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「ミッドウェー海戦③」

2018-08-02 06:30:12 | 日本

真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦。太平洋戦争で日本史の教科書に必ず出てくる2つの戦い。この2つの戦いを共に指揮した南雲忠一(なぐも ちゅういち)提督について学ぶ。


南雲 忠一(なぐも ちゅういち)1887年(明治20年)3月25日 山形県米沢市生まれ。
海軍に入り、軽巡洋艦「那珂」重巡洋艦「高雄」戦艦「山城」などの艦長等を経て、太平洋戦争の開戦となる真珠湾攻撃では主力空母部隊の指揮官に任命され、戦艦4隻撃沈などアメリカ太平洋艦隊に甚大な打撃を与えることに成功する。しかし被害を恐れ修理ドックなどを標的とした第二次攻撃を行わず、不十分な攻撃だったと批判もある。
その後はオーストラリアの北にあるソロモン諸島で起きた第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦でも空母部隊の指揮を執り、1944年6月のサイパンの戦いでは海軍陸戦隊を指揮し44年7月6日自決した。
 
事実だけを見て悪くいってしまえば、奇襲なのに消極的な真珠湾。準備不足なのに慢心してたミッドウェー。負けたのにその後もそのまま空母指揮してる。


◎南雲提督への同僚の方々のコメント

参謀長の草鹿少将「繊細、人情に厚い」
航空参謀の源田実大佐「情愛がこまかく、思いやり深い」
総飛行隊長の淵田中佐「開戦してからは以前より闘志が減ったけど、前よりやさしい」

草鹿龍之介少将(弟子から全日本剣道連盟会長が出る程の剣豪)に励まされても、「君は楽天家だねぇ、羨ましいよ」 
真珠湾への道中では、不安そうに空母赤城の甲板にいた南雲さんに飛行隊長の村田重治少佐が「何も心配するこたないですよ。一言、やれって言ってくれれば、それで良かですよ」と20歳以上年下の少佐に励まされる南雲中将。


◎南雲提督の最後の戦い
ソロモン諸島での戦いの後、空母部隊は、小沢治三郎(おざわ じさぶろう)提督が指揮することになり(小沢提督は最後の連合艦隊司令長官を務める人物、南雲さんとは飲み友達)
南雲提督は、『中部太平洋方面艦隊司令長官兼第十四航空艦隊司令長官』なる役職に就くが、第十四航空艦隊はすぐに別の部隊へ移る等ほとんど有力な戦力のない部隊だった。
 南雲提督は家族に「今度は帰らない」と告げ、任地であるサイパンに出征した。
 戦況はすでに圧倒的に不利で1944年6月15日から米軍のサイパン攻撃が始まり、1944年7月6日、南雲忠一提督は日本の方角を向き自決し、7月9日にサイパンは陥落した。
 最後の言葉は介錯役の副官の「よろしうございますか」に対しての「どうぞ」だった。


<了>