龍の声

龍の声は、天の声

「二・二六事件について③」

2017-07-08 06:21:39 | 日本

◎鎮圧へ


<26日>

事件後まもなく北一輝のもとに渋川善助から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も政治浪人亀川哲也からの連絡で事件を知った。真崎は加藤寛治大将と伏見宮邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。
午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。本庄日記によると、午前5時、本庄繁侍従武官長のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、さらに宿直中の侍従武官中島哲蔵少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。

昭和天皇への第一報は鈴木貫太郎の妻である鈴木たかよりの直接の電話であった。たかは皇孫御用掛として迪宮の4歳から15歳までの11年間仕えており親しい関係にあった。中島侍従武官に連絡をうけた甘露寺受長侍従が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」「まったくわたしの不徳のいたすところだ」と言って、しばらくは呆然としていたが、直ちに軍装に着替えて執務室に向かった。また半藤一利によれば天皇はこの第一報のときから「賊軍」という言葉を青年将校部隊に対して使用しており、激しい敵意をもっていたことがわかる。この昭和天皇の敵意は青年将校たちにとって最大の計算違いというべきで、すでに昭和天皇の意志が決したこの時点で反乱は早くも失敗に終わることが確定していたといえる。

襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で、5時20分頃事件を知った木戸幸一内大臣秘書長は、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長へ電話し、6時頃参内した。すぐに常侍官室に行き、すでに到着していた湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と対策を協議した。温厚で天皇の信任も厚かった斎藤を殺害された宮中グループの憤激は大きく、全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。青年将校たちは宮中グループの政治力を軽視し、事件の前も後もほとんど何も手を打たなかった。こうして宮中グループの支持を受けることができなかったことも青年将校グループの大きなミスであった。

午前5時ごろ、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れ、6時半ごろようやく川島義之陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古庄次官、真崎、山下を招致するよう命じた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古庄次官が到着した。

午前8時過ぎ、真崎甚三郎[、荒木貞夫、林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される。真崎と山下は陸相官邸を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。

26日早朝、石原莞爾大佐宅に、新聞班長である鈴木貞一中佐から電話があり、事件の概要を知らせてきた。その後、石原は軍事高級課員である武藤章中佐に電話をかけ「……いま鈴木から電話で知らせてきたが、三連隊の兵隊が一中隊ほど参謀本部と陸軍省を占領し、総理大臣と教育総監が殺されたそうだ。そちらには何か知らせがないか。こちらから役所に電話したが通じない……」と話し、直ちに参謀本部に出かけている。

歩兵第三連隊の麦屋清済少尉によれば、赤坂見付台上に張られた蹶起軍の歩哨線を、石原が肩を怒らせながら無理やり通行しようとしたため、蹶起軍の兵士たちは銃剣を突き付けながら「止まれ」と怒声を放ち、銃の引き金に手をかけている者もいたが、石原は少しもひるむことなく「新品少尉、ここを通せ!おれは参謀本部の石原大佐だ!」と逆に怒鳴り返してきた。麦屋は石原との間でしばらく押し問答を繰り返した後に、石原に近寄って「貴方はいま危険千万、死線はこれからも連続ですぞ!私は貴方を誰よりも尊敬しています。死線から貴方を守りたい。どうかここを通らないで、軍人会館のほうに行ってください。お願いです」とそっと耳打ちをしたという。麦屋の懇望に対してやっと顔を縦に振った石原は「お前たちの気持ちはよく分かっておる」と言い残して、軍人会館の方向に向かっていったという。

このほか、当時は参謀本部第1部第3課の部員であった難波三十四大尉(終戦時、近衛第1師団参謀長)が、「そろそろ薄明るくなってきた頃でしたが、どこから来たんじゃろう思うんですが、参謀本部第一部第二課、作戦をやる課ですな。そこの課長の石原莞爾大佐がひとりでふらふらとやってきました。そして日直の部屋から参謀次長の杉山元さんに電話をかけ、〝閣下、すぐに戒厳令を布かれるといいと思います〟とそれだけいうと、そのあたりを一巡して、また飄然としてどこかに行ってしまわれましたな。平然としたものでした。私たちには、まったく寝耳に水の出来事で何もわからなかったんですが、石原さんには誰かが知らせたんでしょうなあ」と証言している。

磯部浅一の『行動記』によれば、青年将校たちから「今日はお帰りください」と迫られた石原は「何が維新だ、何も知らない下士官を巻き込んで、維新がやりたかったら自分たちだけでやれ!」と一喝し、将校たちはそのあまりの剣幕に引き下がった。そして、執務室に入った石原に「大佐殿と我々の考えは違うところもあると思うのですが、維新についてどう思われますか?」と質問すると、「俺にはよくわからん。俺の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と答え、「こんなことはただちにやめろ、やめないと軍旗をもって討伐するぞ!」と再び一喝したとある。

山本又予備役少尉の獄中手記『二・二六日本革命史』によれば、陸軍大臣官邸前に現われた石原は「このままではみっともない、君等の云う事をきく」と山本に言ったとされ、官邸内で磯部・村中・香田に「まけた」と言ったとある。また、磯部が陸軍省軍務局の片倉衷少佐を撃った際の「白雪の鮮血を見驚いて」、「誰をやったんだ、誰をやったんだ」と叫んだ石原に、山本が「片倉少佐」と答えると「驚き黙然たり」だったという。ただし、片倉衷少佐によれば、片倉が事件発生を知って陸軍大臣官邸に入り、陸軍大臣に面会しようとした時点で、既に石原は陸軍大臣官邸内におり、片倉は「これは誤解に基づくものです」と述べたところ、石原は「誤解も何もこうなったら仕方がない。早く事態を収めることだ」と答えている。なお、片倉は反乱軍側の青年将校に対して「昭和維新はお互いに考えていることだ。俺も昭和維新については同じに思っている。しかし尊王絶対の我らは統帥権を確立しなければいかん。私兵を動かしてはいかん」と説論している。

この時、陸軍大臣官邸前の玄関には真崎大将が仁王立ちしており、石原は真崎に向かって「お体はもうよいのですか。お体の悪い人がエライ早いご出勤ですね、ここまで来たのも自業自得ですよ」と皮肉を交えて話しかけ、真崎は「朝呼ばれたのだから、まあ何とか早く纏めなければいかぬ」と答えている。この際、川島義之陸軍大臣と古荘幹郎陸軍次官が、真崎の左側に出て来て、古荘次官が石原を招いたが、この際に片倉は磯部浅一に頭部をピストルで撃たれている。このとき片倉は「ヤルなら天皇陛下の命令でヤレ」と、怒号を発しながら、部下に支えられて現場を立ち去っている。片倉はその後、銃弾摘出の手術が成功し、奇跡的に一命を取りとめている。

石原と皇道派の関係について、筒井清忠が真崎甚三郎と橋本欣五郎・石原の間に近接関係が構築されつつあったことや、北博昭も訊問調書などの裁判資料に基づいて、石原の蹶起軍に対する態度が他の軍首脳と同様にグラついていたことを指摘している。ただし、2月26日の夕刻に行われた石原と橋本の会談に関しては、橋本が「陛下に直接上奏して反乱軍将兵の大赦をおねがいし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する。この案をあなたはどう思いますか。」と質問し、これに対して石原が「賛成だ。やってみよう。だが、このことたるや、事まことに重大だ。僕一人の所存できめるわけにはいかぬ。いちおう参謀次長の了解を受けねばならぬ。次長はあの部屋にいるから相談してくる。待っててくれ」と言い残して席をはずして杉山元参謀次長の部屋に赴き、「ものの二十分もたったかと思うころ、(石原)大佐が帰ってきて杉山次長も賛成だからやろうじゃないか、ということに話がきまった」とされるが、杉山次長の手記には「賛成した」という表現はどこにもなく、実際は事件の早期解決を狙った石原が、「次長も賛成した」と橋本に嘘をついて、蹶起将校たちとの交渉を進めようとしていたことが指摘されている。ちなみに橋本は、石原との会談前の2月26日の夕刻に反乱軍が占拠している陸軍大臣官邸に乗り込み、「野戦重砲第二連隊長橋本欣五郎大佐、ただいま参上した。今回の壮挙まことに感激に堪えん!このさい一挙に昭和維新断行の素志を貫徹するよう、及ばずながらこの橋本欣五郎お手伝いに推参した」と、時代劇の仇討ちもどきの台詞を吐いたが、蹶起将校の村中や磯部たちには有難迷惑であり、体よくあしらわれて追い返されている。

26日、荒木貞夫大将に会った石原莞爾大佐は「バカ! おまえみたいなバカ大将がいるからこんなとんでもないことになるのだ!」と面と向かって罵倒し、これに対して「なにを無礼な!上官に向かってバカとは軍規上、許せん!」と、えらいけんまくで言い返す荒木に対して石原は「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ」とくってかかり、両者は一蝕即発の事態になったが、その場にいた安井藤治東京警備参謀長の取り成しで事なきを得ている。

真崎大将は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、海軍艦隊派の加藤寛治とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎大将と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。真崎大将は移動する車中で平沼騏一郎内閣案などを加藤に話したという。参内した伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である」と取り合わなかった。

午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。この時点で昭和天皇が反乱軍の意向をまったく問題にしていないことがあらためて明瞭になった。また正午頃、迫水秘書官は大角岑生海軍大臣に岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。

杉山元参謀次長が甲府の歩兵第49連隊及び佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。

午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。

正午半過ぎ、前述の荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された。

一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。正午、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。午後三時ごろ村上課長が書きかけの草案を持って陸相官邸へ車を飛ばし、草案を示して、維新大詔渙発も間近いと伝えたという。

26日午後3時に東京警備司令官香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した(7月18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、蹶起部隊は第一師団長堀丈夫中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。 午後3時、前述の告示が東京警備司令部によって印刷・下達された。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が
諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム

と「行動」に差し替えられてしまった。反乱部隊への参加者を多く出してしまった第一師団司令部では現状が追認されたものと考えこの告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする有様であった。 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。

一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突ヲ絶対ニ避クルコト
二、軍事参議官ハ積極的ニ部隊ヲ説得シ一丸トナリテ活溌ナル経綸ヲ為ス。閣議モ其趣旨ニ従ヒ善処セラル

前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。

午後になるとようやく閣僚が集まりはじめ、午後9時に後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。その後、閣議が開かれて午後8時40分に戒厳施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していたj。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。行政戒厳であった。

午後9時、主立った反乱部隊将校は陸相官邸で皇族を除いた荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校の鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉が列席した。磯部は手記においてこの時の様子を親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた』としている。「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」と真崎はいった。
26日午後、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が、宮中東溜りの間で開かれた軍事参議官会議を終えて退出する途中の川島義之陸軍大臣をつかまえて、事件の飛び火を警戒して日本全土に戒厳令を布くことを強く進言している。石原はすみやかに戒厳令を布いて反乱軍の討伐体制を整えようとしていた。その直後に宮中に居合わせていた内田信也鉄道大臣は、石原を始めとする幕僚たちの強弁で傲慢な態度を目撃しており、「夕景に至る頃おいには、陸軍省軍務局員や参謀本部の石原莞爾大佐らが、閣議室(宮内省臨時閣議室)の隣室に陣取り、卓を叩いて聞えよがしに、戒厳令不発令の非を鳴らし、激烈な口調で喚きたてていたが、石原大佐ごときは帯剣をガチャつかせて、閣議室に乗り込み強談判におよんで来たので、僕らは『統帥部と直接交渉は断然ことわる、意見は陸相経由の場合のみ受取るから……』と、はねつけた」と証言している。なお、このとき石原莞爾らが強引に推進した戒厳令の施行が、翌27日からの電話傍受の法的根拠に繋がっている。

なお当時、東京陸軍幼年学校の校長だった阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、然る後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。石原同様、阿南も陸軍内では無派閥であった。


<27日>

27日の戒厳令施行を受けて軍人会館に戒厳司令部が設立された
午前1時すぎ、石原莞爾、満井佐吉、橋本欣五郎らは帝国ホテルに集まり、善後処置を協議した。山本英輔内閣案や、蹶起部隊を戒厳司令官の指揮下にいれ軍政上骨抜きにすることなどで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた。
午前3時、戒厳令の施行により九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。

「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、長年信頼を置いていた重臣達を虐殺された天皇の怒りはますます高まり、午前8時20分にとうとう「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。

本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校共に赦しを与える必要などない」と一蹴した。奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。
午後0時45分に拝謁に訪れた川島陸相に対して天皇は、「私が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を伝達した。また午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。天皇の強硬姿勢が陸相に直接伝わったことと、殺されていたと思われていた岡田首相の生存救出で内閣が瓦解しないことが明らかになったことで、それまで曖昧な情勢だった事態は一気に叛乱軍鎮圧に向かうことになった。

午後2時に陸相官邸で真崎・西・阿部ら3人の軍事参議官と反乱軍将校の会談が行われた。この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ、原隊復帰をすすめた。相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。

午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。
午後5時。弘前より上京した秩父宮が上野駅に到着。秩父宮はすぐに天皇に拝謁したが、「陛下に叱られたよ」とうなだれていたという。これは普段から皇道派青年将校たちに同情的だった秩父宮の姿勢を昭和天皇が叱ったものだとする説が支配的である。

午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。

夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言った。


<28日時点の反乱部隊の占拠>

午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。午前5時、遂に蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、5時半、香椎浩平戒厳司令官から堀丈夫第一師団長に発令され、6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長が激しく反対したため「討伐」に意志変更した。

朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させ、国政全体を引き締めを内外に表明してはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。また午前9時ごろ、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長はふたたび反対し、武力鎮圧を主張した。

正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は「自殺するなら勝手にさせればよい。このような者共に勅使など論外だ」と非常な不満を示して叱責した。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。
自決と帰営の決定事項が料亭幸楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。

午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。 同時刻、皇居には皇族7人(伏見宮博恭王、朝融王、秩父宮、東久邇宮、梨本宮、竹田宮、高松宮)が集まり、一致して天皇を支える方針を打ち出した。

午後6時、蹶起部隊にたいする小藤の指揮権を解除(同第11号)。午後11時、翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう、司令部は包囲軍に下命(同第14号)。

また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議や説得の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。
一方の反乱部隊の側も、28日夜から29日にかけて、栗原・中橋部隊は首相官邸、坂井・清原部隊は陸軍省・参謀本部を含む三宅坂、田中部隊と栗原部隊の1個小隊は赤坂見附の閑院宮邸附近、安藤・丹生部隊は山王ホテル、野中部隊は予備隊として新国会議事堂に布陣して包囲軍を迎え撃つ情勢となった。

三方向から包囲された反乱部隊は抵抗のすべもなかった(29日)
29日29日午前5時10分に討伐命令が発せられ、午前8時30分には攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会東京中央放送局を憲兵隊で固めた。同時に投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した。午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告が放送され、また「勅命下る 軍旗に手向かふな」と記されたアドバルーンもあげられた。また師団長を始めとする直属上官が涙を流して説得に当たった。これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、安藤輝三大尉は自決を計ったものの失敗した。残る将校達は陸相官邸に集まり、陸軍首脳部は自殺を想定して30あまりの棺桶も準備し、一同の代表者として渋川善助の調書を取ったが、野中大尉が強く反対したこともあり、法廷闘争を決意した。この際野中四郎大尉は自決したが、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えた。同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。







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