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「江戸時代 三行半と縁切寺について」

2014-11-15 09:36:07 | 日本

◎離縁状

江戸時代、庶民が離婚する際、夫から妻(または妻の父兄)に宛てて交付する、離婚を確認する書状である。(交付することで、離婚は成立します。)去状(さりじょう)、暇状(いとまじょう)とも呼ぶ。公事方御定書(くじかたおさだめがき)では、離別状とされている。文書の内容を3行半で書く慣習があったため、俗に“三行り半(みくだりはん。三行半、三下り半)”とも言った。

現代の離婚届は、夫婦連名で国に対して行う確認的届出だが、離縁状は、夫の単独行為である離縁を証明する書状であった。

公事方御定書では、離別状を受領せずに再婚した妻は、髪を剃って親元へ帰す。
離別状を交付せずに再婚した夫は、所払(ところばらい。追放。)の刑に処す。
とされている。

夫が離縁状を書いても、親類や媒酌人(仲人)が預かることも多かったようである。
妻が離婚を望んでいるにも関わらず離縁状を書かないのは、夫の恥とされた。
夫からの勝手な、一方的離婚の場合には、相当量の金銭を妻に持たせることもあった。
必ずしも、夫が好き勝手に、安易に離婚できる制度ではない。

当時は字が書けない人も多く、その場合は3本の線とその半分の長さの線を1本書くことで、離縁状の文言を書いたという取扱がされた。

三行り半とは、離縁状の俗称である。離縁状の内容を3行半で書く習俗があったことから、このように称されるが、必ずしも全ての離縁状が3行半であったわけではない。
“三行り半”の名前の由来は、奈良時代の律令に定められた棄妻(婿入婚における、夫からの一方的な離婚。放妻とも言う。)の際に用いられた書状“七出之状(しちしゅつのじょう)”の「七」を半分に割って三行り半という説、婚姻の際に妻の親元が出す婚姻許可状が7行の文書であることが多かったため、その半分の3行半にするという説などがある。


◎縁切寺

女性側からの離婚が困難であった当時、そこに駆け込むことによって離婚が達成された寺のことである。
鎌倉の東慶寺、上野国(現 太田市)の満徳寺などが有名だった。

夫側からの離縁状交付にのみ限定されていた江戸時代の離婚制度において、縁切寺は妻側からの離婚請求を受け付けて妻を保護し、離婚調停を行う特権を公的に認められていた。調停にあたっては、夫をはじめとする当事者を強制的に召喚し、事情聴取を行う。

縁切寺では女性用の駆込場所という性質上、女性の幸福を第一に考えて、まず妻方の縁者を呼んで復縁するよう諭させた。どうしてもそれを承知しない場合、離縁を成立させる方向で調停を進める。

この調停特権は幕府によって担保されており、当事者が召喚や調停に応じない場合、寺社奉行などによって強制的に引きずり出された。

この縁切寺の調停管轄は、日本全国に及び、どこの領民であっても調停権限に服するものとされる。

一般通念では、縁切寺で妻が離婚を勝ち取るために、尼として数年間寺入り(在寺)する義務があるように理解されているが、尼となるのは調停が不調となった場合の最終手段であって、実際には、縁切寺の調停活動により離婚が成立すれば、尼になることなく親元へ帰れた。

駆け込もうとする妻を連れ戻そうと、夫が追いかけてくるということもたびたびあった。
寺の敷地内である門から、妻の体が一部分でも内側に入れば、夫であっても連れ戻してはならないことになっている。また、体の一部ではなくとも、履いていた草履を投げて敷地内に入った、さらには投げた簪が門に刺さった場合なども、夫は妻を連れて帰ってはならなかった。

町役人の職務手引書には、「縁切寺から召喚状が送達された場合は、開封せず、速やかに夫に離縁状を書かせ、召喚状とともに返送せよ」と記されていたようである。







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