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「庚申信仰とは、」

2021-03-22 08:00:57 | 日本

我が家の道路端に「庚申さま」の祠がある。
庚申さまとは?庚申信仰とは何かについて調べてみた。
以下、参考にされたし。


現在までに伝わる庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国の道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。


◎庚申

庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(えと)、すなわち十干・十二支の60通りある組み合わせのうちの一つである。 陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(同気が重なる)とされている。干支であるので、年(西暦年を60で割り切れる年)を始め、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。

この庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く上代に体系的ではないが移入されたとされている。
中国の道教が起源は、庚申信仰は十干十二支(じっかんじゅうにし)の暦のうえで、60日ごとにある庚申の日(かのえさるのひ)に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教えのひとつ、庚申待ちが起源といわれている。人の体内には、三尸(さんし)と呼ばれる虫がいて、庚申の日(かのえさるのひ)の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸(さんし)の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日(かのえさるのひ)は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった。
わが国では、平安時代以降に、貴族などの間で行われ、その後、仏教や神道などと結びついて庶民の間に広がり、江戸時代には最も盛んであった。


◎信仰と相互扶助を兼ねた庚申講

庚申信仰の盛んになった江戸時代には、村の中に庚申講ができ、庚申の日には、講中の家々を順番に「お宿」という集会所にした。部屋には庚申様(青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)などの絵)の掛け軸を飾り、供え物をし、米や野菜を持ち寄って、徹夜で飲食歓談をしたという。また、この場は、講中のいろいろな相談や農作業の知識・技術研究、また、無尽の集まりでもあり、信仰と相互扶助の両面を兼ね備えていたのである。庚申塔は、こうした講の結束や存在を互いに確かめ合うために建てられたともいわれている。


◎歴史

『入唐求法巡礼行記』838年(承和5年)11月26日の条に〈夜、人は咸く睡らず。本国の正月、庚申の夜と同じきなり。〉とある。。
平安時代の貴族社会では、この夜を過ごす際に、碁・詩歌・管弦の遊びを催す「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」と称する宴をはるのが貴族の習いであった。最も早い記録では清和天皇の代に貞観5年(863年)11月1日の庚申に宮中で宴がもたれ、音楽が奏せられている。9世紀末から10世紀の頃には、庚申の御遊は恒例化していた。やがて「庚申御遊」と呼ばれた平安時代末期には、酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた遊興的な要素が強くなった。鎌倉時代から室町時代になると、この風習は上層武士階級へと拡がりを見せるようになった。『吾妻鏡』(鎌倉幕府の記録書)にも守庚申の記事が散見される。また資料としてはやや不適切かとも思われるが、『柏崎物語』によると織田信長を始め、柴田勝家ら重臣20余人が揃って庚申の酒席を行ったとある。さらに度々途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めたとある。

やがて守庚申は、庚申待(こうしんまち)と名を変え、一般の夜待と同じように会食談義を行って徹宵する風習として伝わった。庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのではないかと推測される(いにしえのカミ祀りは夜に行うものであった)。
庚申待が一般に広まったのがいつ頃かは不明だが、15世紀の後半になると、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手で作られ、庚申信仰は仏教と結びついた。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され始めることになり、行いを共にする「庚申講」が組織され、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立され出した。また「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申(供養)塔」や「碑」には、「申待(さるまち)」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。
このように、本来の庚申信仰は、神仏習合の流れの中で、猿を共通項にした新たな信仰へと変化していることが伺われる。つまり、神なり仏なりを供養することで禍から逃れ、現世利益を得ようとするものである。やがては宮中でも、庚申の本尊を祀るという形へと変化が見られるようになった。

仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。大正時代以降は急速にその信仰が失われた。
とはいえ、この夜慎ましくして眠らずに過ごすという概念は、比較的よく受け継がれている。また男女同床せぬとか、結婚を禁ずるとか、この日結ばれてできた子供に盗人の性格があると恐れられたりする因習もある。また地域によっては、同志相寄って催す講も続けられている。それらは互助機関として機能したり、さらには村の常会として利用されたりすることもある。


◎青面金剛、猿田彦神

庚申信仰では青面金剛と呼ばれる独特の神体を本尊とするが、これは南方熊楠によればインドのヴィシュヌ神が転化したものではないかという。 石田英一郎によれば青面金剛にはまた馬頭観音(インドのハヤグリーヴァ)との関連性も見られるという。
庚申信仰はまた神道の猿田彦神とも結びついているが、これは「猿」の字が「庚申」の「申」に通じたことと、猿田彦が塞の神とも同一視され、これを「幸神」と書いて「こうしん」とも読み得たことが原因になっているという。
また庚申信仰では猿が庚申の使いとされ、青面金剛像や庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が添え描かれることが多かった。


◎今も残る庚申信仰

江戸時代に盛んであった庚申信仰は、文明開化による科学や医学の進歩などから、明治以後、次第に衰えていった。しかし、道端の庚申塔に花を供える人びとの姿も見られ、バス停に清水庚申の名が残るなど、かつての庚申信仰は、今なお私たちの身近に残っている。


◎庶民の祈り、円道寺の庚申講

・暦が庚申(かのえさる)の日 令和3年(2021年)

1月12日(火) ・ 3月13日(土) ・ 5月12日(水) ・ 7月11日(日) ・ 9月9日(木) ・ 11月8日(月)

・庚申参りの仕方

庚申講は、住職だけではなく、お参りされる方も一緒にお経をお唱える。

お経は基本的に曹洞宗のお唱えをしますが、最後のお経は「庚申真言(こうしんしんごん)」という庚申さま専用のお唱えである。
とはいえ、このお経はたった1行。
「おんこうしんれいこうしんれい まいたれや そわか」
これを21回繰り返す。

--庚申参りのお経--
三帰礼文
摩訶般若波羅蜜多心経 3回
妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈
消災妙吉祥陀羅尼  3回
庚申真言陀羅尼  21回

お経の最後に、住職が、お参りいただいた方のお名前と「心願成就」とお唱えします。「○○さんの心の中の願いがかないますように」という意味である。

お参り終了後に、本堂にテーブルを出し、しばし歓談(夜のみ)。

このときに、御供えした「庚申だんご」を皆でいただく。
庚申だんごは、ちょっと変わった形である。

よく見ると.....、庚申さまの使いであるお猿さんである。













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