやされた。その年の“初鰹”にありつくことが、江戸の町人にとっての贅沢な流行となった。食べると寿命が75日延びるとも言われ、縁起物となった。相模湾や三浦半島で獲れたカツオが、当時の高速船で日本橋の魚河岸まで運ばれていたのである。松尾芭蕉は「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」と詠み、小林一茶は「鰹一本で長屋のさわぎかな」と詠んだ。

「たたき」という代表的な食べ方もある。皮付きのまま鱗は削ぎ落とし、表面に軽く火が通るくらいに焙ってから氷や水で冷やす。そして、たれと薬味をたっぷりかけて刺身として食べる。


この、カツオのたたきにも誕生をめぐっての逸話のような説がある。江戸時代中期に土佐(現在の高知県)で生のカツオを食べたことにより大規模な食中毒事故が起きた。そこで、土佐藩主だった山内一豊が庶民にカツオの生食を禁じたという。だが、刺身の味を忘れられない庶民は、カツオの表面だけを焙って食べるようにした。毒消しのためニンニクやネギも添えた。これがカツオのたたきの始まりとも言われている。




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