項羽は、楚の名門将軍の血筋。
秦に反旗を翻した陳勝の乱に乗じて、伯父の項梁とともに秦を倒すために旗揚げします。
彼は始皇帝を見て、「いつかあいつに代わって天下を取る」と豪語するような人物でした。
劉邦は沛県の農民。怠け者ですが人望がありました。
彼は始皇帝を見て、「男と生まれたからにはああいう身分になりたい」と控えめにいうような人物でした。
劉邦も、彼を後押ししてくれる仲間達に担がれる形で、秦打倒のために挙兵します。
項梁は、秦打倒の旗頭にするため、懐王(楚王)の孫である「心」を担いで楚王とします。
秦打倒軍の名目上の大将である、楚王の元に終結した項羽と劉邦ら反乱軍は、「先に関中(現在の西安)に入った者が王である。」
という言葉を受けて、秦軍と激戦を繰り広げながら、二手に分かれて秦の都「咸陽」を目指して西進します。
項羽は、力で相手をねじ伏せ、自ら先頭に立って無敵の強さを誇りますが、鉅鹿(きょろく)の戦いでは、背水の陣をしいて兵士達を死に物狂いにさせたり、投降した秦兵20万人を虐殺したりしますが、戦う相手は秦最強の軍ばかりとぶつかり、思うように前に進めません。
劉邦は、張良ら優秀な軍師、武将らをうまく使いながら慎重にことを進め、殺戮を極力避け、地位の保全など慰撫に勤めたので行軍もスムーズに進み、項羽より先に「咸陽」に到達します。
劉邦は張良らの進言を素直に聞き、略奪や破壊を控え、秦二世皇帝を平和裏に退位させ、秦帝国は14年で幕を下ろします。
咸陽入りの先を越され激怒した項羽は、劉邦へ攻撃を計画しますが、項羽の本陣へ釈明(鴻門の会)に来た劉邦に機先を制され、危険視した項羽の軍師、范増の諫言を聞かず、范増による剣舞にかこつけての劉邦暗殺を、樊[ロ曾]の命がけの防御などで乗り切り、項羽は結局劉邦を許します。
范増は「青二才と天下の計を論じることはできぬ。」と言い捨て、やがて、項羽の下を去ります。
項羽は、遅れて咸陽に入り、殺戮破壊の限りを尽くし、阿房宮の焼き討ちや、始皇帝陵墓の盗掘を行い、秦王一族も皆殺し、項羽は秦亡き後の絶対権力者となります。
その後、諸侯への論功報酬で、旗揚げ時の旗印とした懐王を義帝とし、僻地の長沙に移す途中で殺害し、関中一番乗りの王の約束は反故にされ、劉邦は、西の外れの漢中王に封じられます。
しぶしぶ従った劉邦は、韓信らの人材を集め、張良らの助力で力を蓄え、反抗の機会をうかがいます。
韓信は劉邦に命じられて北方を攻め、行きがかり上斉王となり、半独立します。
項羽に反感を抱く英布や彭越、第三勢力として台頭著しい韓信らを味方につけた劉邦は、満を持して項羽と戦います。
鬼神のごとき項羽に負け続けますが、後方支援を充実させ計画的な戦いを繰り返す劉邦(漢)軍は、次第に、項羽のワンマン軍である楚軍を垓下(がいか)に追い詰め、楚軍の投降などの内部瓦解で、項羽に包囲している敵の中に回りに、自分の味方と思っていた楚軍の歌が聞こえた時自分の終わりを悟らせて、(四面楚歌)の状況に追い込み、ついに、烏江で項羽を討ち取ります。
その後、劉邦は漢帝国を築きますが、武勲のあった「韓信」、「英布」、「彭越」は、各所に王として封じますが、難癖をつけ、謀反を起こさせては討伐を繰り返して、劉邦の死後、権力を握った呂后らに引き継がれながら、劉一族による支配体制を確立させていきます。