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「鎌倉時代の奈良仏師  肥後定慶と維摩居士坐像」

2024-06-16 07:00:33 | 日本

鎌倉時代の仏師といえば運慶・快慶・定慶・行快の名が有名である。実は中世の仏像彫刻大きなうねりは彼らの周辺にいた奈良の仏師から始まり継承されていった。
初期の重要な仏師が定慶(じょうけい)である。明治以来の仏像研究のなかで比較的早くから注目されているが、師承関係不明で、名の「慶」字と作風から、運慶の父康慶一門の仏師と想像されるのみである。

興福寺東金堂の本尊薬師如来像の両脇に文殊菩薩(ぼさつ)像と一対で安置される維摩居士(ゆいまこじ)像は定慶の代表作である。像内銘により治承4年(1181年)の南都焼き討ちで失われた「堂舎之霊像」を、「仏師法師定慶」が建久7年(1196年)に再興したものとわかる。奈良・法華寺の奈良時代末期製作の維摩像の形を学んでいるが、康慶の興福寺南円堂法相六祖像を継承しながら、表情や衣文(えもん)の写実を徹底した作風に特色がある。定慶の作品の完成度は高く、運慶にも匹敵する実力がうかがわれるが、位置づけの手がかりとなる資料が少ない、謎の仏師である。活動が興福寺内にほぼ限定されており、興福寺専属の仏師であった可能性がある。(1196年、木造、彩色、玉眼、像高88.6センチ、興福寺蔵)

肥後定慶は、十三世紀前半に活躍した仏師である。慶派仏師であり、肥後定慶には師弟関係を示す文献史料はないものの作風的に運慶との関係が指摘されている。
肥後定慶に関しては、先行する運慶作例との比較を踏まえて検討した結果、次のようなことが言えた。
即ち、肥後定慶の大報恩寺准胝観音像や鞍馬寺聖観音像は、作風的に運慶の滝山寺聖観音像・梵天像の延長線上にあると考えられるということである。定慶の観音像が醸し出す「生々しい」という印象は、外来の宋代美術の影響によって生まれたものでもなく、定慶個人がこの時期に突然生み出した表現によって生じたものでもない。

定慶は、運慶の滝山寺諸像においてすでに行われていた、生身の人間のような感触を想起させる表現方法を受け継ぎ、その表現方法をさらに多様化させたととらえられる。仏像が生々しい印象を醸し出すということ自体に定慶の独自性があるのではなく、生々しい印象を醸し出す表現方法を多様化させたということに定慶の独自性があるといえる。

定慶は、大報恩寺准胝観音像や鞍馬寺聖観音像において、「目の前に生身の肉体を持った仏が立っている」と感じさせるような“臨場感”のある仏像を目指したと考えられるが、それを実現するための手段が運慶とは異なる段階に入っている。すなわち、運慶が、「頭からつま先までを肉体」と捉え、その肉体全体に筋肉の量感・柔らか味・ハリを感じさせる造形を行うことで、生身の肉体を想起させる仏像をつくりあげたのに対し、定慶は「肉体全体」の筋肉の表現には重点をおいていない。その代わり、顔面の内部に骨格を感じさせるような頬骨の表現を行ったり、あごを細くしたりすることによって、従来の丸い相好の仏像との差別化を図り、相対的に仏像の顔を人間に近い印象のものにした。つまり、「生々しさ」を感じさせる原因を、肉体全体ではなく顔に集約したのである。

大報恩寺像の段階では、まだ胴体の肉付けに起伏と弾力感があり、体部からも筋肉の感触を想像させる要素が残っているが、鞍馬寺像になると胴体の肉付けが平板になり、細さだけが印象付けられるようになっている。その代わり、鞍馬寺像では、あごの細さが増し、鼻梁も長くなって面長で細面の印象が一層強まっており、丸顔の仏像からはさらにかけ離れるという意味で、一層人間に近く感じられると言える。

端的に言えば、鞍馬寺像においては、肉体に関して「生々しさ」を感じさせる要素が、身体全体から顔のみへとシフトしたのである。肥後定慶は、先行する運慶作例の形だけではなく、滝山寺諸像に見られた「生身の仏に対峙する臨場感を作り出す」というコンセプトそのものを理解し受け継いだ。しかし、そのコンセプトさえ達成できれば肉体表現を仏像制作の核に据えることは必要ないと考えたことに、肥後定慶の独自性と次の時代への転換点があると言える。

肥後定慶は、目に見える形は大きく改変しつつも、運慶が生み出した造像コンセプトを理解し継承していたと考えられる。

※参考
・鎌倉国宝館長・半蔵門ミュージアム館長 山本勉(2023年7月26日)
・2004年度 大学院市長賞大学院 芸術学専攻 院2回生名取 美穂