龍の声

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「宿命の治水は江戸時代から始まった」

2018-08-03 05:54:48 | 日本

竹村公太郎さんが、水害はまた起きる、長期戦覚悟で安全な土地への撤退戦を!について掲載している。
以下、要約し記す。



西日本を襲った「平成30年7月豪雨」は土砂崩れや河川氾濫などを引き起こし、200人以上の死者、3万戸以上の家屋の浸水といった甚大な被害をもたらした。政府や自治体は豪雨対策の強化を進めているが、同様の災害はまた起こり得る。日本の治水は根本的な問題点を抱えているからだ。元国土交通省河川局長の河村公太郎氏(日本水フォーラム代表理事)が、歴史的観点から日本の都市の危険性と未来に向けての解決策を解説する。


◎日本の平野の原風景
 
日本は極めて特異な文明を創ってしまった。日本列島の中央を走る脊梁山脈から流れ出る河川の沖積平野に都市を造ってしまった。
 
沖積平野とはかつて海や湖だったところに、河川が運ぶ土砂が堆積した平地である。そこは肥沃であったが、洪水に対して極めて危険な土地であった。
 6000年前の縄文前期、地球の温度は現在より平均で約5℃高かった。そのため大陸の氷河は融け、温度の高い海水は膨張し、海面は現在より約5m上昇していた。いわゆる縄文海進と呼ばれている現象である。

海面をコンピューターで5m上昇させて作成したもので、6000年前の縄文前期の関東地方の地形を表している。東京湾の海水は関東の奥深く、栃木県と群馬県の県境の渡良瀬遊水池の近くまで達していた。

その後、地球は寒冷化して、海面は現在と同じ高さまで下がっていた。かつて海だったところに利根川、渡良瀬川、荒川そして多摩川が流れ込んでいた。数千年間、その河川群が運んできた土砂が堆積し沖積平野を形成していた。ただし、この平野は、雨が降れば上流から河川の水が流れ込み、東京湾の海水の侵入と混ざり合い、何カ月も水が引かないままの不毛の大湿地帯であった。
 この姿は関東平野だけではない。日本列島のすべての沖積平野がこの姿であり、戦国時代までは不毛の大湿地帯であった。この不毛な大湿地帯が、江戸から21世紀までの近代日本の舞台となった。


◎自由に暴れていた日本の川
 
1600年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となり、1603年に江戸に幕府を開いた。この家康は200以上の戦国大名たちを統制するのに巧妙な手法を使った。それは日本列島の地形の利用であった。
 
日本列島の地形は海峡と山々で分断されていて、脊梁山脈からは無数の川が流れ下っていた。この日本列島の地形の単位は流域であった。家康は、この各地の流域の中に大名たちを封じた。
 
戦国時代は流域の尾根を越えた領土の奪い合いであった。しかし、江戸時代は尾根を越え膨張する領地拡張は許されなかった。

全国の河川は制御されることなく自由に暴れていた。特に、河川の下流部では、川は何条にも枝分かれ、乱流しながら沖積平野を形成していた。そのどの沖積平野も真水と海水がぶつかり合った湿地帯となっていた。
 
流域に封じられた大名たちと日本人は、外に向かって膨張するエネルギーを、内なる流域に向けていった。人々は力を合わせて扇状地と湿地帯に堤防を築いていった。その堤防の中に、自由に暴れまくる何条もの川を押し込めていった。


◎江戸時代に増加した「富を生む」土地
 
何条もの川を堤防に押し込めた目的は、はっきりしている。川が乱れ流れる不毛な湿地帯を、農耕地にすることであった。川を堤防の中に制御できれば、農耕地が生れ、富を拡大することができる。
 
江戸時代、全国の沖積平野でこのように堤防が築かれ、何条にも暴れる河川を、堤防の中に押し込んでいく作業が行われていった。
 この江戸時代の流域開発によって、日本の耕地は一気に増加した。各地の米の生産高は上昇し、それに伴って日本人口は1000万人から3000万人に増加していった。

平安から鎌倉、室町そして戦国時代にかけて、日本の耕地面積は横ばいであり、増加していない。ところが、江戸になると一気に耕地面積が増加している。流域に封じられた大名たちが、堤防を築造し、河川を堤防に押し込めることで、耕地の増加を実現したことが分かる。

この流域開発によって、日本人は富を生む新しい土地を得た。しかし、この土地の下に住んでいる旧河道のヤマタノオロチは危険極まりなかった。洪水で水位が上昇すると、堤防のどこで水が噴き出るか分からない。水が噴き出せば堤防の土は流出し、一気に堤防は破堤していく。
 
富を守るための戦いが始まった。洪水から自分たちの田畑や住居を守る戦いであった。足元に眠るヤマタノオロチとの戦いであった。


◎治水は江戸時代の日本の宿命となった。

幕末、欧米列国が鎖国する日本に迫った。その圧力に押され日本は開国し、富国強兵の旗印の下に、近代国家に変身しなければならなかった。水産加工から繊維産業そして重化学工業へと近代産業が発展していった。近代工業の勃興と発展には、広い土地と労働力が必要であった。

原料の輸入と製品の輸出に頼る工場は、海に近い沖積平野に建設されていった。工場に全国から人々が集められ、沖積平野は住宅地がスプロール的に増殖していった。
 
日本人はこの都市に集中して力を合わせ、日本を世界最先端の近代国家に変身させていった。ところが、日本の社会制度や産業経済は近代化したが、日本列島の地形は変わったわけではない。沖積平野にスプロール的に展開された都市は、極めて危険な洪水にさらされることとなった。日本の近代文明は極めて脆弱な沖積平野の上に形成されてしまった。
 
日本の国土利用状況は日本の国土で、67%が山地、20%が安全な台地。10%が洪水が氾濫する沖積平野などの低平地である。その10%の低平地に50%の人口が集中し、75%の資産が集中してしまった。

沖積平野は、危うい堤防で守られていて、どの堤防の下にも旧河道という大蛇が住み着いている。旧河道のどこから水が噴き出すか分からない。日本中のほとんどの堤防は江戸時代に造られた。その堤防は人力で造られた貧弱な堤防であった。


◎近代日本の治水の宿命
 
明治、大正そして戦後の昭和にかけて、急激に発達した日本各地の都市を、毎年のように洪水が襲った。何百人、何千人の単位で、日本人の命は木の葉のように奪われていった。
 
国と地方行政は、限られた予算の中で、懸命に堤防を強化した。遊水池を造り、上流でダムを建設し、水害を防ぐ努力をした。20世紀末になると、ダムはムダ、公共事業はムダ、という声が上がり、もう洪水に対する危険は去ったかのような風潮が広まっていった。
しかし、21世紀に入ると、自然の脅威は津波や気象の狂暴化の姿をとって、日本人に襲い出してきた。
 
2011年3月11日、東日本大地震の津波が東北を襲った。2015年9月10日、首都圏の一級河川の鬼怒川が破堤した。2018年7月西日本を豪雨が襲い200人を超える犠牲者を出してしまった。津波や洪水が激しく家々を飲み込んでいく姿が、テレビ映像として全国に発信された。日本人は、改めて自分たちが脆弱な国土に生きていることを知った。


◎余儀なくされる安全な土地への撤退戦

地球温暖化とともに、未来の気象はますます狂暴化していく。
国連気候変動の政府間パネルにおける気温上昇の予測図の100年後の気温上昇グラフは、上に凸となっている。つまり、100年後の気温上昇は落ち着く方向を示している。


 ところが海面上昇は異なる。つまり、海面上昇は100年後から本格的に開始されると予測されている。ひとたび海面上昇が開始されるとそれは螺旋状に進行して、何百年間、何千年間も継続していく。

海面上昇は海に面した日本の沖積平野に対して、最も重大な危機をもたらしていくこととなる。
 
日本人はこの日本列島の中で、永遠に生きていかざるを得ない。
 
自然災害の脅威は人間の事前の想定をあっさりと超えていく。河川堤防の強化、遊水池の建設、ダムの再開発など着実に進めていかなければならない。しかし、何百年先を見通すと、日本列島の安全は点と線だけでは守れないことは明白である。
 
未来の日本列島の人々を守っていくには、国土の土地利用の見直しという面的な政策が不可欠となっていく。
 
江戸時代以降400年間で危険な日本列島を創出してしまった。未来の日本は400年間かかって安全な土地への撤退戦を余儀なくされる。
 
未来世代においても、治水は日本の宿命となる。