龍の声

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「項羽と劉邦の壮大なるドラマ、その漢の三傑 張良・韓信・蕭何について学ぶ③」

2018-08-24 06:11:18 | 日本

<張良②>


◎楚漢戦

その後、項羽は根拠地の彭城(現在の徐州市)に帰り、反秦戦争の参加者に対する論功行賞を行った。これにより劉邦は巴蜀・漢中の王となる。劉邦が巴蜀へ行くに当たり、張良は桟道を焼くように進言した。桟道とは、蜀に至る険しい山道を少しでも通り易くするために、木の板を道の横に並べたものである。とりあえずの危機は去ったものの、劉邦はまだ項羽に警戒されており、何かの口実で討伐されかねなかった。道を焼いて通行困難にすることで謀反の意思がないことを示し、同時に攻め込まれたり間者が入り込めないようにしたのである。

劉邦が巴蜀へ去った後、張良は韓王成の下へ戻る。だが、項羽は韓王成が劉邦に味方したことを不快に思い、成を手許にとどめて韓に戻らせようとしなかった。そこで張良は項羽に「漢王は桟道を焼いており、大王に逆らう意図はありません。それより斉で田栄らが背いています」との手紙を出し、項羽はこれで劉邦に対する疑いを後回しにして、直ちに田栄らの討伐に向かった。

だが結局、項羽は韓王成を韓へは返そうとせず、最後には范増の進言で彭城で韓王成を処刑した。范増はかねてから劉邦を脅威に思っており、もし劉邦が東進してくれば恩義のある韓がまず協力するだろうと見たのである。このために張良は官職を辞して、間道を通じて逃亡して、すでに東進した劉邦と再会し、劉邦は張良の進言で亡き韓王成の遺体を丁重に埋葬して、韓王成の族子の信を探し出して、これを成信侯に封じた。張良はそれまでは劉邦にとって客将であったが、以後は正式に参謀として劉邦に仕えることになった。

劉邦はその後関中を占領し、東へ出て項羽の本拠地・彭城を占領するが、項羽の軍に破られて逃亡し、滎陽(河南省滎陽市)で項羽軍に包囲された。

包囲戦の途中、儒者酈食其が「項羽はかつての六国(戦国七雄から秦を除いた)の子孫たちを殺して、その領地を奪ってしまいました。大王がその子孫を諸侯に封じれば、みな喜んで大王の臣下になるでしょう」と説き、劉邦もこれを受け容れた。その後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来たので、酈食其の策を話した。張良は「(こんな策を実行すれば)陛下の大事は去ります」と反対し、劉邦が理由を問うと、張良は劉邦の箸をとって説明を始めた。張良は
「昔、湯王や武王が桀や紂の子孫を諸侯に封じたのは、彼らを制する力があったからです。今、大王に項羽を制する力がありますか? これが一つ目の理由です」
「武王は殷に入ると賢人商容の徳を褒め、捕えられていた箕子を釈放し、比干の墓を修築しました。大王にこのようなことができますか? これが二つ目の理由です」
「武王は財を放って困窮の者を援けました。大王にはできますか? これが三つ目の理由です」
「武王は殷を平定すると武器を捨てて戦をしないことを天下に示しました。今、大王にこれができますか? これが四つ目の理由です」
「武王は戦に使う馬を華山の麓に放ち、戦が終わったことを天下に示しました。今、大王にこれができますか? これが五つ目の理由です」
「武王は兵糧を運ぶ牛を桃林に放ち、輸送が必要ないことを天下に示しました。今、大王にそれができますか? これが六つ目の理由です」
「かつての六国の遺臣たちが大王に付き従っているのは、何か功績を挙げていつの日か恩賞の土地を貰わんがためです。もし大王が六国を復活させればみんな故郷へと帰ってそれぞれの主君に仕えるようになるでしょう。大王は誰と天下をお取りになるおつもりですか? これが七つ目の理由です」
「もし、その六国が楚に脅かされ、楚に従うようになってしまったら、大王はどうやって六国の上に立つおつもりですか? これが八つ目の理由です」
と答えた。劉邦は食べていた食事を吐き出し「豎儒(じゅじゅ=儒者を馬鹿にする言葉。酈食其のこと)に大事を潰されるところだった!」と慌てて策を取り止めた。

紀元前203年、劉邦と項羽は滎陽の北の広武山で対陣したが、食料が切れたので、和睦して互いにその根拠地へと戻ることになった。

ここで張良は陳平と共に、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言した。項羽とその軍は韓信と彭越の活躍もあって疲弊しているが、戻って回復すればその強さも戻ってしまう。油断している今を置いて勝機はない、と見たのである。劉邦はこれを受け入れ、韓信と彭越の2人の武将も一緒に項羽を攻めるように命令した。しかし、韓信と彭越はやって来ず、劉邦は固陵で項羽軍に敗れた。

張良は劉邦に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないからです」と答えた。劉邦は「彼らには十分禄は出している。韓信は斉王にしてやった」と言うも、張良は「韓信は肩書きだけで斉の地を与えたわけではありません。彭越も補給路を断つなどの活躍をしましたが、肩書きの一つでも与えましたか? それに、彼らも漢楚が争っているからこそ価値があるとわかっているので、争いが終わってしまえば自分たちはどうなるかと不安なのです」と返した。なおも納得ができない劉邦が「では、恩賞が少ないからと言って我々を見捨て、漢が滅びればどうなる? 彼らも滅びてしまうではないか。それに天下が定まらない状況で恩賞など出せるか」と問うと、張良は「彼らは漢が滅びるとは思っていません。功績と恩賞が見合っていないと思っているのです。先の戦で大王は天下の半分をお取りになりました。それは一体誰のおかげですか? 大王の『恩賞は天下が定まってから』というお考えはよく理解できますが、天下の人々には『劉邦は天下の半分を取りながら恩賞を出し惜しんでいる』としか見えません。私は大王が物を惜しんでいないのはよく存じております。しかし、天下の人々にもそう見えなければ意味がありません。だから彼らも、恥じることも悪びれることもなく動かなかったのです」と答えた。

これに劉邦も納得し、両者に対して戦後も韓信を斉王に、彭越を梁王に封じる約束をし、喜んだ両者の軍を合わせて項羽軍を垓下に包囲し、項羽を討ち取った(垓下の戦い)。


◎天下統一後

遂に項羽を滅ぼした劉邦は皇帝に即位し(高祖)、臣下に対して恩賞を分配し始めた。張良は野戦の功績は一度もなかったが、「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」と高祖に言わしめ、3万戸を領地として斉の国内の好きな所に選べといわれた。しかし張良は辞退して「私はかつて陛下と初めてお会いした留をいただければ、それで充分です」と答え、留に封ぜられ、留侯となった。

高祖は功績が多大な家臣を先に褒賞し、後の者はそれから決めようとしていた。ところがあちらこちらで家臣らが密談をしているところを目撃した。高祖が張良に彼らは何を話しているのかと聞いたところ、張良は「彼らは謀反を起こす相談をしているのです」と答えた。驚いた高祖が理由を問うと、「今までに褒賞された人は、蕭何や曹参など陛下の親しい人ばかりです。天下の土地全てでも彼ら全てに与えるだけはなく、彼らも忠義などではなく恩賞を求めて仕えてきたのです。彼らは陛下に誅殺されるのではないかと恐れ、ならば謀反を起こそうかと密談しているのです」と答えた。高祖が対策を問うと、張良は「功績はあるが陛下が一番憎んでおり、それを皆が知っているのは誰ですか」と聞いた。高祖は「雍歯だ。昔に裏切られ大いに苦しませられ、殺したいほど憎い。だが功績があるから我慢している」と答えた。張良は「ならば雍歯に先に恩賞を与えれば、皆は安心しましょう」と進言し、高祖がその通りに雍歯の恩賞を発表すると、皆は「あの憎まれている雍歯ですら賞されたのだから、自分にも恩賞が下るに違いない」と安堵し、あちこちの密談はぴたりと止んだ。

洛陽を都にしようとしていた高祖に対し、劉敬(婁敬)が長安を都とするよう進言した際には、張良も洛陽の短所(周囲が開けているため、攻められやすく守り難い)と長安の利点(天険に囲まれ防衛が容易)を述べて劉敬に賛成し、長安に決定させた。


◎神仙術

張良は元々病弱であったが、体制が確立されて以後は病気と称して家に籠るようになった。その中で導引術の研究に取り組み、穀物を絶って特殊な呼吸法で体を軽くし、神仙になろうとした。

しかし、高祖の死期が近づくと、劉邦の愛妾・戚氏がその子・劉如意を皇太子にしようと画策し始める。劉邦もその気になったため、既に皇太子に立てられていた劉盈(後の恵帝)とその母・呂雉は危機感を抱いて、長兄の呂沢を留に派遣させて、張良に助言を求めてきた。張良の助言を聞いた呂沢は妹に報告した結果、高祖がたびたび招聘に失敗した高名な学者たち、東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公 を劉盈の師として招くように助言し、これらの学者たちは劉盈の師となった。

高祖はたびたび招聘しても応じなかった彼らが劉盈の後ろに居ることに驚き、何故か聞いた。彼らは「陛下は礼を欠いており、我らは辱めを避けるため応じませんでした。ですが、皇太子殿下は徳も礼も備えており、人民も慕っているとのこと。なので参内したのです」と言った。高祖は劉盈を改めて認め、皇太子の更迭は取り止められた。
呂雉は張良に恩義を感じており、特殊な呼吸法で体を軽くしようとしていることを聞いて「人生は一回しかなく、短く儚いものなのです。なぜ留侯(張良)はご自身を苦しめられるのですか?」と述べて、張良に無理してでも食事を摂らせたので、張良は仕方なく呂雉の言うとおりに食事を摂った。

高祖の死の9年後の紀元前186年に死去し、文成侯と諡された。子の張不疑が後を継いだ。


◎末裔

死後、子の不疑が留侯の地位を継いだ。張不疑は紀元前175年に不敬罪で侯を免じられ、領地を没収された。その後、『漢書』「高恵高后文功臣表」によると、張良の玄孫の子である張千秋が、宣帝時代に賦役免除の特権を賜った。また『後漢書』「文苑伝」によると張良の後裔に文人の張超が出た。このほか、益州の人で、後漢の司空張晧、その子で広陵太守の張綱、その曾孫で蜀の車騎将軍の張翼らが張良の子孫を称している(『後漢書』張晧伝・『三国志』張翼伝)。